ユーゴ内戦を招来した排外主義、民族主義、歴史修正主義

これまで、ユーゴ内戦までの簡単な通史(ユーゴスラヴィア戦争前史~緩やかな連邦制は如何にして瓦解したか)、経済的破綻(ユーゴスラヴィア内戦勃発要因としての経済崩壊のプロセス)、混乱に陥らせた組織犯罪者たち(ユーゴ紛争の殺戮者ジェリコ・ラジュナトヴィッチと民兵アルカン・タイガーボスニア内戦でボスニア軍司令官になった三人の組織犯罪者)についてそれぞれ紹介したが、今回はユーゴ内で台頭していった民族主義、排外主義、そしてそれらを推し進める土台となった歴史修正主義的傾向の誕生について簡単に紹介する。

旧ユーゴスラヴィアを泥沼の内戦に陥らせた最大の要因の一つに排外主義的民族主義の台頭がある。

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1)ユーゴ諸民族の登場

旧ユーゴは「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と呼ばれるように多民族連邦制国家として誕生したが、ユーゴを構成する諸民族は元をたどると南スラブに住んでいた人々が一九世紀にそれぞれ欧州のナショナリズムの影響を受けつつ民族意識を高揚させることで誕生したものだ。五つの民族と言うが、実際はもっと多い。

一八〇四年からの「第一次セルビア蜂起」は軍閥化したイェニチェリへのセルビア地方の住民による反乱として始まったが、その抵抗運動を契機として彼ら南スラブの東方正教徒の間にセルビア民族意識が芽生えていった。一方、クロアチア地方は古くからハプスブルク家の支配下にあったが、一八三〇年頃からドイツ・ロマン主義の影響を受けて知識人の間に古代イリリア人の末裔という意識が生まれ民族再生運動が展開、南スラブのカトリック教徒を中心にクロアチア民族意識が醸成される。ボスニア地方はオスマン帝国の支配下にあったが一八七八年のベルリン条約でオーストリアの支配下に入ると、その圧政に抵抗するため、同時期に独立したセルビア王国や民族運動を展開するクロアチア人の影響受けて、イスラム教徒の間に民族としてのムスリム人(後のボシュニャク人)意識を産みだしていった。他、オーストリア領スロヴェニア地方の人々にはスロヴェニア人意識が、オスマン、オーストリア両勢力の狭間で小国として独立を守っていたモンテネグロ王国の住民にはモンテネグロ人意識がそれぞれ一九世紀中期から後期にかけて芽生えていく。

セルビア人・クロアチア人などによる南スラブ統一運動と二つの大戦を経て、チトー率いる共産党パルチザンによって建国されたユーゴスラヴィアは、南スラブ諸民族の対立はパルチザン戦争を経て克服され一体性が生まれたという体裁で諸民族の総体としてのユーゴスラヴィア人という概念を広げ、民族主義的な言動は禁止されたが、一方でソ連型の多民族共存の連邦制を採り、次第に分権化を加速させていった。

2)排外主義を叫ぶエリート

ユーゴは六共和国を構成する主権民族の平等を原則とし、住民の民族比に応じてポストが配分され、多数派の民族による権力集中を阻止するための輪番制が中央の議会や政治機構から地方自治体、企業に至るまで徹底される。平等を原則としていたので民族間の待遇に格差は無かったが、行政の各サービス、選挙、昇進、就職の機会に至るまで、生活の様々な局面で民族帰属が問われることになり、醸成されつつあったユーゴスラヴィア国民という一体感より、各民族帰属の方を否応なく意識させられることとなる。

『この特徴はエリートになればなるほど切実なものであった。党幹部の出世は、民族帰属に対応した行政的枠組みに沿って進むし、社会的上昇の回路も民族に規定されていた。門地や財産による差別がない分、教育が社会的上昇の重要な回路であったが、これを統括するのは自治体と共和国であり、農村から都市への移住も共和国や民族の枠組みを超えることはなかった。この問題は先に述べたような縁故主義とも結び付いていた。慢性的な職不足の中で、農村からでてきた新参者は、出身地や血縁に頼って職探しをしなければならず、古い紐帯が再生産された。このような形でエリートたちは民族帰属の恩恵を受け、民族主義の重要性を痛感したのである。

分権化の推進勢力が民族主義に結び付きやすかった理由もここにあった。地方への権限移譲は利権と結び付いた地方ボスたちの力を強化するため、彼らが構成する共和国の共産党支部全体の利益に適うのである。こうして、エリートたちは「民衆よりも、いっそう排外的なナショナリスト」として振る舞うことになった。』(佐原P75)

このように平等の理念とは裏腹に民族主義的に振る舞うことが利益に適うという構造的問題は、経済的破綻によって分配されるパイが著しく少なくなると表面化し、より強化されていくことになり、やがて連邦の諸制度の解体を加速させ、無秩序化を招来する要因となった。

強大な独裁者であり諸民族の調停者として君臨していたチトーが死に、連邦の政治機構が停滞し、経済的行き詰まりが露呈することで、中央政府の統制力が低下すると禁止されていた民族主義・排外主義的言説が徐々に自由に語られることになる。

3)歴史修正主義の浸透

八〇年代から九〇年代初頭のセルビア、クロアチアを始めとする各共和国で共通して見られたのは民族の歴史に関する修正主義的傾向であった。

一九四一年、第一次大戦後の戦後処理で独立を勝ち取っていたユーゴスラヴィア王国はドイツ軍の侵攻を受けて崩壊、セルビア地域にはナチス傀儡政権であるミラン・ネディチによる「セルビア救国政府」、クロアチア地方にも同様に傀儡国家「クロアチア独立国」が樹立された。ここで悪名を轟かしたのがクロアチア独立国総統ウスタシャである。彼はナチス思想を模倣し、クロアチア人はアーリア人種であるというレトリックで、多民族の絶滅に乗り出した。ウスタシャ特殊部隊によってセルビア人、ボスニア人を始めユダヤ人やロマ民族などおよそ八〇万人が虐殺された。

このウスタシャ=ナチス連合への抵抗運動としてチトーによる共産党パルチザン運動、セルビア人運動である旧ユーゴ王国大佐ドラジャ・ミハイロヴィチによる「チェトニク(セルビアの伝統的な匪賊)」などが起こり、激しい戦闘の末に第二次大戦終結とともにウスタシャ政権は瓦解、多民族共存のユーゴスラヴィアが建国された。虐殺への抵抗運動とはいえチェトニクは大セルビア主義を唱えていたことから、セルビア人の保護を第一とし、むしろ他の民族と争うことも少なくなく、チェトニクによるムスリム人等他民族に対する虐殺事件などもたびたび起きていた。

このような第二次大戦中の対立の記憶は多民族共存の名の下に禁忌として封印されていたが、これが八〇年代に歪んだ形で書き換えられて「集団的記憶」として語られるようになる。

■セルビアの歴史修正主義

セルビア民族主義者の主眼は第二次大戦が悪のウスタシャ=ナチス連合に抵抗する正義のチェトニクという構図の創造であり、セルビア民族は歴史上常に犠牲者の立場に置かれてきたとするものだった。セルビア人だけがジェノサイドの犠牲者であるのだという言説が横行する。第二次大戦中の虐殺者の墓が次々掘り起こされ、民族の悲劇として語られ、戦時中の虐殺被害者数の多寡は論争(「ヤセノヴァツ犠牲者論争」)の重要な論点となり、クロアチアで台頭していた民族主義はウスタシャの再来であるとされ警戒心が煽られた。

セルビア民族主義に火をつけたのは一九八五年の「マルティノヴィチ事件」である。コソヴォのセルビア人農夫ジョルジェ・マルティノヴィチ(五六歳)が肛門にビール瓶の破片が複数突き刺さった状態で病院に搬送され、本人の証言が二転三転する。二人組のアルバニア人に襲撃された、という証言がマスコミに流れると、国内で反アルバニア感情に火が付き、アルバニア人への襲撃や暴行事件が多発、オスマン帝国下の串刺し刑を彷彿とさせたことから、ムスリムに対しての怒りを人々に抱かせることとなった。この事件の真相は、マルティノヴィチが肛門を使った自慰行為中の事故であったことが後に明らかになったが、この笑い話にするには余りに馬鹿馬鹿しい話がセルビア国内の民族主義的言説を沸騰させることとなった。

ユーゴスラヴィアの戦争は、数年前にひとりの罪もないセルビア人の農夫の尻の穴から始まった」とは、クロアチア人作家ドゥブラヴカ・ウグレシッチの言である。

絶対的に犠牲者であり続けたというシオニズムにも通じる意識は、ジェノサイドを予防するために自衛せねばならないというロジックへと結び付く。クロアチア人やムスリム人からユーゴスラヴィア中のセルビア人を守るため戦わねばならないという戦闘的民族主義が台頭していった。

■クロアチアの歴史修正主義

クロアチアでも、歴史修正主義が顕著であった。その最大の論点は第二次大戦中の「クロアチア独立国」の扱いである。一つはウスタシャを愛国者とし虐殺を隠蔽するもの、もう一つは「クロアチア独立国」が当時の周辺状況を鑑みて自衛のためにやむを得ず作られたもので、ジェノサイドの犠牲者も三~四万人に過ぎないとするものだった。

さらにエスカレートすると、クロアチア人犠牲者説が飛び出してくる。チェトニクこそ「大セルビア主義」の推進に熱心なファシストで、ナチスと同様に組織的に虐殺を行った殺人者集団であり、それに対抗するためにウスタシャはやむを得ず虐殺を行ったとする。さらにパルチザンによるクロアチア人虐殺が喧伝されるようになり、クロアチア人犠牲者三〇万人という根拠のない数字が独り歩きしていった。
特に、メディアの腐敗がこの民族主義の台頭に力を貸したという。佐原著に前述の作家ウグレシッチの言として以下のメディア評が紹介されている。

『メディアは、腐敗したユーゴの体制から出てきて、古い習慣に根を下ろしていたので、嘘をまんまと合法化することができた。嘘は政治メディアにおける効用から、次第に戦争の戦略にまで拡大され、そうしたものとしてまもなく道徳的に正当化されるようになった。あるクロアチアのジャーナリストは「祖国のためならば、嘘も辞さない」と宣言し、これによって自分が同業者のなかで高く格づけされることをめざした。すっかり転倒した価値体系のなかでは、嘘は受け入れ可能な様式であるだけでなく、積極的な行動様式にまでなっている。』(佐原P161-162)

隣人を憎むことが奨励され、隣人を怖れることが当たり前という空気が支配的となり、猜疑心が猜疑心を呼ぶスパイラルに社会全体が陥っていく。普通の人々は「何故お前は敵を憎まないのか」と糾弾され、表向き取り繕ううちに、知らず知らず、自身も憎悪の虜になっていく。あとは誰かが「殺せ」と叫ぶだけだ。

市民同士の凄惨な殺し合いとなった内戦へ、誰が意図するでもなく、突き進まざるを得ないように着々と社会全体が袋小路に陥っていく。

参考書籍・サイト
・佐原 徹哉 著「ボスニア内戦 [国際社会と現代史] (国際社会と現代史)
・柴 宜弘 著「ユーゴスラヴィア現代史 (岩波新書)
・塩川 伸明 著「民族とネイション―ナショナリズムという難問 (岩波新書)
・山内 昌之 著「帝国とナショナリズム (岩波現代文庫)
クロアチア独立国 – Wikipedia
ジョルジェ・マルティノヴィッチ事件 – Wikipedia

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