「忠臣三浦胤義遺孤碑」~なぜ彼は承久の乱で鎌倉幕府を裏切ったのか?

忠臣三浦胤義遺孤碑
逗子の忠臣三浦胤義遺孤碑

承久三年(一二二一)の承久の乱で、後鳥羽院方に付いて敗死した三浦胤義の遺児たちが田越川河畔で処刑されたとする故事に従って、大正二年(一九一三)に地元の有志によって建てられた三浦胤義の遺児たちを弔った慰霊碑。京浜急行新逗子駅裏、田越川のほとりの駐車場の一角にひっそりと佇んでいる。設置当時の皇国史観が広がっていた社会を反映して天皇についた忠臣とされている。

胤義は鎌倉政権で北条氏に次ぐ勢力を誇った三浦氏の一族で当主義村の弟にあたり、稀代の謀略家として知られた義村の右腕として畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦など数々の合戦や政略に力を発揮した人物である。建保六年(一二一八)からは検非違使尉として京都の治安維持の責任者の地位にあった。かつて源義経がこの地位を与えられ源氏の誉とまで喜んだ要職である。

胤義が承久の乱に際して後鳥羽院方の軍事の総大将として、鎌倉幕府に弓を引くに至ったのは、源実朝暗殺後の将軍後任人事に端を発していた。実朝暗殺の黒幕については諸説あるが、ともかく建保七年(一二一九)、実朝は鶴岡八幡宮にて公暁によって殺害された。将軍の後継者としては様々な候補者がいたが、彼らは実朝死後悉く北条政子の手によって暗殺または失脚させられる。

まず、頼朝の異母弟阿野全成の子時元が実朝暗殺からわずか十日後に謀反の疑いで自害に追い込まれた。続いて、源頼朝が藤原時長娘に産ませた僧・貞暁の元には政子の使いが訪れて将軍になる意思があるか尋ね、貞暁は自ら片目を潰して固辞したという。二代将軍頼家の三男で僧となっていた栄実は、貴族九条道家の子三寅が将軍に迎えられることが決まった後の承久元年(一二一九)十月六日、和田氏残党が彼を擁立しようとしているという風聞から自害に追い込まれ、翌年四月には頼家四男禅暁が実朝暗殺に関与した疑いで自害させられた。

三浦胤義はその栄実・禅暁の後見で、兄義村とともにかねてから禅暁の将軍職擁立を画策していたのだった。実朝死後、三浦氏と北条氏との間で将軍職後任人事を巡って熾烈な権力闘争が展開されており、鎌倉では三浦方の手引きとみられる不審火による火災が各所で発生していた。その駆け引きの中で北条氏側の意向が押し通されるかたちで二歳であった九条道家の子三寅の擁立が決まる。それと引き換えに三浦義村には国司の最上位である駿河守の地位が与えられ北条氏とともに三浦氏が名実ともに幕府の中枢となっていたが、胤義は後見として可愛がっていた栄実・禅暁まで殺され、北条氏への反感を募らせていたという。

北条義時が地頭職にあった摂津国豊島郡倉橋・長江(現在の大阪府豊中市)を巡って後鳥羽院が義時の罷免を突き突け、幕府がそれを拒否したことに端を発して、承久三年五月十五日、後鳥羽院が北条義時追討の院宣を発し、胤義は即座に後鳥羽院方に付く。後鳥羽院は北条氏を追放後、三浦氏に幕府を任せる目論見であったといい、胤義を通じて義村に義時追討の密書が送られた。

しかし、義村は密書が届くと、即座に胤義を切り捨てる決断をして、密書を持って義時の元に赴き、無二の忠を誓う。実は密書の到着と同じころに偶然、宣旨の存在が義時にも露見していたというが、義村はそのことは知らないまま、驚異的な危機察知能力を発揮して生き残るための最善の選択をした。乗せられて挙兵していれば間髪入れず待ち構える北条氏の餌食となっていたであろう。

三浦氏が東国に付いたことで、趨勢は一気に鎌倉方有利となり、追討の宣旨からわずか一か月後には日本中の西国方勢力はことごとく鎮圧され、京に東国軍がなだれ込んでくる。後鳥羽院は保身のため北条義時追討宣旨を取り消し、西国方の軍事責任者であった藤原秀康、三浦胤義追討の宣旨を発して乱の責任を全て臣下にかぶせた。孤立無援となった三浦胤義と子の胤連・兼義は六月十五日、三浦義村軍に攻められ西山木島神社(現在の京都市右京区)で自害する。胤義は兄義村に思いのたけを話してから死ぬことを望んでいたといい、義村は胤義館に陣を構えていたというが、それは叶わなかった。

その後、『「承久記」古活字本・前田家本』は胤義の遺児四人が捕えられて田越川河畔で処刑されたと伝えており、この記述を受けて乱の悲劇として胤義遺児の死が語られ、慰霊碑が建てられたものだ。しかし、この遺児の死は史実ではなく悲劇性を訴える創作であるというのが通説になっている。

鈴木によると『この話は「承久記」の最古態とされる慈光本にはなく、「吾妻鏡」には、処刑されたはずの胤義の遺子である義有・高義・胤泰が、のちの宝治の乱(一二四七)まで生き、惣家泰村と共に自害しており』(P212)、とあり、また上杉も鈴木同様史料の例を引いて『この挿話はことさら胤義を悲劇の主に仕立てる意図から、のちに創作されたもの』(P51)と断じている。

歴史上は胤義の遺児たちはここでは死んでおらず、後に甥とともに戦った。しかし、地域の人々にとってはここで胤義の遺児たちは叔父の手によって刑死した。逗子を取り上げた史跡案内でもここは、近隣の田越川流域で胤義遺児が悲劇の最期を遂げ、その霊を弔う地とされている。僕は、それで良いのだと思う。史跡を歩いてみると、歴史の中の事実が見えてくると同時に、地域の人々の想いや幻想もまた見えてくる。その二つは時に衝突せざるを得なくなる物だけど、幻想は幻想のままで置いておくこともまた大事なことだと思っている。

子供たちがここで死んだ。死んだ子供たちはいなかった。


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京浜急行新逗子駅徒歩1分
参考書籍
鈴木かほる著「相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで
上杉孝良著「改訂三浦一族 その興亡の歴史」
峰岸純夫編「三浦氏の研究 (第二期関東武士研究叢書)
奥富敬之著「相模三浦一族

相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで
鈴木 かほる
新人物往来社
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