幕末から福島県誕生までの変遷図と福島県諸藩まとめ

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物語の序盤の舞台が会津地方である大河ドラマ「八重の桜」が始まったことでもあるし、幕末から現在の福島県成立までの福島県地域の藩県の推移をまとめてみる。図表は山川出版社刊、丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作編著「県史7 福島県の歴史」(第二版第一刷発行)P240の図表に福島県の三地方の分類を加え、若干の色付け・レイアウト変更等改変を行って作成したもの。クリックすると大きな画像が表示されます。便宜上参考資料に倣って幕末までの各大名領の呼称も藩としているが、公式に藩という呼称が使われるようになるのは明治二年版籍奉還後の府藩県三治制実運用開始以降である。

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1)福島県域前史

江戸幕府成立以前の福島県域は律令制の誕生とともに陸奥国が置かれたが、蝦夷と大和朝廷との軍事衝突がたびたび起こる戦乱の地で、やがて前九年・後三年の役を経て奥州平泉藤原氏の支配下に入る。文治五年(一一八九)、鎌倉政権によって平泉藤原氏が滅亡すると、論功行賞で関東の御家人たちが次々と福島県域に領地を与えられ、相馬・千葉・三浦(蘆名)・伊達・葛西各氏が登場。南北朝時代、陸奥国の諸武士団は鎮守府将軍北畠顕家に率いられて奥州軍の中核として足利尊氏軍を苦しめたが、暦応元年(一三三八)、顕家が戦死したことで劣勢となり一時室町政権の支配下に置かれた。やがて中央の政変が奥羽にも波及して混乱、群雄割拠の時代となった。

戦国時代、蘆名氏が盛氏の代に覇を唱えるが、盛氏死後の天正十七年(一五八九)、遅れてきた戦国大名伊達政宗によって蘆名氏は滅亡、全土が伊達氏の支配下に入った。天正十八年(一五九〇)、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が会津入りし、伊達政宗に代わり蒲生氏郷が九二万石を領して会津・中通り地方は蒲生氏の支配するところになり、浜通り地方北部の相馬氏、浜通り南部・磐城地方の岩城氏は所領安堵された。氏郷死後の慶長三年(一五九八)、家中不和を理由に蒲生秀行は宇都宮十二万石に転封、越後の上杉景勝が旧蒲生領を与えられたが、関ヶ原合戦後西軍についた上杉氏は米沢三〇万石へ減封、かわって蒲生秀行が再び六〇万石を与えられるとともに、小大名が次々誕生する。しかし蒲生家中ではお家騒動が度々発生、秀行死後跡を継いだ忠郷が嗣子無いまま寛永四年(一六二七)死去、蒲生家は断絶し、同年会津四〇万石として加藤嘉明が入封、しかし嘉明死後の寛永一八年(一六四一)家中不和で領地没収、さらに細分化されていくことになる。

2)各藩の誕生

■中通り地方

中通り地方は蒲生家の断絶以降細分化の一途を辿った。特に銀山の発見、小大名の廃絶などで幕府の直轄領が次々誕生、幕末時点で大小一四の幕領があった。

福島藩:蒲生→上杉→蒲生→上杉→幕領ときて、延宝七年(一六七九)・本田忠国(一五万石)→貞永三年(一六八六)・堀田正仲(十万石)→元禄十五年(一七〇二)・板倉重寛(三万石)で幕末まで続く

下手渡藩:江戸幕府成立以降諸国の飛び地として独立した領地ではなかったが、天明七年(一七八七)・田沼意明(下村藩)→文化三年(一八〇六)・立花種善(筑前三池立花家分家、下手渡藩:一万石)で幕末まで続く。

二本松藩:寛永四年(一六二七)、加藤嘉明の会津移封で娘婿松下重綱が五万石を与えられ与力大名となり成立。以後、加藤明利(嘉明三男、三万石)→加藤家改易、丹羽光重(丹羽長秀の嫡孫、十万石)移封で幕末まで続く。

長沼藩:元禄十三年(一七〇〇)、松平頼隆(徳川頼房の五男)が常陸・陸奥に二万石を与えられて成立、常陸府中藩とも言う。本拠は常陸(茨城県)で、領地の大半は陸奥(福島県)という飛び地状態であったため、慢性的財政難が幕末まで続く弱藩であった。

白河藩:蒲生家支配の後、寛永四年(一六二七)、丹羽長重(丹羽長秀子)が十万石を与えられ誕生。寛永二〇年(一六四三)、丹羽光重が二本松藩に移封、同年、榊原忠次(榊原康政孫、一四万石)→本多忠義(本多忠勝孫、一二万石)→松平(奥平)忠弘(奥平信昌孫、一五万石)→松平(結城)直矩(結城秀康孫、一五万石)、三代続いたのち→寛保元年(一七四一)、松平(久松)定賢(家康十一男徳川頼房曾孫、一一万石)で四代続き→文政五年(一八二二)、阿部正権(一一万石)と続き阿部家となる。

幕末に老中を兼務した阿部家七代阿部正外が兵庫開港を巡って朝廷と激しく対立したことで職を解かれ失脚、子の正静が棚倉藩に移封、慶応二年(一八六六)から領主不在のまま戊辰戦争を迎え、空白地であったことから同戦争最大の激戦地となった。松平久松家三代目が寛政の改革でお馴染み”白河の清き”松平定信。戦国・江戸時代ファンには眩しすぎて見えない歴代藩主の系譜。

三春藩:寛永四年(一六二七)、加藤明利→同五年、松下重綱が支配したが、加藤家改易の後、正保二年(一六四五)、秋田俊季(五万石)で幕末まで続く。

守山藩:元禄十三年(一七〇〇)、徳川頼房四男松平頼元の子松平頼貞が二万石を与えられて成立。以後幕末まで続く。

棚倉藩:常陸佐竹氏支配後、慶長八年(一六〇三)、立花宗茂(一万石のち三・五万石)→宗茂が旧領回復後、元和八年(一六二二)、丹羽長重(丹羽長秀嫡子、五万石)→寛永四年(一六二七)、長重が白河藩十万石移封後、内藤信照(五万石)→太田資晴(五万石)→松平武元(五・五万石)→小笠原長恭(六万石)→井上正甫(五万石)→松平康爵(六万石)→慶応二年(一八六六)阿部正静(十万石)で幕末を迎える。

■浜通り地方

中村藩:鎌倉幕府成立以降代々浜通り北部宇多・行方・標葉三郡は相馬氏が支配し、秀吉の奥羽仕置でも所領安堵されたが、慶長七年(一六〇二)、関ヶ原合戦で相馬氏は家康の招集を無視して不参加だったことで、一旦没収となったが、相馬義胤の子利胤の嘆願、伊達政宗・本多正信のとりなしによって所領は復活、以後相馬中村藩六万石として幕末まで続いた。

磐城平藩、泉藩、湯長谷藩:平安末期以降浜通り南部は常陸平氏の流れを汲む岩城氏が支配し、相馬氏同様に奥羽仕置でも所領安堵され、関ヶ原では当主貞隆の実兄である佐竹義重に従って不参加を決めたが、こちらは家康に所領を没収されたまま回復されなかった。岩城貞隆氏は後に信濃に一万石を与えられて大名として復活、その子吉隆は後に秋田藩に迎えられて秋田藩二代当主佐竹義隆になる。

岩城氏の旧領にはまず、鳥居忠政が一〇万石を与えられて入封→元和八年(一六二二)、内藤政長が七万石を与えられて磐城平藩が成立、同時に政長弟忠興に二万石が与えられ、寛永十一年(一六三四)、忠興が政長後継として磐城平藩主になってから忠興弟政晴が後を継ぎ泉藩が誕生した。寛文十年忠興が三男遠山政亮に一万石を与えて湯長谷藩が誕生。湯長谷藩は三代目政貞が内藤姓に戻したのち内藤家支配で幕末まで続く。

延享四年(一七四七)、内藤家は領内の混乱や藩財政危機から改易され井上正経が磐城平藩に入封、宝暦六年(一七五六)安藤信成(六・七万石)が継ぎ、以後幕末まで続く。坂下門外の変で負傷した老中安藤信正は五代目。

泉藩は元禄十五年(一七〇二)、内藤家に替わって板倉重同が藩主となり、延享三年(一七四六)、本多忠如が藩主となって以降一・五万石のち一・八万石で幕末まで続く。

■会津地方

寛永二〇年(一六四三)、改易された加藤家に替わって会津二三万石領主となったのが保科正之で、産業育成・教育振興を図り会津松平家の祖として幕末の松平容保まで続く。寛延元年(一七四八)に会津家家老に就任した田中玄宰の治世下で組織改革、財政改革、殖産興業、軍制・学制整備がなされ、その影響下で後に藩校日新館や什と呼ばれる藩士子弟教育体制が誕生した。

3)戊辰戦争から福島県の誕生まで

新政府軍による江戸城入場、将軍慶喜の水戸蟄居によって徳川幕府が崩壊すると会津追討令が出され、これに対抗して、四月十九日、「奥羽越列藩同盟」が成立、薩長土を中心とした新政府軍対東北諸藩同盟軍による内戦「戊辰戦争」が始まる。中村・棚倉・磐城平・泉・三春・二本松は新政府の動員令を拒否して会津に呼応、四月二十日、空白地の白河城を攻略して占領、これに対し五月一日、新政府軍は白河城総攻撃を敢行して陥落させ、白河を拠点として福島県域の諸藩攻略に乗り出した。

板垣退助率いる東山道総督軍によって六月二十四日棚倉藩、二十八日泉藩、二十九日湯長谷藩、七月十三日磐城平藩、八月四日相馬中村藩が制圧されたことで浜通り地方が新政府軍の手に落ち、七月二十六日三春藩降伏、二十九日、二本松城落城によって中通りも制圧される。八月二十日、新政府軍は会津に侵攻を開始、市街戦、籠城戦が展開され、数多くの死者を出して九月二十三日降伏した。

戦後、各領地とも没収、占領軍として福島・白河・平・若松民政局がそれぞれ設置され、戦後処理が行われた。会津では民政局の指示で戦死者・犠牲者問わず死体は「賊徒」として埋葬を赦されず野ざらしにされるなど、厳しい占領政策がとられた。以後、福島県域の各地で大規模な農民・住民反乱が度々起きている。

明治二年、版籍奉還、府藩県三治制導入で旧大名領には藩が、旧幕府・新政府直轄領には県が設置され、明治四年の廃藩置県で全て県となり、以後度重なる統廃合を経て明治九年八月二一日、福島県が誕生した。

以上、江戸時代の各藩の誕生から廃藩置県後の福島県誕生までの一応の簡単なまとめ。

参考書籍・サイト
・丸井佳寿子他編著「福島県の歴史 (県史)
・勝田 政治 著「廃藩置県―「明治国家」が生まれた日 (講談社選書メチエ)
会津戦争 – Wikipedia

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