武田武士団を基盤とした会津武士団の誕生

大河ドラマ「八重の桜」で主に描かれる会津武士たちだが、江戸期から幕末の会津武士たちの中核となる家の大部分はルーツをたどると会津地方土着の武士ではなく信州の武田家臣団に遡る。

会津松平家の祖保科正之は徳川二代将軍秀忠の庶子であるが、彼は生まれてから武田信玄の次女見性院に育てられ、その伝手で信濃高遠城主保科正光の養子となった。保科正光は、”逃げ弾正”こと高坂昌信、”攻め弾正”こと真田幸隆と並んで”槍弾正”と称された武田信玄に仕えた猛将保科正俊の孫にあたり、父正直とともに武田氏滅亡後に徳川家康に仕えて小牧長久手の戦いや上田城攻めに活躍、関ヶ原の戦いでの軍功で信濃高遠藩二万五千石を与えられ、以後大坂の役でも軍功を挙げて秀忠側近として仕えた人物である。

寛永二十年(一六四三)、高遠藩から山形二〇万石に移封されていた保科正之が会津二十三万石を与えられるに際して、その武田軍団の中核の一つを担っていた家臣団の子孫が正之とともにそっくりそのまま会津に移り、会津武士団の中核となった。五代容頌に仕え名家老と呼ばれた田中玄宰や幕末に会津戦争で戦死した田中土佐を輩出した田中家は武田時代以来保科氏に仕えた家の一つである。

特に保科正之は会津入りに際して高遠時代の家臣を重用し高遠からの人材流出をもたらした一方で、会津が与えられる直前に藩主であった山形藩や保科氏入部以前の会津藩主であった加藤氏の家臣団の採用はほとんど行わなかったという。正之が会津入りしたときの知行取り以上の家臣は四二七名で、そのうち前者の山形藩時代の鳥居氏旧臣の家臣は三〇名、後者の加藤氏旧臣は三一名と、旧武田遺臣の信州武士が会津武士団の中核を占めた。

ちなみに幕末に鳥羽伏見の戦いの敗戦の責任を取らされ切腹した神保修理は前者の山形藩時代の旧臣、同じく会津戦争後の責任を取らされて切腹した萱野権兵衛は後者の加藤氏旧臣の子孫にあたる。また幕末の家老西郷頼母の祖西郷近房は徳川家康の元康時代からの譜代の三河武士西郷氏の出身で、保科正之の父保科正光の従弟で正之時代の家老であった保科正近の長女を母に持つ、保科家の遠縁にあたる人物の子孫である。

信州武田武士の無骨でストイックな文化を保科氏が藩主になるに際してそっくりそのまま移植し、厳格な儒教思想を背景として、武士社会の倫理・秩序としてより徹底的に、先鋭的に磨き上げられ、特に享和元年(一八〇一)の藩校日新館の設立やそれにともなう什と呼ばれる十歳以下の武士の子弟の集団教育体制の構築などを通じて江戸後期までに会津の武士層全体に浸透。幕末明治期以降、国を挙げて類のない苦難を味わう中で、その武士文化が庶民にまで伝播していった。

参考書籍
・八幡 和郎 著「藩史物語2 松山・彦根・会津・米沢
・丸井佳寿子他編著「福島県の歴史 (県史)

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