日本奥州中世史を振り返りつつ会津蘆名(葦名)氏の興亡まとめ

室町戦国時代に会津地方を支配していたのが蘆名(葦名)氏である。蘆名(葦名)氏の系図を遡ると平安時代後期以降相模三浦半島を支配していた三浦一族にたどり着く。

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1)葦名氏のルーツとしての三浦一族

三浦一族の隆盛の基礎を築いたのが三浦義明(一〇九二~一一八〇)であった。義明は三浦半島一円を支配下に治め、三浦介と呼ばれる相模国国司の次官にあたる職に就き、源頼朝の父義朝に早くから仕え、頼朝決起の際にも一族挙げて彼を支え、頼朝が敗走した石橋山の戦いの後の衣笠城合戦で八九歳の老体で一人平家の大軍を食い止め壮絶な討死をした。子沢山であった彼の子らは父の戦死後も頼朝に従い、長男の子和田義盛、三浦宗家を継いだ次男の義澄など鎌倉幕府創業の功臣・宿老として名を連ね、義澄の子義村の代に政争を勝ち抜き、北条氏に次ぐ御家人筆頭の一族として最盛期を迎えた。

その義明の末子が佐原義連(?~一二〇三)である。佐原義連は武勇に優れ、屋島の戦い、一ノ谷の戦いなどの源平合戦から奥州合戦まで転戦して軍功を挙げた。一ノ谷の戦いでは最初に断崖を駆け下りたのが義連であったと伝わるほか、奥州合戦でも藤原泰衡の叔父にあたる藤原(樋爪)俊衡を討つなど武功著しい。その恩賞で義連は紀伊・和泉守護に任じられるとともに、遠江、そして会津に領土を与えられたとされる。明確にいつ与えられたかという史料は残っていないものの、「会津旧事雑考」「新編会津風土記」等によると会津、耶麻、大沼、河沼の四郡を与えられたとされている。(注1)

義連の六人の孫は経連が耶麻郡猪苗代に城を築いて猪苗代氏を名乗り、広盛が河沼郡北田(会津若松市湯川村)に城を築いて北田氏を名乗り、盛義が河沼郡藤倉(会津若松市河東町)を領して藤倉氏を、宝治合戦で滅亡した三浦宗家に代わって三浦介を継いだ盛時が耶麻郡加納庄(喜多方市)に城を築き、三浦葦名氏を名乗っていた光盛が会津大沼二郡を領し、時連が耶麻郡新宮村(喜多方市)を領して新宮姓を名乗った(注2)。鎌倉時代に会津地方一帯が三浦氏庶流佐原氏の領地として形成されていったが、実際には彼らは会津に居住したのではなく全国に拡がる領地の一つとして支配下に治められたものだ。

鎌倉時代の奥州の統治は平泉藤原氏の体制を踏襲するもので、奥州合戦後、下総国葛西御厨(東京都葛飾区)を所領する葛西清重が奥州御家人を統率する奥州総奉行として派遣されるとともに、葉室系藤原氏の家令であった文官・伊沢家景(後の留守氏)陸奥国留守職として派遣され行政実務を取り仕切る二頭体制が敷かれた。奥州に所領を得た関東の御家人は直接自らが赴くのではなく家臣または庶子を派遣して管理を一任していた(注3)。全国に分散する領地から御家人たちが居住する鎌倉へ輸送するために鎌倉時代に流通網が発達し、やがて物流の限界によって物納に代わる銭納へと変化し、貨幣の著しい流通が中世の市場経済の発展に繋がるわけである。

葦名氏初代となったのが義連の四番目の孫佐原光盛で、三浦郡葦名郷(神奈川県横須賀市)を領していたことから葦名氏を名乗ったとされる。葦名と蘆名という表記があるが、少なくとも初期~南北朝期にかけては記録に残るのは葦名のみで、蘆名という表記が登場するのは戦国期になってからだという(注4)。以下戦国期以前は葦名、戦国期以降は蘆名と表記する。
葦名氏が会津に拠点を移すのは鎌倉幕府滅亡後のことである。

2)南北朝時代の奥州

鎌倉時代後期の奥羽は北条氏の支配する領地が急拡大していた。中央の様々な政争で次々と御家人領が没収され北条氏の領地へと組み込まれていく。北条氏と他の御家人との領地争い、境界を巡る紛争が頻発し、その不満が奥羽の武士たちを倒幕運動に駆り立てる大きな要因になっていた。

元弘三年(一三三三)、鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まる。建武政権では奥州安定のため北畠顕家を陸奥守に任じて陸奥国府(宮城県多賀城市)に下向させ、奥州の支配体制を確立しようとした。鎌倉政権滅亡後、北条氏の空白地帯は建武政権を無視して独自の動きをし始めていた足利氏が影響力を強めていたが、その動きを牽制して他の御家人を建武政権下に治めるために、顕家を陸奥守とともに鎮守府将軍に任じ、足利政権に対抗させようとした。一時は足利尊氏を撃破し九州へ敗走させた顕家以下の奥州軍だったが、尊氏は九州で再起して楠木正成を破り後醍醐帝は吉野へ逃亡、建武政権を瓦解させ、南北朝時代が始まる(以下南北朝期の年号は北朝暦)。暦応元年(一三三八)、顕家が戦死すると、奥州は室町政権の支配下に入った。

貞和二年(一三四六)、吉良貞家、畠山国氏の二人が派遣され二頭体制による奥州管領が設置、旧南朝勢力の奥羽の有力諸武士を「郡検断・郡奉行職」に任じることで従え、奥羽の安定化を進めた。

観応元年(一三五〇)、室町政権内部での足利直義高師直の対立が決定的な分裂となり、直義が京都から大和に逃れて南朝と連携、両勢力が軍事衝突を繰り返し、高師直が殺害、さらに直義と尊氏が対立の果てに直義も殺害される。世に言う「観応の擾乱」である。この内乱は畿内だけに留まらず日本中に波及した。奥羽でも南朝側武士が勢力を盛り返し、吉良貞家、畠山国氏の両管領が直義、尊氏それぞれの勢力に属して対立、奥州管領体制は破綻し、群雄割拠の時代へと突入していった。

3)葦名氏の会津登場と十五世紀の奥州史

史上初めて三浦葦名氏が会津に登場するのはこの観応の擾乱の最中である。観応三年(一三五二)、三浦若狭守という名前が北朝方の武将であった薄(うすき)景教の軍忠状(軍功報告書)に見られる。曰く、三浦若狭守に率いられた北朝軍が南朝方の拠点河沼郡金河・浜崎城、蜷河庄の政所盾(要塞化した政所=行政施設)、牛沢城など現在の喜多方市塩川町から湯川村、会津坂下町にかけての会津盆地中央部を転戦した、と。三浦若狭守が何者かはよくわかっていないが、翌文和二年(一三五三)、中通り地方の宇津峰城攻略戦には若狭守と守護代の葦名朝貞が参加したという記録が残っており、表記の順番から三浦若狭守は会津守護職であったと考えられている。(注5)

「葦名系譜並古老物語」という史料では若狭守、遠江守を勤めていた葦名直盛が康暦元年(一三七九)に会津に下向し、居城を転々とさせながら勢力を広げ、その孫、盛政は永享六年(一四三四)、子の盛久に「陸奥国会津守護職」を譲っている。(注6)このとき会津守護職は大会津郡、大沼郡、耶麻郡、河沼郡、蜷河庄、新宮庄、加納庄、越後国小河庄、奥州長井庄伊保郷と相模国三浦郡葦名郷などを領していたことが明記されている。(注7)この葦名直盛の父盛員(葦名光盛の曾孫)からの系譜がのちの葦名=蘆名氏へと連なっていく。

鎌倉幕府滅亡後から南北朝の動乱にかけての時期にそれまで鎌倉にいた御家人たちが一斉に自身の所領に下向する動きをみせている。奥州でも葦名氏だけでなく相馬氏も鎌倉時代末期から浜通り北部に定住するようになり、同じ三浦一族である猪苗代氏や三浦佐原系の加納氏、また葛西氏や留守氏などの鎌倉初期の統治者層、畠山氏、伊達氏、二階堂氏などもそれぞれ下向して定住するようになっていた。彼らが動乱の中で群雄割拠し、のちの戦国時代の主人公たちを輩出することになる。

南北朝合一の前年になる明徳二年(一三九一)、奥羽二国の統治権が室町幕府から鎌倉府へ移管された。鎌倉府は南北朝期に設置された関東地方を統括する機関で、足利尊氏の子基氏の子孫が代々鎌倉公方(鎌倉殿)に就任、後に山内上杉家が独占することになる関東管領がその実務を補佐していた。後に鎌倉公方は独立性を強めていき、幕府と対立をすることが多くなっていく。応永六年(一三九九)、鎌倉公方足利氏満は前公方満兼の弟の満直、満貞を未だ分裂と混乱の中にあった奥羽支配の為陸奥国に下向させ、満直は篠川公方、満貞は稲村公方と呼ばれた。

両公方奥州下向から遡ること四〇年ほど前、観応の擾乱後一三五〇年代以降の奥羽は混乱の極みにあった。公称・自称奥州管領四人が並び立ち(四管領時代)、四分五裂して抗争していた。篠川稲村両公方が下向してきたときも足利尊氏によって奥州管領に任命されていた斯波氏とその一族の大崎氏がそのまま残って勢力を誇っていたが、この斯波・大崎氏と両公方の関係は良好なものとはなりえなかった。

応永七年(一四〇〇)、両公方に領土割譲を求められた伊達大膳太夫政宗(一三五三~一四〇五)は大崎詮持、葦名満盛と結んで室町幕府を後ろ盾にして両公方に反旗を翻す。稲村公方満貞が結城氏に対し伊達・葦名氏討伐を命じるが、鎮圧できず、鎌倉府から上杉氏憲軍七〇〇〇余騎が派遣され、二年後にようやく鎮圧された。以後伊達氏は三度に渡り鎌倉府に謀反を企て、鎌倉公方は伊達氏を滅ぼすことが出来ないまま戦国時代に突入する。永享十年(一四三八)の永享の乱と永享十二年(一四四〇)の結城合戦で鎌倉公方は室町幕府・関東管領連合に敗れ、篠川公方、稲村公方も滅亡し白河結城氏が室町幕府の後ろ盾を得て陸奥国の軍事指揮権を行使していたと伝わる。

以後、宝徳三年(一四五一)の宝徳合戦、享徳二年(一四五三)の享徳合戦という二つの会津地方を舞台とした戦争が起こり、両戦争は典厩と呼ばれる葦名氏の家臣松本右馬允とされる人物が伊賀氏を襲撃しそれを鎮圧するために、国人領主たちが総出で戦いに参加、蘆名氏、白河氏など有力者たちも参戦して会津全土を巻き込んだ戦乱になった(注8)ものだが、詳細はよくわかっていない。ただ葦名氏はこのころはまだ家臣を統制しうるほどの力を持っていなかったと考えられる。

一五世紀の葦名氏はそれほど力が強い訳ではなく、会津守護職の肩書はあるが強い支配権を及ぼしていたわけでもなく、諸勢力の間で合従連衡を繰り返しながら生き延びて、徐々に勢力を拡大しつつあった発展途上という状態であった。葦名(蘆名)氏の飛躍は一五世紀後半から一六世紀に入ってからのことだ。

4)戦国大名蘆名氏

応仁元年(一四六七)から文明九年(一四七七)までの十年に渡って管領細川勝元山名宗全との対立を契機として京都を中心に全国に拡大した内乱「応仁の乱」によって、日本列島は、地方領主が各々中央の統制を離れて自立政権を樹立し覇を競う下剋上の戦国時代に突入する。奥州もまた例外なく戦乱の時代を迎えた。

蘆名氏の台頭は、その戦国時代の開幕とほぼ同時、一三代当主蘆名盛高(一四四八~一五一八)の代に始まる。盛高は文正元年(一四六六)、家督を継ぐとまず対立していた渋川氏を滅ぼし、家内の不満分子を討ち、繰り返し行われた近隣の領主達との戦いに勝ち残って会津一円の支配の基礎を作った。晩年、子の盛滋(もりしげ)と争い勝利するが、彼を許して家督を継がせ、盛滋が四〇歳で死去すると盛高次男の盛瞬(もりきよ)が後を継ぐ。蘆名盛瞬は猪苗代氏の反乱を鎮圧して家中を安定化させると伊達稙宗・相馬顕胤と同盟して会津から中通り地方へも勢力を拡大、天文十年(一五四一)、子の蘆名盛氏に家督を譲り引退した。盛高から盛瞬の三代の間に南奥州は伊達氏、蘆名氏、岩城氏、白河結城氏の四大勢力に集約されていった。

蘆名氏の全盛期を現出したのが蘆名盛氏(一五二一~一五八〇)である。戦国武将で言うと武田信玄と同じ年に蘆名盛瞬の子として生まれた彼は、天文六年(一五三七)、伊達稙宗の娘を正室に迎えると天文十年(一五四一)、家督を継ぎ伊達家の内紛「天文の乱」に介入、当初は岳父稙宗方についたが、後に晴宗方に転じ、混乱の中で伊達家の衰退に乗じて勢力を一気に拡大して伊達と並ぶ勢力を会津に築く。

天文一九年(一五五〇)、中通り地方に勢力を誇っていた田村氏攻略に乗り出し、田村氏の後ろ盾となっていた常陸の佐竹氏封じ込めのため、武田信玄北条氏康と同盟を結び、佐竹・上杉同盟と対立。外征・外交を巧みに繰り返しつつ勢力を拡大し、永禄四年(一五六一)、家督を嫡男盛興に譲り止々斎と名乗ったが引退せずさらに軍事の指揮を執り、永禄九年(一五六六)、伊達氏を後ろ盾にしていた二階堂氏を従属させ、伊達氏とも講和、元亀元年(一五七〇)、北条氏政とともに佐竹義重をたびたび攻めて追い詰め、天正二年(一五七四)、佐竹氏が弱ったことで、ついに田村氏を降伏させて中通り地方を傘下に治めたが、同年、子の盛興が二九歳で急逝、他に子が無かったことから、二階堂盛隆を養子に迎えて蘆名盛隆とし、後見人として権力を振るった。

天正五年(一五七七)、白河結城氏の衰亡に乗じて白河城を陥落させ、天正六年(一五七八)には上杉謙信死後の内紛「御館の乱」に乗じて越後に出兵、配下の小田切盛昭が上杉景虎方の本庄秀綱と連携して景勝方を牽制するなどしている。天正八年(一五八〇)死去。卓越した外交力と戦闘指揮力で蘆名氏を奥州屈指の戦国大名に押し上げたその死が蘆名氏全盛期の終わりでもあった。

5)伊達政宗の台頭と蘆名氏の滅亡

盛氏の代に最大版図を実現した蘆名氏だったが、度重なる外征による各国人領主たちへの負担や重税にともなう民衆の不満、蘆名氏ではなく二階堂氏出身であることによる新当主盛隆の統制力の低下などが重なる中で、天正十二年(一五八四)六月、蘆名盛氏を支えた「四天の宿老」の一人松本氏輔の子行輔が謀反を起こして黒川城を占拠、これはすぐに鎮圧されるが、同年十月、盛隆は黒川城で家臣の大庭三左衛門によって殺害されてしまう。美丈夫で知られた盛隆と大庭とは男色関係で、そのもつれから殺害に至ったともいわれている。

後継者を巡って家中は伊達小次郎(政宗の弟)を迎えようとする派閥と、佐竹氏を後ろ盾として盛隆の遺児亀若丸を擁立しようとする派閥とに二分、結局二歳の亀若丸が家督を継いだ。時を同じくして米沢で伊達輝宗から家督を継いだのが独眼竜こと伊達政宗で、政宗は葦名氏の後継者が佐竹氏を後ろ盾とする亀若丸になったことで、父輝宗の対蘆名同盟方針から転換、蘆名攻めを開始する。

天正十二年(一五八四)一一月、桧原地域を占拠した政宗はここに桧原城を築城して会津方面への橋頭堡とし、翌年八月には大内定綱の居城小手森城を攻め落とし女子供二〇〇人を撫で斬りにした。同一一月、政宗の侵攻に対抗して二本松の畠山氏を助けるため蘆名・佐竹・岩城・白河結城氏の連合軍三万が北進、伊達政宗軍七〇〇〇と人取橋で激突した。名高い「人取橋の戦い」である。連合軍の圧倒的優勢の中で政宗軍は老将鬼庭良直のわが身を犠牲とした奮戦で辛うじて撤退し、一方連合軍は決定的勝利を掴むことが出来なかった。天正十四年(一五八六)、政宗は伊達輝宗の死と引き換えに畠山氏を滅ぼし二本松をその支配下に置いた。同年、蘆名亀若丸が疱瘡に罹り、わずか三歳で死去。佐竹義広が迎えられて蘆名義広となっている。天正十六年(一五八八)、猪苗代盛国が蘆名氏を裏切って伊達政宗に呼応、子の盛胤不在の間に猪苗代城を占拠した。

天正十七年(一五八九)、伊達政宗は猪苗代城を拠点として軍を進め、これに対抗して蘆名義広は居城黒川城に軍を終結、六月五日、猪苗代湖北岸、磐梯山を望む摺上原で伊達軍二一〇〇〇、対する蘆名軍一八〇〇〇、勢力はほぼ互角の両軍が激突した(「摺上原の戦い」)。序盤は先鋒富田将監隆実の奮戦で蘆名軍が伊達軍を圧倒したものの、徐々に伊達軍は立て直し、午後二時から四時過ぎにはほぼ勝敗を決していた。蘆名義広は黒川城を捨て常陸の佐竹家へと敗走、蘆名家重臣が次々と寝返り、ここに蘆名氏は滅亡、伊達政宗が南奥州を統一する。

しかし、戦国時代の終焉は目前に迫っていた。この二年前の天正十六年(一五八七)、豊臣秀吉は奥州に停戦を命じる「惣無事令」を出して介入を開始しており、秀吉はこの葦名攻めが「惣無事令」に反するとして政宗に申し開きを求めてくる。政宗は回答引き伸ばしを図ったが最終的に秀吉の小田原城攻めに白袴で参陣、恭順の意を示した。天正十八年(一五九〇)八月、北条氏を滅ぼした秀吉は自ら軍を率いて会津入りし、蘆名氏旧領を政宗から取り上げ、蒲生氏郷に与えた。伊達政宗の支配はわずか一年にも満たなかった。蘆名氏の滅亡を契機とした秀吉の奥州仕置が奥羽の戦国時代を終わらせることになった。

江戸幕府開幕まで残りわずか一三年。

注1)鈴木かほる著「相模三浦一族とその周辺史」P135
注2)鈴木かほる著「相模三浦一族とその周辺史」P139
注3)丸井佳寿子他編著「福島県の歴史」P80,P97
注4)会津若松市発行「会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代―戦乱、合戦とその興亡―」P6
注5)会津若松市発行「会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代―戦乱、合戦とその興亡―」P4-5
注6)会津若松市発行「会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代―戦乱、合戦とその興亡―」P7
注7)鈴木かほる著「相模三浦一族とその周辺史」P308
注8)会津若松市発行「会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代―戦乱、合戦とその興亡―」P10-12
注)他、歴史記述は以下に紹介する参考書籍及びwikipediaの該当ページ等を参照している。

参考書籍
・鈴木 かほる 著「相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで
・丸井佳寿子他編著「福島県の歴史 (県史)
・会津若松市発行「会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代―戦乱、合戦とその興亡―」
・八幡 和郎 著「藩史物語2 松山・彦根・会津・米沢
・七宮 涬三 著「三浦・会津 蘆名一族

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