貫高制と石高制

室町~戦国時代に所領を表す指標として使われたのは貫高であった。『貫高は田畑から徴収する年貢を銭の量で示したものであるが、同時に大名が家臣に要求する軍役の量を示すものでもあった』(浜野潔他編著「日本経済史1600‐2000―歴史に読む現代」P4)。貫高に基づく貫高制が戦国時代の各大名領で取られていた。多くの場合、検地等調査の上で決定されるのではなく、大名と国人領主との間の力関係で決定されていたため、必ずしも実情を反映したものではなかった。

日宋貿易や宋の崩壊にともなう宋銭の大量流入によって一三世紀以降日本列島では貨幣経済が成立、豊富に流通する貨幣の存在を前提としての貫高制であったが、一五世紀後半から一六世紀にかけての倭寇の跳梁とその大規模な取り締まりによって貿易が縮小、それまで日明貿易だけでなく倭寇による密貿易を通じて流入してきた中国銭も減少すると、不足した銭の代替として質の悪い私鋳銭が市場に出回らざるを得なくなる。

商人たちは当然、質の悪い私鋳銭の受け取りを拒否し、良銭=精銭だけを受け取る(撰銭)ようになるから慢性的な貨幣不足が深刻化、幕府や戦国大名たちはたびたび撰銭令を出してこの撰銭行為を禁じたが、効果は薄く、貨幣経済体制を衰退させ、ひいては貨幣を前提とする貫高制を行き詰らせることになっていった。

このような社会経済状況を背景として行われたのが豊臣秀吉の太閤検地である。秀吉は全国の領土に検地奉行を派遣して耕地を測量し、全国で度量衡を統一、六尺三寸(約一九〇・九センチメートル)を一間、一間四方を一歩、三〇〇歩を一反とし、『田畑それぞれの単位面積当たりの収穫量に応じて上中下のランクをつけ、ランクごとの反収を石盛と定めた』(浜野P4-5)。石高=石盛×反別(面積)で、村ごとに石高を算出、これを村高とし(村請制)、年貢高=村高×年貢率とした。

石高は、米の量で表される数値だが、米を作っていない田畑も石盛をつけているなので、決してその土地の米の収穫量を表しはいないが、貫高と違い、全国規模での相互比較が可能となる点に特徴があった。徳川政権でも石高制は受け継がれ、武士の身分を数値化する基準として使われることとなった。以後、一七世紀末から一八世紀初頭の寛文・延宝検地と元禄検地で検地は終了し、以降、元禄検地での計測値が明治維新の地租改正まで使われ続けることになる。

石高制の問題は、石高増はすなわち増税を意味する点で再調査が非常に困難であるため、農業生産性の向上があっても石高には反映されず、実際の農業生産量との乖離が起こる点にある。石高制の下では土地からの年貢増収が望めず、一方で経済が発達すると消費が不可逆的に増大する一方となるから、各藩は財政難に陥ることになる。『すなわち、石高制は、長期的にみれば領主が財政難に陥る必然性を内包していたといえるのである。』(浜野P50)

江戸時代、全国でたびたび行われるようになる藩政改革は、目前の課題を乗り越えようとする様々な試みであったが、それが本質的には藩単位で解決しうる問題では無く、幕藩体制の土台となる石高制が内包する構造的な問題であったがゆえに抜本的な改革には至らず、抜本的改革が行われなかったがゆえに緩やかに徳川幕府の解体へと進まざるを得なかった。

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