江戸幕府を震撼させた国書偽造スキャンダル「柳川一件」の顛末

江戸時代初頭、対朝鮮外交を担っていた対馬藩では李氏朝鮮と徳川政権との間の外交文書「国書」の偽造が慢性的に行われていた。それは幕府にも朝鮮王朝にも秘密裏に行われていたが、ある日、対馬藩家老柳川調興(やながわ・しげおき)によって暴露され、政権中枢を巻き込んで将軍家光自ら解決に乗り出すほどの徳川幕府を揺るがす一大スキャンダルへと発展する。世に言う「柳川一件」である。

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第一章 朝鮮出兵「文禄慶長の役」の戦後処理

始まりは豊臣秀吉による朝鮮出兵「文禄慶長の役」である。日本列島を統一した豊臣秀吉は文禄元年(一五九二)、ついに朝鮮半島へ軍を差し向ける。侵略の目的は「勘合貿易復活説」「領土拡大説」「東アジア新秩序説」などあって現在でも定まっていない(大石P32-33)が、無謀とも言える侵略戦争の爪痕は大きく、朝鮮半島を荒廃させ、明国を衰退させ、また日本も前半は局地戦で圧倒したものの後半制海権を失い形成逆転されて消耗する一方で、慶長三年(一五九八)、秀吉の死によって撤退。敗戦による権威の失墜、莫大な戦費と五万人にも上る犠牲が重くのしかかり、豊臣政権崩壊の一因となった。

この戦争によって日本は外交的に孤立、資源等自給自足体制には程遠く、中国商人や朝鮮半島経由での輸入に多くを依存していた状況であったから、豊臣政権の後継となった徳川政権にとっては中国・朝鮮との講和と通交復活が外交上の最優先課題となった。

この対朝鮮外交を担ったのが対馬藩の宗氏であった。宗氏は古くから対馬を支配し、一四~一五世紀に倭寇を利用して李氏朝鮮との関係を強め、一六世紀の対朝鮮貿易において、商人は宗氏が発行した渡航証を持参する外交ルールが定められており、実質宗氏の独占状態であった。成立したての徳川政権にとって対朝鮮外交は最重要課題でありながら、その複雑さから勝手がわからず、ゆえに宗氏に一任され、宗氏と実務を司る家老の柳川氏がともに幕府から非常に重きを置かれていた。

第二章 対朝鮮外交と国書偽造

対朝鮮貿易の復活は宗氏にとって死活問題であったこともあり李朝と徳川政権の講和に向けて、仲介として尽力し始める。慶長七年(一六〇二)、李朝から対馬へ講和に向けた使者が送られて事前交渉が始まり、慶長九年(一六〇四)、李朝の外交僧惟政らが対馬訪問、翌年、藩主宗義智(そう・よしとし)の斡旋で家老柳川調信(やながわ・しげのぶ)とともに惟政は京都伏見で徳川家康に謁見し、捕虜一四〇〇人の帰国を打診、家康は即時送還を決定した。(R・トビP42)

日本側の誠意を確認した李朝は慶長十一年(一六〇六)、講和条件を対馬側に提示する。それは以下の二点である。
(1)朝鮮国王の墓を荒らした犯人(犯陵賊)の引き渡し
(2)家康から朝鮮国王に宛てた国書の送付

この講和条件は非常に難題であった。当時の外交儀礼として、先に国書を送ることは相手への恭順を意味したから、第二の条件は幕府側も受け入れがたく難航が予想されるものであった。もちろん李朝側も簡単に進むとは思っておらず『難問をしめすことによって、対馬ないしは幕府の出方をみようとする心づもり』(田代P21)であったとされている。

ここで、交渉を焦る対馬藩は国書偽造に手を染める。まず対馬島内の罪人二名孫作(三七歳)、叉八(二七歳)を犯人にでっち上げて送致、あわせて家康の偽の国書を作成して送付した。偽書は日本国王家康の名義で日本国王印が押されていたという。この「日本国王印」は慶長元年(一五九六)、宗義智と小西行長の斡旋で停戦交渉のため明国の使者が秀吉の元を訪れた際に秀吉に与えられたものだが、秀吉は明国への従属を意味する日本国王の称号を拒否、さらなる戦争継続を望んだ。その際に宙に浮いた形の「日本国王印」が豊臣政権崩壊のどさくさで宗氏の元に渡っていた。

予想外の進展に李朝は驚き国書の真偽なども話題に上ったが、最終的に主張が通ったことから講和を進めようという機運が高まり、慶長十二年(一六〇七)、国書に対する返礼として四六〇名余りの使節団「回答兼刷還使」が派遣、将軍秀忠、大御所家康に謁見することになった。ここで対馬藩は再び国書偽造を行う。なにせ朝鮮側からの国書は「日本国王家康からの国書の返事」という体裁だったから、それを初の国書という内容にすり替えなければならない。改竄した朝鮮側国書をすり替えるタイミングがなかなか訪れず、すり替えが成功したのは秀忠謁見の日、江戸城登城の途中であったという。

慶長一二年(一六〇七)、対馬と朝鮮との貿易協定「己酉約条」が取り決められて通交が復活。以後、元和三年(一六一七)、寛永元年(一六二四)と二度に渡り李朝から「回答兼刷還使」が送られたが、いずれも対馬藩によって文書の改竄が行われている。この間対馬藩は藩主が宗義智から宗義成(そう・よしなり)へ、家老が柳川調信から嫡男智永を経て柳川調興へ、また朝鮮との交渉や文書作成を行う外交僧も景轍玄蘇(けいてつ・げんそ)から規伯玄方(きはく・げんぽう)へと替わったが、両国の和平と対馬藩の権益確保のため、幕府にも李氏朝鮮にも秘密で、藩ぐるみの国書偽造・改竄と隠蔽工作が繰り返された。

第三章 宗氏・柳川氏の対立と国書偽造暴露

柳川氏は宗氏譜代の家臣ではない。それどころか氏素性の知れない人物であった柳川調信から宗氏に仕えて一代で家老にまでのし上がった下剋上を体現した一族であった。初代調信は豊臣政権では石田三成に、徳川政権になると本多正純に取り入って中央との関係を強化、二代目の智永は主君である宗氏を差し置いて家康から直々に一〇〇〇石を受けている。中央の権威を後ろ盾としつつ宗氏と徳川政権、宗氏と李氏朝鮮、李氏朝鮮と徳川政権を繋ぐ媒介役として一家老職以上の存在感を発揮していた。

三代目の柳川調興は慶長十八年(一六一三)、十一歳で家督を継ぎ、家康、秀忠の小姓として仕え、元和三年(一六一七)、若干十五歳で朝鮮からの使節団を迎える際の担当者として巧みに政治力・調整力を発揮して朝鮮側使節を感心させている。朝鮮側の大使であった李景稜は調興を評して「調興はすこぶる怜悧(賢いこと)で狡捷(すばやい)」と後に書き記している。通常は江戸に居て将軍のそばに仕え、対馬のことは腹心の松尾七右衛門に任せていたが、次第に自身も対朝鮮外交に深く関与するようになり主君義成に断りなく文書の改竄を行って朝鮮との外交を行うなど独断的な振る舞いが目立つようになっていった。若くして外交官として抜群に高い能力を持っていたが、自らの有能さを誇り、主家を軽んじて将軍家の権威を笠に着るところがあった。

主君である宗義成は調興の一歳年下で慶長二十年(一六一五)、一二歳で藩主となった。元和三年の使節団来日の際には調興とともに応対したが、前出の李は「義成は癡?(愚かなこと)にしてすべてに精神(気力)なし」と酷評している。しかし調興との比較でどうしても見劣りして見えただけでそれほど愚かという訳では無かった。また人柄が良く、若くして伊達政宗ら大物を始めとして諸大名から人気があり、家臣からの人望も厚かった。義成は後に外交手腕を巧みに発揮していくことになるので、早熟の調興と晩成の義成といえるだろう。

上手く支え合えば非常に良い主君と家臣の組み合わせとなるはずが、両者はことあるごとに対立するようになる。調興の主家を軽んじる言動が多くなる、無断で李氏朝鮮と折衝したりするようになるなど専横的振る舞いが徐々にエスカレートして行き、外交僧規伯玄方はたびたび義成に調興の処分を諫言し、一度は対馬を去りたいとすら申し出ているが、柳川氏は対馬の外交実務の要であったため、むしろ義成は調興をかばい、玄方をなだめ、さらに妹を調興に嫁がせるなど家中宥和に心を砕いていた。

これが決定的に対立するようになったのは宗氏の重臣の一人吉田蔵人が義成の使いとして江戸に赴いて幕府と折衝を行い帰国したことからである。宗氏と幕府との仲介は柳川氏の権力の源泉である。調興は蔵人に公金横領疑惑があると噂を流し、義成に類が及ぶのを怖れた蔵人が自害して果ててしまう。さらに寛永元年(一六二四)の朝鮮使節来訪に際しても調興は途中で職務を放棄して義成をうろたえさせ、著しく体面を傷つける。柳川氏は宗氏の無能を強調するようになり、それに対して宗氏が柳川氏を批判する、中傷合戦が始まっていた。

寛永十年(一六三三)、柳川調興は日本中がひっくり返る爆弾発言を行った。対馬藩による国書改竄の秘密を暴露し、幕府に申し出たのである。政権を揺るがす大暴露に幕閣は騒然となった。五月五日、老中土井利勝酒井忠勝が宗義成を呼び出して事情聴取が始まり、若年寄の安倍忠秋と知恵伊豆こと松平信綱、大目付柳生宗矩など錚々たる人物が事態の調査を開始する。その間も調興の暴露は止まらない。全ては宗家の独断、宗氏は対朝鮮外交を担う能力は無い、印鑑を偽造したのは誰誰で、対馬側使者の交渉内容も幕府に報告されてない対馬の利益確保に係る内容が含まれていて・・・などなどなど。

朝鮮半島との貿易・通交は一時中断され、対馬に土井利勝と松平信綱の部下二名が派遣されて徹底した調査が開始された。そこで証言として浮かび上がってきたのは、むしろ柳川氏が独断で改竄を行っていたというものだった。食い違う証言に混乱する幕閣、証拠物件が次々と運ばれ、証人や関係者が江戸に集められる。三代将軍徳川家光が決したのは、自ら宗義成と柳川調興の訊問を行うということだった。

第四章 江戸城大広間の対決

寛永十二年(一六三五)三月十一日、千石以上の旗本諸大名全員に登城命令が出され、江戸城大広間に集められた。上座には裁判長として徳川家光が座り、正面には宗義成、少し下がって柳川調興が座す。その周囲には幕府中枢が勢ぞろいした。座り順まで資料が残っている。(田代P147江戸城御座配の図より)

向かって徳川家光の左隣に老中格阿部忠秋、若年寄太田資宗、右隣に老中堀田正盛、同阿部重次、また位置不明だが老中筆頭土井利勝も家光の側に控えている。大広間座敷左手には奥から順に大政参与の井伊直孝、同松平忠明、京都所司代の板倉重宗、続いて井伊隠岐守、本多甲斐守、本多能登守、小笠原右近将監、以下譜代家臣が並ぶ。その背後には小姓衆、御側衆ら近習が控えていた。大広間座敷右手は奥から順に尾張大納言徳川義直、紀伊大納言徳川頼宣、水戸中納言徳川頼房の御三家、続いて仙台中納言伊達政宗、加賀中納言前田利常、薩摩中納言島津忠恒、長州候毛利秀就、肥後熊本候細川忠興、肥前佐賀候鍋島勝茂以下西国、東国の順に諸大名が並ぶ。諸大名の背後にはさらに側近衆、林羅山ら儒者、旗本らが揃う。宗義成の隣には取次として老中酒井忠勝、義成の左後ろには規伯玄方とその取次として大目付柳生宗矩、宗義成の後ろ柳川調興の横には若年寄松平信綱、大広間の外には松尾七右衛門が控え、その横に大目付井上政重が居る。

柳川調興は何故無謀とも見える暴露を行ったのか。彼には勝算があった。実は調興は幕閣の中枢に深く食い込んでいたのである。老中筆頭土井利勝堀田正盛板倉重宗と儒者林羅山はみな「調興の党」で、他の老中らも彼らを通じて調興側に近かった。歴史上「第一次鎖国令」として知られる老中発行の奉書(許可証)を持つ日本船以外の海外渡航禁止の通達が出されたのは寛永一〇年(一六三三)、調興の暴露と同じ年のことだ。調興は幕府中枢の政策を把握し、幕府に依る対外貿易・外交の管理統制を行おうという「鎖国」の方針を踏まえて、早晩、宗氏が独占している対朝鮮外交も幕府の関与が深くならざるを得なくなり、ひいては隠蔽していた国書改竄の露見も時間の問題と考えていたらしい。ならば、先に自身の有利な形で暴露してしまおう。

つまり彼は勇気ある内部告発者として、また自他ともに認める有能な外交官として、そして、大名では無く幕府の直臣として自身を位置づけることで、幕府の外交への直接関与の方針に沿った行動を見せたことになる。幕府の方針を踏まえ、政権中枢の多数派工作を完了させ、外堀を完全に埋めての一大冒険だった。この賭けに勝てば彼は三一歳にして幕府直臣として対朝鮮外交の総責任者となり、ゆくゆくは大名、そして老中すらも夢ではない。

これに対して宗義成には策は無い。しかし諸大名からの人望があった。この数日前、伊達政宗は義成を訪れこう伝えたという。

『「将軍家の御沙汰で、もし柳川が勝ったならば、調興を屋敷に帰さず、かならず切り捨てるように私の家臣に申し付けております。朝鮮の役のとき、我われはあなたのお父上の義智公に命をあずけました。朝鮮での私の働きに対して、太閤殿下は感状を賜われましたが、それも対馬守殿が少人数で危機を救ってくだされたおかげです。その恩に今こそむくいたいと存じております」(「柳川実記」)』(田代P146)

戦国武将伊達政宗、七一歳にして覇気未だ衰えず、である。政宗は実際に暗殺者の手配を完了していたという。また紀伊大納言徳川頼宣も、もし義成が敗れた場合には自分が預かると家光に申し出ており、庇護と助命に奔走、諸大名が次々と助力を申し出ていた。しかし、いずれも負けたときにどうするかという話であり、下馬評では老中たちを味方につけていた柳川調興圧倒的優勢であった。幕閣にあっては伊達政宗とともに井伊直孝松平信綱が宗義成を支援していたという。

かくして、江戸時代最大の裁判劇が幕を開けた。

事前の取り調べで義成と調興の証言の相違点について将軍家光が問い、土井利勝がそれぞれ取次役、義成には酒井忠勝、調興には松平信綱が家光の質問を伝える。家光の質問は国書の改竄の事実関係、義成の監督責任などについて七点が問われ、義成は国書改竄は柳川氏の独断で行われたこと、柳川氏が独占していたことで自身の関与は不可能であったこと、自身の管理責任についてはその柳川氏が幕府の老中の影響力を背景として政敵を潰し、専横を極めていたことなどを答える。義成は柳川氏に責任を負わせるとともに、過去の国書改竄が幼少のことであったとして知らないと証言した。

完全公開された質疑が終わり、次は老中ら幕府中枢による審議を経て、判決が下されることになる。

第五章 紛糾する審議と徳川家光の判決

家光と老中ら政権中枢での審議では当然のことながら土井利勝、林羅山らが調興勝利を強く推し、宗氏への批難を浴びせた。これに対し家光自らが彼らをなだめるほどだったという。幕府にとって、国書偽造は威信を大きく傷つけるものであり、また宗氏という大名の関与を排除して対朝鮮外交を直接管理下に置くというのは外交政策として全くぶれていないどころか、幕府が目指そうとする方針そのものだった。しかし、当時の国際情勢を適切に分析して判断する必要があった。

一六三五年当時の東アジアは非常に不安定であった。一六一六年、女真族ヌルハチによって満州地域に後金(後の清)が建国されると、明国からの独立を宣言、一六二七年には後金軍が朝鮮に侵略し、翌寛永五年(一六二八)には家光の命で朝鮮に援軍の必要性などの是非を調査する使節が送られている。(この使節が規伯玄方を大使とした対馬の使節団で、この使節の交渉の過程で対馬が秘密裏に木綿六〇〇同を朝鮮から受け取り、調興の暴露のネタの一つになっていたものだ)この援軍増派については朝鮮側がまだ日本軍の出兵に忌避感が強いことから丁重に拒否されている。後金の存在は朝鮮と明国とを圧迫する不安定要因となっており、一つ間違えれば日本も巻き込んだ戦乱に陥る危険性を孕んでいた。実際、九年後の正保元年(一六四四)には明が滅亡、明遺臣鄭芝龍や崔芝らから援軍要請が届き、実際に派兵が検討されている。

調興もこの情勢を把握しており、宗義成ではなく、自身に任せてくれという主張として、このままでは再び戦争になると国際情勢の危機感を煽ることで宗氏の無能さを強調していた。

伊達政宗はこのような調興の言動を快く思っておらず、審議の場で家光にこう進言したという。

『「朝鮮は、与国(親密な国)でございます。それなのに秀吉は故なくして兵を動かし、まもなく滅んだのも天のむくいだと人は言っております。権現様(家康)はその誤ちを正されたお方です。いま、調興が言うように、また兵を動かすようなことがあれば、殿下は地下におわします権現様にどのようなお顔でまみえるおつもりですか」(金東溟「海槎録」)』(田代P179)

もう一つ重要なのが、当時の各国の国際秩序観である。徳川政権にしろ、李氏朝鮮にしろ、明国にしろ、根底にあるのは相手を下と見る中華主義的な秩序意識である。これがあるがゆえに、国書を先に送ることを講和条件として重視したのであり、明国を宗主国として李氏朝鮮は従属する一方で李氏朝鮮は日本を下と見る。一方で秀吉も徳川幕府も明国に従属することを良しとしないために、日本国王の称号を拒否し、対馬藩は国書を偽造してまで「日本国王」として、立場を朝鮮と並列に置く一方で、形式的に従属の態度に出ることで、朝鮮との関係を修復しようとした。宗氏の存在が、相互に見下そうとする国際関係において、緩衝剤の役割を担っていたのである。

宗氏が朝鮮に朝貢し、下手に出ることで、クッションとなり徳川政権と李氏朝鮮を対等にする。この役割は何者にも代えがたかった。宗氏を潰して、対朝鮮外交の窓口を幕府の管理下に置いた場合、それは徳川幕府が李氏朝鮮や明国に従属することになる。あるいはそれを良しとせず強気に出るならば、必ず国際関係の不安定化を呼ぶことになるだろう。それは徳川幕府の望むところでは決して無い。調興は抜群の国際感覚と政治力を持っていたが、この点を見誤っていた。しかも、それは致命的であった。

徳川家光の決断がなされた。

宗義成御咎めなし。これに対し、柳川調興財産没収の上津軽へ流罪。

また、宗義成の家臣で先代の義智の下で改竄に関与し病で余命いくばくもない老臣島川内匠と調興の腹心松尾七右衛門は死罪。義成の叔父宗智順と義成の外交僧規伯玄方、調興配下の外交僧玄晃が流罪となった。いわゆる喧嘩両成敗で、宗家は存続が許されたが、実務方の部下は全員処罰が与えられた。代わりに、京都五山の僧三名が実務担当者として交替で対馬に派遣されることになり、宗氏を存続させつつ、実務において幕府の関与を強化する、新たな方針が定められた。

以降、徳川将軍の外交文書における称号は「日本国大君」となり、李氏朝鮮との善隣外交が幕末まで続けられることとなる。

第六章 その後

宗義成はしかし、安泰とは言えなかった。本来であれば死罪は間違いなかった柳川調興が何故生かされたのかは誰の目にも明らかであったからだ。もし宗義成が満足に役目を果たせなければ調興を復帰させる、という無言の圧力であった。翌年寛永一三年(一六三六)の朝鮮通信使の来日は宗氏のテストの様相であったが、それを無事成し遂げると、義成は一気に外交官として飛躍する。

明滅亡後の緊迫する国際情勢下で家光は義成に援軍派遣の場合の朝鮮の動向について意見を求め、これに対し義成は「朝鮮は満州族の侵略でひじょうに疲弊しているので、中国に侵攻する日本軍の糧食を補給できないとして、家光を思いとどまらせ」(R・トビP138)、北京→漢城→釜山→対馬(R・トビP142)という情報収集ルートを開拓して刻々と変わる東アジア情勢を逐一収集分析して江戸に報告するなど、外交の要として重きを置かれるようになっていった。

また宗氏を介した対朝鮮貿易は爆発的に増大し、朝鮮経由で輸入された生糸は延宝七年(一六七九)時点で一四万斤超、同時期の長崎からの生糸輸入が年間一〇万斤程度であったという。(浜野P40)この輸入生糸が日本の紡績・絹織物業発展の基礎となり、やがて生糸が国産化されるようになると江戸明治期を通じて日本の基幹産業として殖産興業の原動力となっていく。

宗義成は江戸初期の外交を支えた最重要の大名として名を遺すことになり、明暦三年(一六五七)、五四歳で亡くなった。その死に際しては十三人の家臣が幕府の禁令を破って殉死したといい、その人望がうかがい知れる。一方、柳川調興は津軽家に預けられ、長い長い孤独な余生を送ることになる。賓客として遇され、津軽氏に気に入られて深く交流があったらしく、津軽氏は調興の恩赦を何度も願い出たが生涯赦されることは無かった。貞享元年(一六八四)、死去。八二歳であった。彼の配流後、柳川という姓は対馬では逆臣の姓として禁忌となったという。

後に対馬藩朝鮮方佐役に就任した雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう:一六六八~一七五五)は朝鮮との外交の要諦を簡潔にこう語った。

『「互いに欺かず、争わず」(「交隣提醒」)』(田代P205)

参考書籍
・田代 和生 著「書き替えられた国書―徳川・朝鮮外交の舞台裏 (中公新書 694)」(絶版)
・ロナルド・トビ 著「「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)
・大石 学 著「江戸の外交戦略 (角川選書)
・浜野 潔 他 編著「日本経済史1600‐2000―歴史に読む現代
・山本 博文 著「殉死の構造 (講談社学術文庫)

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twitterでこの記事への反応で見掛けて知りましたが、この事件を題材にした小説があるとのことで、追記で紹介しておきます。ただamazonには在庫が無いようですね。今度読んでみようかなと思います。

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