「八重の桜」をより深く楽しむための会津藩家老田中玄宰の改革まとめ

大河ドラマ「八重の桜」で登場する藩校「日新館」や「什の掟」、「追鳥狩」に長沼流軍学ほか、様々な役職・制度は遡ると一八世紀後半から一九世紀初頭の会津松平家五代容頌(かたのぶ)の下で辣腕を振るった家老田中玄宰(たなか・はるなか:一七四八~一八〇八)の藩政改革にたどり着く。玄宰は財政危機にあった会津の藩政改革を行い、主君容頌とともに中興として知られることになった。田中玄宰の藩政改革について概要を知っておくとより大河ドラマが楽しめるだろうと思うので簡単にまとめておこう。

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1)藩政改革と元禄期の経済政策

江戸時代の幕藩体制の基礎となった石高制は税収の基本となる石高と実際の農業生産量との乖離が必然的に起こり領主層の財政的行き詰まりを呼ぶという構造的限界を内包させていた(→「貫高制と石高制」)が、その矛盾が一八世紀以降日本全国で表面化しはじめた。その対応として各国で藩政改革が断行されることになる。ただし、前述の通り直面する危機の根本的問題は石高制が孕むものであり、藩レベルでは抜本的改革が不可能であるため、対症療法的手法にならざるを得ない。いかに効果的に延命措置を施しつつソフトランディングさせていくか、が「藩政改革」の課題であった。

元禄期までに貨幣経済が進展すると、消費が押し上げられ、物価上昇を招く。幕府、各藩とも財政収入は著しく増大したが、それ以上に歳出が膨れ上がり、慢性的に赤字財政が続き、借金に借金を重ねる。この解消のため、まず増税が断行され、それへの反発で農民一揆が頻発し、それを慰撫するために減税を行わざるを得ず、幕府は貨幣改鋳を繰り返すことで、貨幣改鋳益(シニョレッジ)で税収不足を補う。しかし貨幣改鋳によって貨幣価値が減じられていくと質の低い貨幣が流通してしまうため、さらなる物価騰貴が起こり、各藩はその対応として、一定期間区切って領内だけで流通する「藩札」を発行し、商人に買い取らせ正貨と交換させることで、借金の返済を行おうとした。ところが、藩によっては準備された正貨より遥かに多い藩札を発行してしまった結果、正貨と藩札の札価(交換比率)が大幅に下落してしまい、さらなる藩財政の悪化をもたらすことも少なくなかった。

2)会津藩の財政危機

このような大きな流れはそのまま一七世紀後半から一八世紀初頭の会津藩と重なり合う。会津藩でも元禄期に江戸での藩士の生活費の増大や軍役、賦役等で歳出が増大、元禄二年(一六八九)、税制改革が行われて増税が実施されたが、それ以上に物価騰貴のスピードが速く元禄七年(一六九四)から元禄十三年(一七〇〇)の六年で会津藩の米価は二倍以上になり、藩財政の悪化に歯止めが効かなかった。

元禄十三年(一七〇〇)七月、七年の期間限定で正貨の使用を禁止し領内のみ使用可の藩札を発行するが、さらなる物価騰貴を招くことになった。特に領内で生産されない物品の高騰著しく、この対応のため、様々な禁令が出されて価格統制が行われたことで、むしろ庶民の不満が増大、さらに、藩札の発行と共に偽札が大量に流通、経済の混乱をもたらした。結局わずか二年後の元禄十五年(一七〇二)五月、藩札の発行は中止となり、藩札発行担当者は切腹に追い込まれた。

以後も慢性的な財政困窮は解消されないどころか悪化の一途を辿り、宝永六年(一七〇九)に六万五千両だった会津藩の借金は、宝暦三年(一七五三)には三六万五千両、宝暦八年にはついに四〇万両にまで膨れ上がる。

寛延二年(一七四九)には会津史上最大の農民一揆「寛延一揆」が勃発、これは毎年繰り返された増税と、藩による農民救済のための貸米に一年以内の返済、貸米を受けた者は年貢免除不可という厳しい条件を付与したことに対する不満として始まったものであった。最終的に武力鎮圧されたが、民力はガタガタで、不満を抑えるため減税を行わざるを得なくなり、いっそうの財政の悪化をもたらした。改善の兆しは見えないまま次々と財政担当者の首だけがすげ代えられ、明和四年(一七六七)にはついに財政責任者が万策尽きて責任を感じるあまり出奔する騒ぎまで起こった。

これに「天明の大飢饉」が追い討ちをかける。天明二年(一七八二)~天明四年(一七八四)の凶作は未曾有のもので、特に天明三年(一七八三)は酷く、東北全土で餓死者続出、会津藩でも二八万三〇〇〇石の減収で、平均収納の六割以下となり、郷村人口もピーク時(享保三年(一七一八))の一六万九二〇〇余名から同年は十一万六〇〇〇余名と六八・八%に落ち込み、もはや危急存亡の危機であった。そこに登場するのが田中玄宰である。

3)田中玄宰の改革

田中玄宰は代々家老職を務める田中家に生まれ、天明元年(一七八一)に三四歳で家老に就任するが病のため辞任。天明五年(一七八五)に家老職に復帰すると、崖っぷちにあった藩政の改革に乗り出した。天明七年(一七八七)、八項目からなる改革大綱を藩主容頌に提出、藩祖正之の遺法は決して変えるべきではないと反対する家老らに対して、『遺訓の趣旨をよくわきまえ、世の変遷に応じて変えていかなければ反ってそれに背くことになる』(会津若松市発行「会津若松市史 歴史編6 近世3会津藩政の改革」P19)として反論し、容頌も玄宰の建議を認め、改革に乗り出す。

■財政再建

まず財政規律として財政を米二二万俵の範囲内とし、年貢率を五分下げる減税の実施、同時に荒地・手余り地の再墾や耕地面積の平均化、生産量に応じた土地の再割振りを行いその管理をする田地生帰任役を設けた。また税制を元禄二年(一六八九)の税制改革以前に採用されていた「定免制」に戻した。「定免制」は過去数年間の実績に基づいて向こう三年~五年の一定期間の年貢量を決定するやり方で、その年毎の収穫にあわせた増収は難しい反面、税収の安定化が図られることになる。

■農村再編

従来まで村方の頂点に立っていた郷頭を廃止し、村長である肝煎、以下地頭と鍬頭の三役を置き、鍬頭を長とする五人組に各農家を所属させ、連帯責任と相互扶助を義務とする一方で、これまで収奪されるだけだった農民の独立自営化を促進。一八世紀末の日本では勤勉革命と呼ばれる農民の独立自営化による労働集約型の農業改革が進行していたが、まさにトップダウンで会津に勤勉革命を起こそうとしたものだった。

さらに、従来代官は若松の城下町に集まっていたのを改め、四郡ごとに郡奉行を置き、その下に代官を配置、郡奉行―代官―肝煎―地頭―鍬頭―五人組という地方支配を確立させた。

離散農民の呼び戻しが図られ、人口増のため少子化対策が重視された。寛政四年(一七九二)、産子教育のため年に米一五〇〇俵が支出され、文化二年(一八〇五)には財政の健全化によって蓄えられた一五〇〇両を少子化対策費として支出、また民間から篤志金を募り、各村で運用させ、例えば上金沢村では三つ子が生まれた際には米五〇俵が支給されたという記録が残っている。

■殖産興業

また庶民生活の振興のため徹底した殖産興業が進められる。『今日、会津の伝統産業のほとんどが玄宰の創設、また復興したものといえる』(会津若松市発行「会津若松市史 歴史編6 近世3会津藩政の改革」P22)ほどに、その成果は多岐に渡る。

会津漆器」は代々受け継がれてきた技術だが、玄宰は天明年間に京都から蒔絵技術の専門家を呼びこれを職人に伝習させ、享和二年(一八〇二)には幕府に交渉してオランダ、中国商人に売り込み、輸出製品化した。

陶磁器はある程度の生産体制が整備されていたものの、特産品と言うには程遠かった。そこで寛政九年(一七九七)、本郷の陶工佐藤伊兵衛を有田に向かわせ、有田で学んだ佐藤は後に文化十三年(一八一六)、「本郷焼」を大成する。

会津と言えば酒だが、酒造業の発展も玄宰の力が大きい。摂津から杜氏二名、播磨から麹師一名を招き技術を学ばせ、藩直営の酒造業を開始、「清美川」と名付けられた酒は藩外にも輸出され、技術革新が加えられて大ヒット商品になった。

他、養蚕業、薬用人参、羅紗織、養蜂、鯉の養殖、金粉・金箔の製造など玄宰の成果は枚挙に暇がない。

■組織改革

当然藩政も徹底した制度改革が行われる。家老職を地方町方・勝手方・学事方、軍事方・普請方、公事方・公私御式方の三つに分けて月番交代制から政務分担制へと責任体制を明確化、目安箱を設置し民意を反映させるとともに、郡役所など地方組織まで目付を配置して徹底した綱紀粛正を図った。

さらに、天明八年(一七八八)、「紐制襟制」と呼ばれる武士の上下身分を色で分けて明確化するピラミッド型の組織体制が導入、士中、寄合、足軽の三階級をそれぞれ士中は四段階、寄合は三段階、足軽は四段階の十一段階の身分制度が形成された。

■軍制改革

初代保科正之以降寛文一〇年(一六七〇)まで武田信玄の戦術を理想と敬う甲州流軍学、寛文一〇年(一六七〇)以降楠木正成を敬う河陽流軍学が軍制の基礎であったが、天明八年(一七八八)、最も実戦的であるといわれた「長沼流軍学」に改められた。長沼流は甲州流の流れを汲む軍学で特に練兵を重視したものであるとされる。

寛政元年(一七八九)、軍事奉行が創設され、長沼流に基づき、「四陣の制」と呼ばれる先鋒、左右翼、中軍、後殿の四軍からなる軍制に再編される。先鋒、左右翼、後殿は家老が率いる陣将隊と八〇〇石級の者に率いられる番頭隊一~三隊から構成され、後殿はそれに五百石級の者が率いる新番頭隊一隊、中軍は藩主本隊と輜重隊から構成され、一年ごとに入れ替わる。これが幕末まで会津軍の軍制で、徹底した練兵が繰り返されることになった。

この四陣の制に基づいた軍事訓練として、寛政四年(一七九二)から、解き放たれた鳥を敵に見立てて一番を競って捕まえる名高い「追鳥狩」がはじめられた。軍制改革と組織改革が一体となって、職務に忠実な先鋭化された組織づくりが進められた。

■教育改革

会津藩では初代正之に仕えた儒学者横田歳益によって創設された武士のための教育機関「稽古堂」が後に「町講所」と改組され庶民の教育機関として存在していたが、教育重視を掲げる玄宰はこの規模を順次拡大し、武学寮、書学寮など専門分野に応じた施設を次々増設、それでも施設が手狭になり、また学校が各地に分散していたことで効率が悪くなってきたことを鑑みて、文武を総合的に教える学校の創設を計画、商人から資金を募って予算を確保すると寛政十一年(一七九九)造営に着手、享和元年(一八〇一)、藩校「日新館」が完成する。

玄宰はそれまで朱子学が中心であった藩の教育を改め、徂徠学派の古屋昔陽を招聘して実践的な教育を推し進める。「日新館」では原則一〇歳から一八歳の武士子弟に対し文武教育が行われたが、「六科糾則」と呼ばれる修業者の登用基準が定められ、これを満たさない者は藩士としての務めを停止され引き続き学ばなければならなかった。

「日新館」に入学する前の武士の子弟は六歳から「」と呼ばれる一〇~一七名の地域毎のグループに所属させられ、子供たちが行動するための最低単位とされて幼児教育が徹底された。この「什」で定められていたのが「什の掟」で、これに背くと仲間同士の制裁を受けた。七項目があげられ最後に「ならぬことはならぬものです」で終わる「什の掟」は子供のしつけという趣旨の内容であったが、その「ならぬことはならぬものです」という言葉の持つ頑固さが次第に会津藩を象徴するようになっていった。

4)田中玄宰死後

玄宰の改革によって藩政は好転し、財政危機も小康状態にまで持ち直したが、会津藩の仕組みや社会を一から作り変えるほどのドラスティックな改革で、しかも、確固とした成果を次々と残したため、文化五年(一八〇八)に玄宰が亡くなると、その彼の作った制度自体が絶対的なものとして観念されていくようになる。玄宰死後、反動のように藩は保守化し、教育が徂徠学派から朱子学に戻されるとともに、保科正之の御家訓とともに、玄宰の改革以後に完成した制度こそが、藩祖以来の伝統と重ねあわされ絶対的なものとなっていった。そして、幕末へと至る過程で様々な軍役が重くのしかかり、再び財政危機に見舞われていくことになる。

歴史にもしもは無いが、もし玄宰死後の会津の武士たちが、玄宰の成果ではなく精神をこそ重視していたら、つまり成果としての『ならぬことはならぬものです』ではなく、精神としての『遺訓の趣旨をよくわきまえ、世の変遷に応じて変えていかなければ反ってそれに背くことになる』という言葉をこそ範としていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれない。

田中玄宰は間違いなく江戸時代の「藩政改革」実行者の中でも屈指の改革者の一人だが、その偉大な成功の後にこそさらなる悲劇が待っていたという点で非常に象徴的であるといえるだろう。

こういったところを踏まえてドラマを見れば「ならぬことはならぬものです」という言葉が繰り返されるたびに悲劇への道が一歩一歩踏み固められているように思えて、胸が締め付けられます。

余談ですが、田中玄宰の子孫が戦後フィクサーとして知られた右翼の巨魁田中清玄です。幕末の会津藩だと家老田中土佐が子孫にあたります。

参考書籍
・丸井佳寿子他編著「福島県の歴史 (県史)
・会津若松市発行「会津若松市史 歴史編5 近世2会津藩政の始まり」
・会津若松市発行「会津若松市史 歴史編6 近世3会津藩政の改革」
・浜野潔他編著「日本経済史1600‐2000―歴史に読む現代
・岩村充著「貨幣の経済学 インフレ、デフレ、そして貨幣の未来

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