河村瑞賢~近世日本の大海運網を確立させた強欲商人

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序章

近世の日本経済史を語る上で必ず画期となされるのが、東廻り海運西廻り海運という航路の確立である。両航路が開かれたことで「天下の台所」大阪、大消費都市江戸の繁栄を支える大物流網が整備されることになり、江戸経済繁栄の礎となった。

この両航路を開いたのが豪商・河村瑞賢である。江戸時代の商人というと近江商人などのように高い理念や思想性が話題になるが、瑞賢は全く正反対、強欲さと野心、手段を選ばぬ利潤追求の人であった。

瑞賢は元和二年(一六一八)、伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県度会郡南伊勢町)の百姓太兵衛の長男として生まれた。河村家は自称藤原秀郷の後裔で頼朝の奥州征伐で軍功を挙げ戦国時代には北畠氏に仕えたと言うが、おそらく作り話であろう。太兵衛には男だけで九人の子があり、自ずと生計を外に求めざるを得ない貧農であった。後の瑞賢、河村十右衛門は十五歳になると江戸に出て、まず車力(大八車で荷を運ぶ運送業者)として第一歩を標した。

貧農の家に生まれ、一車力であった瑞賢がいかにして、歴史に名を残すほどの豪商に上り詰めたのか、江戸時代前期、一七世紀を象徴する三つの出来事から彼の生涯は浮かび上がってくる。

第一章 明暦の大火と江戸の建設

1) 大都市江戸建設と車力

江戸に幕府が開かれて以降、天下を統べる徳川将軍の拠点にふさわしい都市とするための江戸の大普請が始まった。江戸城の拡張工事のため諸大名の人員が大規模に動員され、城下町が形作られ、寺社が次々と建立され、資材運搬、物流の為の様々な街道が敷かれ、運河が開削され、上下水道が整備され、海岸が埋め立てられ、川は流れを変え、土地が切り拓かれて、日本史上かつてない規模の大都市「江戸」がその姿を現し始める。十七世紀前半の江戸は文字通り建築ラッシュの時代を迎えていた。

江戸に出てきた十右衛門(瑞賢)が車力の職に就いたのも当然の流れであった。車力は資材運搬のため、建設現場と資材が荷卸しされる河岸とを大八車に資材を乗せてひたすら往復する。かなりの肉体労働であったが、若い頃の彼はなかなか恵まれない生活であったらしい。しかし、車力としての長い下働きの後、寛永二十年(一六四三)、二五歳のころに、車力頭だった脇吉兵衛の娘と結婚して車力頭となり、車力十右衛門と名乗ったとされている。

成り上がった商人の常として若い頃の逸話には事実関係は不明ながら知恵・才覚を示す様々な創作が多い。彼にもこんな話がある。結婚の前後あたりのころ、盂蘭盆会の後に打ち棄てられた瓜や茄子を見て咄嗟にひらめいた十右衛門は、すぐに乞食たちに銭を与えて捨てられた瓜や茄子を集めさせると、これを漬物にして売り歩いて一儲けし、この資産と車力の稼ぎを元手に材木屋を始めたという。

このころの土建請負業と材木商は一体で、車力は土建=材木商の下請にあたる、かなり隣接した職業である。下請から元請へ、上流工程への進出を果たしたわけだ。しかし社会状況を反映して競争相手も激しく多い。少なくとも父太兵衛が死んだ慶安三年(一六五〇)の時点では満足に墓を建てることも出来ていなかったことから、金銭的余裕はなかったと推測されている。

その材木屋十右衛門が一躍世に出ることになったのが明暦三年(一六五七)一月、江戸城本丸を始め江戸の大半を焼失させ死者十万とも言われる大火事「明暦の大火」であった。

2) 明暦の大火

明暦三年一月十八日午後二時頃、本郷丸山町本妙寺から出火した火は瞬く間に本郷・湯島から神田、日本橋方面と拡大して町人地を焼き払い、西風に乗って佃島方面の町屋をも焼きつくした。さらに続けて翌日の午前十一時過ぎ、小石川伝通院下の大番与力宿舎から出火した火が小石川の水戸屋敷を焼いて竹橋から堀を超えて江戸城に燃え移り、天守閣、本丸、二の丸が焼け落ち、江戸城周辺の大名屋敷から飯田町、市ヶ谷などの旗本屋敷を焼き尽す。これでも終わらない。同日午後四時には麹町の町屋付近から出火、外桜田、日比谷、愛宕下、芝付近へと燃え広がり、鎮火したのは二十日午前八時ごろであった。

この未曾有の大火災によって江戸市中の六〇パーセントが被災、死者は数万~十万二千人と言われ、ほぼ江戸全土が焦土と化した。
瑞賢もまた被災したが、大火事で焼け出された彼はとりあえず有り金全部しめて一〇両かき集めると家財も家族も顧みず、木曽へ一目散に駆け出した。材木需要が一気に跳ね上がるという咄嗟の判断である。

昼夜を問わず走り抜いて木曽の材木問屋に着くと、まず彼がしたのは店の前で遊ぶ子供に小判三枚に穴をあけて繋げたものを玩具として与えたことだった。手持ちの資金の三割である。その子供が小判で遊びながら材木問屋に入った後に続いて門をくぐり、店の者に材木を全て買いたいと伝える。

まだ江戸大火災のニュースは木曽まで伝わっていなかったのか、子供が瑞賢から与えられた小判三枚を繋げた玩具で遊んでいるのを見た店主は、彼がかなりの金持ちと勘違いし、売る約束を取り交わした。瑞賢はすぐに使いの者が金を持ってくると言ってごまかしつつ、抜け目なくすべての材木に自身の焼き印を押して回る。わずかに遅れて次々と江戸の材木商が買い付けにやってくるが、彼らは瑞賢から高値で買うしかなかった。その金で木曽の材木問屋へ代金を支払い、残った材木も全て江戸に運んで彼が高値で売りつけた他の材木商より安く売ることで財を成した。

当時、瑞賢の他にも似たエピソードが語られる商人は複数いることから、江戸の材木商たちはこぞって買いに走ったらしい。ほんのわずかな差で他の商人に先んじることで彼は商機を掴んだ。

明暦の大火を経て、江戸は急ピッチで再建されたが、様々な火災対策がなされた防災都市として復興した。各所に火除け地が設けられ、上野広小路など道幅の広い道路が作られ、隅田川の両国橋や永代橋など河川に次々と架橋され、武家地、町人地や寺町が再配置され、江戸周辺武蔵野地域の開発が進み、さらなる大規模都市江戸の土台が作り上げられていく。

その江戸復興の過程で瑞賢は巨万の富を得ていくが、その富を使って彼が行ったのは、要職にある主だった役人や旗本・大名たちに巧みに取り入ることだった。賄賂を渡すだけでなく例えばその人物が帰依する寺院に寄付を行うなど、様々な手を使って幕府に人脈を広げていく。また、その役人の伝手で受けた仕事は非常に迅速に行ったので、さらに贔屓を受けるようになっていった。

3)河村瑞賢の経済観と明暦の大火後の経済政策

この頃の瑞賢の経済観を表す言葉がある。彼はしきりに人を招いては宴を催していたが、その理由について尋ねられるとこう答えたという。

『いま幕府や大名の持っている金は皆埋もれている金だ。これを市中にばらまけば、人夫に至るまでその利沢を蒙る。そうなれば、金銀が天下を馳駆することになり、喜ばしい限りである。』(古田P15)

現代でも支持を集めやすそうなマネタリスト的見解だが、当時の経済情勢を踏まえるとよりわかりやすいだろう。江戸幕府成立後、通貨制度は金・銀・銅貨の三種類からなる三貨制度が導入されていたが、その浸透は十七世紀末のことで、十七世紀半ばの当時は満足に貨幣が行き渡っているとは言えなかった。江戸幕府成立後、大規模な公共工事が繰り返されることで少なからず貨幣が浸透しつつあったが、それに拍車をかけることになったのが明暦の大火である。

明暦の大火後の復興工事と、被災者への救済のため幕府は初代家康以来溜めこんでいた国庫の金を一気に使い切るほどのバラマキ政策に転じる。当時の幕閣は知恵伊豆と呼ばれた松平信綱、のちに下馬将軍と呼ばれる酒井忠清、「細川頼之以来の執権」阿部忠秋、名君と称される保科正之など、江戸時代を通してみても屈指のメンバーではあったが、経済政策というものが未確立な時代とはいえ、彼らの実績は経済に明るいとは必ずしも言えなかった。明暦の大火という大災害に対応せざるを得なかったとはいえ、儒教道徳を前提としての国庫からのバラマキを行いつつも金産出量の低下を反映して通貨供給量自体は抑える政策を実施。その結果、財政支出が拡大、米価は高騰してインフレが進み、後の幕府の慢性的赤字財政の根源となった。

しかし、戦国時代以前の反動で貨幣経済が衰退し、新しい貨幣自体が浸透しておらず、物々交換すらまだ珍しくない当時の経済情勢下では、被災者・貧民救済のために国庫から直接金を配るというヘリコプターマネー的な施策は、どんな形であれ結果として貨幣を市場に広めたということで、後々の貨幣経済の浸透に一定の効果があったと言えるかもしれない。また保科の対応が後に荻原重秀による貨幣改鋳による通貨供給量の増大や、吉宗の享保の改革など財政再建のための様々な経済政策の模索へと繋がったという点でも国レベルでの経済政策誕生以前の初期の試みとしてあくまで結果論だが評価は出来るだろう。

そのような、後の貨幣経済社会成立のプレ段階にあった混沌とした状況での上記の瑞賢の経済観であった。貨幣自体まだ数少ないのだから、まず貨幣を市中に回せと。そして、その貨幣の全国的流通のためには日本全土をつなぐ物流網の整備が不可欠であった。江戸でも一、二を争う材木商へとのし上がってきた彼の次の仕事が、まさにその物流網、東廻り海運、西廻り海運の開拓である。

第二章 東廻り、西廻り海運開拓

1)物流網整備の必要性

中世、貨幣経済が浸透したのは中国銭の大量流入とともに、年貢の代銭納制の導入が大きかったが、これは幕府の支配体制が日本全土に行き渡りながら、年貢を中央に運ぶことが不可能なために物納に代わり銭納することで流通を可能としたという背景があった。戦国時代には中国銭による統一的な貨幣経済が衰退して地方経済の時代を迎え、再び豊臣、徳川政権になって統一政府が成立、特に巨大都市江戸の誕生は、関東平野だけでは自給できないため、その巨大な人口を支える必要から物流網の整備が急務となった。しかし、陸運だけでは大規模輸送は困難で限界がある。中世でもすでに海運網はかなり整備されていたものの、近世に入って海運が急速に発展したのは必然であった。

元和五年(一六一九)、上方‐江戸間の物資輸送を行う菱垣廻船堺商人によってはじめられ、西国の年貢米が江戸にも集められるようになったが、明暦の大火後に膨張する江戸の人口を支えるには全く充分ではなかった。東北地方からの輸送も仙台藩が慶長・元和年間(一五九六~一六二四)から、津軽藩が寛永年間(一六二四~四五)から、秋田藩が明暦年間(一六五五~五七)から江戸に向けて海上輸送を始めていたが、数量も少なく、航海も困難で江戸までたどり着けないことも多かった。

ゆえに江戸への米の供給は不安定で慢性的な米不足が深刻な問題となっていた。特に万治二年(一六五九)の浅間山大噴火を契機とした寛文年間(一六六一~七三)の凶作・飢饉は復興途中の江戸を痛撃、江戸への米や物資の安定供給は喫緊の課題であった。そこで寛文一〇年(一六七〇)、当時幕府に広く人脈を広げ、様々な公共工事を請け負っていた河村瑞賢に幕府は奥州信夫郡桑折・柳川・福島の年貢米を江戸に廻送することを命じた。

2)東廻り海運、西廻り海運の確立

命を受けた瑞賢はまず配下の者四名を奥州に遣って詳細に現地調査を行った上で運送計画を立案する。阿武隈川の水質調査、積み替え地荒浜への大規模な集積施設である米蔵の建設、運送用の船舶には最も堅牢であった伊勢・尾張・紀伊の船舶を使い、熟練水夫で固める。寄港地として平潟・那珂湊・銚子・安房小湊を指定して幕府の威光を背景に自身の使用人を常駐させ、自身の船舶の優先的保護を幕府に保障させた。また寄港地で必要より多くの食糧米を購入させ、海難の際にはその余剰の食糧米から捨てさせた。余った食糧米は価格差があったので江戸で充分売りさばくことが出来た。

この奥州から江戸への海運ルートには先駆者がいる。同じく江戸の豪商渡辺友以が瑞賢に先んじること五年前、阿武隈川を水運で荒浜に運び船に詰め替えて海路で銚子に出て利根川を使って江戸に運んでいた。渡辺のルートでは銚子での積み替えが大きな手間となっていたが、瑞賢はこれを避けて房総半島を回って相模の三崎か伊豆の下田へ出て、西南風を待って江戸湾に入るルートを定めた。

徹底した下準備と根回しの上で、寛文十一年(一六七一)春に荒浜を出航した廻船は七月、続々と江戸に到着する。幕府はこの功を賞し、以降、この方法で運送することとし、瑞賢も多大な利益を得た。これによって東廻り海運の南半分のルートが確立されることとなった。
寛文一二年(一六七二)、東廻り海運の確立に成功した瑞賢は、続いて出羽最上郡の年貢米を江戸へ輸送する命を受けた。古くから日本海海運は開けていたが、出羽、津軽、蝦夷などから海路で運ばれたものが敦賀か小浜で陸揚げされ、琵琶湖まで陸運、琵琶湖から水運で大津に渡り畿内へ広がるというもので、出羽から江戸への海運は、寛文元年(一六六一)に江戸の商人正木半左衛門によってはじめられてはいたが、東廻り海運と同様に確立されたものではなかった。

瑞賢は東廻り海運で銚子を迂回したように、敦賀・小浜を迂回して日本海から瀬戸内海を抜けて太平洋側へとぐるりと回って江戸湾まで海路で進むという大掛りなルートを考案する。東廻り海運同様、最上川から水運で川を下り、酒田港で廻船に米を積み、佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、岩見の温泉津、長門の下関、摂津の大阪、紀伊の大島、伊勢の方座、志摩の安乗、伊豆の下田に寄港地を指定して、各寄港地に瑞賢の使用人が駐留、船舶は瀬戸内海の塩飽島を中心として使われていた廻船を利用した。瀬戸内海の廻船を使用したのは、船舶の堅牢さとともに船乗りの縄張り意識に配慮した結果であった。

出航に際して、瑞賢は廻船に「御域米船」の幟を掲げさせるとともに、東廻り海運のときと同様に寄港地に自身の配下を常駐させ、幕府の威光を背景として、各地の領主に自身の船舶の優先的保護を認めさせるとともに、入港税を払わないことを通達する。従来、各地方領主が船舶の通行や停泊に関税を設け、これが重要な収入源となっていたが、その一方で船乗りにしてみると停泊しているだけで税が取られ、また保護が加えられるかどうかも不明確なものであったため、多少の無理をしてでも出航するなど、航行に無理が出て海難事故に結びついていたのだった。『瑞賢が幕府御用の名において、強引に押し通した寄港の自由・無料化は、その意味で運行の安全確保のための有力な手段だったのである。』(中井P52)後に瑞賢の設けた駐在員と立務所は幕府の官制に組み込まれ、海運網が幕府の管理下におかれるようになった。

寛文一二年五月に出羽国酒田港を出港した御域米船の幟を掲げた瑞賢船団は日本海を西進し下関を通って瀬戸内海を東上し、太平洋に出て下田を経由、同七月、次々と江戸に入港する。近世物流の大動脈となる西廻り海運が確立された瞬間だった。

3)「金銀が天下を馳駆」する時代の到来

東廻り、西廻り両海運の確立によって全国的物流網が史上初めて確立、特に大阪には全国の産物が集まり全国市場の中心として著しく地位を向上させる。大量の米が大坂で取引されることで大阪の取引価格が全国の価格形成に影響を与えることとなり、標準価格が成立する。価格の平準化は中央市場と地方市場との取引の円滑化をもたらし、物流網のさらなる向上へと繋がっていった。一八世紀初頭にこの西廻り海運を使って松前と大坂との交易で活躍して財を築くことになるのが三方よしで現代人にお馴染みの近江商人の組合である。

また、物流網の確立による全国的な商品取引市場の誕生は貨幣の流通を促進させる。大規模取引のために貨幣による代金決済の流れは必然的に成立し、金貨、銀貨はまだ稀少であったために銭(銅)貨が日常の取引に使われることになる。寛永十三年(一六三八)に登場した銭貨「寛永通宝」は寛文年間(一六六一~一六七二)にはかつて流通した輸入銭「永楽通宝」を完全に駆逐、同時期に鋳造された寛永通宝は一九七万貫に上る。やがて、金貨は江戸で、銀貨は大阪でそれぞれ価格表示の基準とされ、金遣い経済圏銀遣い経済圏が誕生、かつてない規模での貨幣の流通は全国で経済活動を活発化させ、元禄時代(一六八八~一七〇四)の経済の隆盛を準備することになる。

瑞賢が望んだ「金銀が天下を馳駆」する時代の到来であった。

第三章 怪物・河村瑞賢

この海運網の確立後も、越後高田藩で上田・白峯銀山開発に携わり、大阪淀川の治水工事で大阪の都市整備に貢献しつつ、幕政の中心にまで食い込んで、元禄一〇年(一六九七)、将軍綱吉に謁見を果たし、その翌年には旗本に取り立てられ、元禄一二年(一六九九)、八二年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

上田・白峯銀山開発では後に越後高田藩取潰しのきっかけとなる越後騒動の一方の領袖である家老小栗美作に加担することで派閥抗争を激化させ、淀川の治水工事では江戸城内での若年寄稲葉石見守正休による大老堀田筑前守正俊刺殺事件の原因が瑞賢の治水の方針を巡る両宿老の対立であったと言われており、一商人でありながら彼の一挙手一投足が幕政すらも揺るがすほどの影響力を持っていた。また、堀田正俊に仕えていた新井白石がその主君の死で浪人となった時には経済的援助を行い、白石はその恩に応えて瑞賢の伝記「奥羽海運記」「畿内治河記」を著した。

政権中枢に深く食い込む一方で商いは何よりも利益を第一とした。安く上げるためなら手抜き工事も当然のこととして、手抜きを行うために役人の目をいかに盗み、騙すかに力を注いだ。同じく豪商三井家の二代目高平は「町人考見録」で瑞賢の抜け目なさを示すエピソードを書き記している。

『「先年三河の岡崎で橋普請があったとき、弟の栄見が代理で入札した。そのとき弟に申すようは、何事も商いの道である。大儀ながらそのほうは、このたびの普請でしばらく牢にはいってはくれまいか。そうすれば大分の利益が得られるのだからと。弟は承知して、仕様帳とまるで違った仕方で普請したので、工事なかばに栄見は牢に入れられた。そのとき兄の瑞賢がまかり出て、弟がわかりもしない普請を請け負って不調法の至りです。わたくしが弟のために身上を打ちこんで工事を完成いたしますから、どうか弟をお許しくださいと、神妙に願った。そして工事にとりかかり、いかにも実義に見せかけて、諸役人へ音物などを贈り、皆が油断したところを見込んで、思うままに手を抜き、大変な徳分を得たということだ」』(中井P45)

元禄七年(一六九四)、瑞賢晩年のエピソードだと推測されている。重要なのは、三井高平はこれを賞賛の意味で紹介しているということだ。少なくともこの頃の商人のモラルは、後に企業経営でCSRで引き合いに出されるような顧客重視の姿勢ではなく、利益のためなら手段も択ばない姿勢こそがあるべき姿とされていた。その利潤追求の権化として、瑞賢はその剛腕を思う存分発揮している。

瑞賢ぶり」とは、海運による年貢の納入について、代官たちが瑞賢の姿勢を批難して使った言葉である。年貢を輸送する際、どうしても目減りが生じることになるので、その不足分の負担のため、現地では通常一俵につき二升を余分に納めさせる。江戸に到着した年貢米は蔵に入れる前に俵を詰めなおして均一化させ、余分の分でも補えない不足分は翌年追加徴収されることになるが、瑞賢は幕府に年貢の納入を厳密に保証することで、追加徴収分が著しく増加する結果となり、その増加分は百姓たちの疑念を呼び、各地の徴税担当者である代官に治安上の不安を抱かせるほどだったという。横流ししていたかどうかはわからないが、農民の負担が増えようと、代官たちに批難されようと、徹底的に利益追求に邁進することで、彼はその地位を築いていったのだった。

後に余りの豪奢に闕所(財産没収)となった大阪商人淀屋辰五郎、材木の投機で財をなし柳沢吉保の後ろ盾を得てわが世の春を謳歌しながらも没落した紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門など多くの投機商人が瑞賢の背中を追い、しかし届かず没落し歴史から退場していく。数多くの野心家の死屍の上に江戸の経済は爛熟期を迎えていった。

商人河村瑞賢とは、歴史上画期とされるほどの比肩する者の無い巨大な業績と、それを可能とした卓越した才覚、見識を持つ一方、権力者を欺き、弱者を踏みつけながら、手段を選ばず利得だけを追求する姿勢が共存する江戸時代初期の経済社会に屹立した怪物であった。

参考書籍
・古田 良一 著「河村瑞賢 (人物叢書)」(参考にしたのは旧版の1963年版)
・小学館「人物日本の歴史〈14〉豪商と篤農 (1975年)」(P33-66 中井信彦「河村瑞賢」)
・大石 学 著「首都江戸の誕生―大江戸はいかにして造られたのか (角川選書)
・八幡 和郎 著「藩史物語2 松山・彦根・会津・米沢 松山藩が真の“佐幕”の総大将 (The New Fifties)
・会津若松市発行「会津若松市史 歴史編5 近世2会津藩政の始まり」
・浜野 潔 他 編著「日本経済史1600‐2000―歴史に読む現代
・鬼頭 宏 著「文明としての江戸システム 日本の歴史19 (講談社学術文庫)

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