「江戸っ子」「大江戸」意識の誕生

大石学「首都江戸の誕生―大江戸はいかにして造られたのか」によると、江戸生まれを「江戸っ子」と呼ぶようになったのは十八世紀後半、宝暦期(一七五一~一七六三)から天明期(一七八一~一七八九)にかけてのことだという。また江戸を「大江戸」と呼ぶようになったのも同時期で、この二つの呼称成立には共通した背景があったことが指摘されている。

大江戸」の初出は山東京伝の「通気酔語伝」にある「夫諸白の名に流れたる隅田川の景色は、大江戸の隅におかれず」で、一八世紀を通じての江戸の地理的拡大と人口成長、また江戸商人の経済力の向上、川柳や浮世絵などが登場して上方文化に負けない江戸町人文化が成長したことなどがその背景にあるという。

江戸を大江戸と観念する背景となる江戸の地理的拡大と人口成長について、享保期に吉宗によって積極的に多摩地域をはじめとする江戸周辺の武蔵国の開発が進められたことで、江戸を中心とする都市圏が編成されていた。江戸周辺は江戸城城付地と呼ばれたが、その江戸城城付地の支配強化、江戸十里四方での鉄砲使用所持禁止などが定められ治安維持が図られるともに、武蔵野の新田開発、東西南北の郊外地に行楽地が設けられ、行楽地と近い場所に鷹場が作られるなどした。享保期に江戸周辺が整備・再編されたことで江戸都市圏が急拡大していた。

また、人口について、鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」(P188)によると、享保期(一七一六~一七三五)の江戸の人口は武家地、寺社地、町人地をあわせて約一三〇万人と推定されているが、これを一平方キロメートルあたりの人口密度で計算した場合、武家地16,816人/㎢、寺社地5,682人/㎢、町人地67,317/㎢となる。ちなみに一九九五年に最も人口密度が高い埼玉県蕨市で14,100人/㎢、二位の東京特別区で12,800人/㎢とのことなので、江戸の範囲が狭かったとはいえ、あくまで推計ではあるが超過密都市と化していた。このように、江戸周辺の開発による拡大とともに、江戸がひしめき合うほどの人で溢れていたことが「大江戸」という観念の誕生に大きく影響を与えたことは想像に難くない。

「江戸っ子」意識の成立は「大江戸」という呼称の成立の背景となった上記要件とともに、農村から都市への大規模な人口流入がある。同じく鬼頭「人口から読む日本の歴史」(P196)から、若干時期がずれるが天保一四年(一八四三)の調査では、町方並寺社門前町人は553,257人、うち他所出生者の常住人口は165,072人で町方・寺社人口の三〇%、さらに出稼人は男女合わせて34,201人で、他所出生者+出稼人人口は三四%となり、江戸住人の三人に一人が江戸出生者ではなかった。江戸への人口の流入は江戸時代中期以降活発化した。

鬼頭宏「文明としての江戸システム」(P188)に美濃国西条村の出稼ぎ者の推移が測定された資料があるが、それによると一七七三年~一八〇〇年の間に同村から都市へ奉公に出たのは男性八七四人うち都市五四〇人で六一・八%、女子九〇一人うち都市四二七人で四七・四%であった。美濃からは江戸だけではなく京都にも出稼ぎにでているので、これらが江戸に流入したわけではないが、『江戸への労働供給圏は関東甲信越を中心に、北は陸奥に及び、西は東海道に沿って伊勢あたりへと広がっていた』(鬼頭「人口から読む日本の歴史」P194)とのことなので、各地方から江戸へ向けて人の大量流入が恒常的に起こっていた。

幕末期の狂言作者西沢一鳳「皇都午睡」では両親ともに江戸生まれの子を「真の江戸っ子」、両親いずれかが田舎生まれを「斑」、両親ともに田舎生まれの子を「田舎子」と呼んでいる。江戸生まれを「江戸っ子」と呼ぶ意識の成立は、『貨幣経済に巻き込まれた農村から多数の離村貧農が江戸に流入し、社会秩序を動揺させたことによる江戸市民の危機感の表れ』(大石P209)であった。

参考書籍
・大石 学 著「首都江戸の誕生―大江戸はいかにして造られたのか (角川選書)
・鬼頭 宏 著「文明としての江戸システム 日本の歴史19 (講談社学術文庫)
・鬼頭 宏 著「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫 (1430))

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