平安時代の経済政策「貯蓄禁止令」

平安時代初期貞観九年(八六七)に出された「貯蓄禁止令」の太政官符が興味深かったので紹介しておく。『国立歴史民俗博物館編「歴博フォーラム お金の不思議 貨幣の歴史学」』より。

『貞観九年(八六七)五月十日
延暦一七年(七九八)九月二三日の格によると、右大臣が宣するところでは、勅をうけたまわるに、銭貨を用いるのは、軽く便利なためと、銭貨を持つものと持たないものとが、交換を通じて同じように利益を得ることができるためである。
聞くところによると、畿外諸国の官僚や庶民が銭貨を多く貯蔵しているために、京畿の人々の間では、かえって銭貨流通が困難になっている。これでは、銭貨本来の目的からはずれる事態となっている。そこで銭貨の蓄積を禁止する。
(中略)
ところが今、畿外諸国の富豪の輩は、この格の趣旨を無視して、いぜんとして銭貨を蓄積している。その理由を聞いてみると、売買などに用いるためではなく、いたずらに富強であることを奢り、蓄積の多さを競い合っているだけである、ということである。このため、地方では銭貨が通用しないのに、朝廷では銭貨鋳造の負担がかえって増している。いま冷静にその損失を検討してみると、まことに改革すべきである。(後略)』(P40-41)

日本初の本格的な流通貨幣は和銅元年(七〇八)の和同開珎であるとされる。それ以前には地金としての銀が一部取引で流通貨幣として使われていたか、呪術的用途のイラスト入りの厭勝銭がほとんどであった。ただ発行しただけで流通するわけではないので、この和同開珎を流通貨幣として機能させるために、法定価値として和銅四年(七一一)、穀六升を銭一文と決め、翌年には布一常を銭五文とした。ただし、この法定価値は社会的妥当性の無い、財政的要請から強制的に付与されたものであったため、その法廷価値の維持のため、不断の政治的介入が必要とされた。(同P213)

また、官僚たちに対する給与として現物支給とあわせて銭の支給がなされ、銭を使って京の東西市で生活必需品を調達させた。あわせて、銭貨流通策として銭を蓄えた者に位階を与える蓄銭叙位令が出された。これは貨幣の流通と国への貨幣の回収を図る政策で、当初は市場への貨幣流通と、蓄銭者の動産を市場に流通させた効果があったが、やがて畿外諸国で銭の死蔵を招き、流通を損なうことになったため、延暦一九年(八〇〇)、廃止された。(同P213-215)

上記のような禁令が出されるなど、古代の貨幣流通政策は試行錯誤の繰り返しで、銭貨は改鋳を繰り返し(皇朝十二銭)ながら質を劣化させ、やがて天徳二年(九五八)の乾元大宝の発行を最後に貨幣の鋳造は終了する。著しく価値を低下させた銭貨は市場から忌避され、十世紀末までには銭貨の流通は衰退、物納・物々交換が再び主流となって、一二世紀半ばの宋銭の流入まで日本の貨幣経済は長い停滞期に入った。

参考
国立歴史民俗博物館編「歴博フォーラム お金の不思議―貨幣の歴史学
・栄原永遠男論文「銭は時空をこえる――古代銭貨の境界性」
・仁藤敦史論文「貨幣はなぜ発行されたか?――古代国家と銭貨」
・高橋照彦論文「銭貨の流通――古代から近世」

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