「スポーツを考える―身体・資本・ナショナリズム (ちくま新書)」多木 浩二 著

近代スポーツは何故英国で生まれ、これほど拡大し、また変容してきたのか。その近代スポーツ発展の過程をノルベルト・エリアスの「文明化の過程」論やミシェル・フーコーの「従順な身体」の分析を通して、誕生から近代オリンピックとアメリカナイゼーションによる変容と拡大、そして男性中心主義の限界から女性の参加に伴うスポーツにおける性差の消滅という新たな変容を経て、グローバル化の渦中で揺れ動く現代まで、スポーツと近代社会とを論じた一冊。九五年発行と、もう二〇年近く前の新書だが、現代でも色褪せないスポーツ論になっていると思う。

英国において一七世紀初頭に始まる一連の暴力革命は、特にジェントリをはじめとする富裕階級の間に暴力に対する忌避感を生み、非暴力的な手法によって権力を移譲するシステムである「議会制度」の発達をもたらす。戦闘技術から論争術や修辞、説得へという変化は、暴力の使用に対する敏感さが背景にあり、その非暴力的志向は個人の社会的習慣へ反映、ジェントリの余暇の中から規則(ルール)化されたスポーツが誕生していった。文明化とはすなわち非暴力化の過程であり、政治のゲーム化である議会制度の発展の過程と、身体のゲーム化であるスポーツの誕生とは同質・同時代的現象であった。

『近代スポーツのひとつの特徴は、身体の闘争であるにもかかわらず、そこから暴力的な要素を除き、身体の振る舞いにたいしてある規則を課したことにある。闘争ではあるが、相手を傷つけてはならないし、ましてや死に到らしめてはならないのである。』(P16)

英国の初期のスポーツであるフットボールとラグビーは都市と田舎とを行き来するジェントリ層の間で、『田舎の慣習と上流階級のマナーの結合』(P36)として生まれたが、その誕生のプロセスゆえに国民国家(ネーション・ステート)に基礎づけられる。近代スポーツは近代オリンピックの誕生と浸透の中でナショナリズムと強い親和性を持ちつつ世界中に拡大し、アメリカで新たな変容を迎える。

アメリカにおけるスポーツの変容はまず第一に選手のプロ化、第二に産業化、第三に大衆化であった。誕生の過程において英国社会の非暴力化を反映したように、米国社会の急速な資本主義化をスポーツは反映させた。ベースボールとバスケットボールはその代表格である。

『アメリカのスポーツは産業社会のなかで発生してきた「大衆」を基盤にして形成された。アメリカのスポーツは大衆消費社会と切り離せない。凡庸な言い方だが、この大衆はスポーツを日常的に消費しはじめたのである。スポーツの消費とは、そこから生じるエクサイトメントの消費であり、物語の消費であった。』(P97)

ここにメディアの登場が多大な影響を与えることになる。まずラジオが、続いてテレビがスポーツの観客を生み出し、観客を前にすることでヒーローが生み出され、エクサイトメントが提示されることで、大衆は興奮と物語を消費することができる。メディアがスポーツと観客を繋ぐことでスポーツ産業が誕生した。

近代スポーツはその誕生、発展の過程で女性性の排除と男性身体を虚構の理想としていたが、産業化し、メディアを通して世界中に拡大する過程で、女性の参加は不可避なものとなった。それには女性の社会的地位の向上という第二次大戦後の先進諸国社会の平等化の過程が強く反映した。七〇年代前後を境に次々と女性のスポーツ参加が進むなかで、性差に関するスポーツがそれまで堅持していた不平等なスポーツ文化は変容せざるを得ない。現在は、身体的、生理的な理由等から議論も多いが、七〇年代以降に始まる女性の参加によるスポーツにおける性差の消滅へ向けた変化の過程(もちろん差別は消滅していないし、根本的変化は到来していない)にあると著者は分析している。

要するに、近代スポーツの発展と浸透の過程から明らかにされるのは、スポーツがその社会と同質の構造によって誕生し、社会そのものとして発展し、ついには個々の感情を掻き立て、利害と感情の対立あるいは結合をもたらすなど社会そのものを強く動かすほどに一体のものとなってきたという過程である。スポーツの持つ矛盾、不公平、未熟さ、不条理、過剰さ、空虚さ、イデオロギーは、「社会」によって意味を与えられた言説の作用として存在する。『スポーツを問うことは社会を問うことなのである。』(P23)

丁度今ノルベルト・エリアス/エリック・ダニング共著「スポーツと文明化」を読んでいるが、同書には「スポーツにおける社会的結合と暴力」というまさにそのスポーツ文化がどのような作用で社会を反映させ、社会における暴力の文化がスポーツにおける暴力の行使に密接に影響を与えているかについての論考が部分的結合と機能的結合という観点から語られている。これについては、もし僕が理解できたようなら別の機会に書きたいところだが、色々難しいので、ここでは簡単に触れるだけにとどめておく。

その現代社会の反映として、スポーツは情報を重視するように変化してきた。ディジタル化し、スピードとダイナミズムが追求される。記録を重視する競技は目には見えないコンマ以下の数値を競う。精密な差異を追求し、その目標に応えるために競技者は極限を超えて身体を造り変えようとする。勝利への強迫観念がドーピング蔓延させ、競技者の身体を傷つけるまでに先鋭化していった。

近代スポーツはフーコーの言う規律・訓練による従順な身体という観念をこそ人間的であるとして発展させてきたものだが、『もっとも決定的な「生と死の境界」の定義が曖昧になった現在、人間的、社会的に身体概念がきわめて不確実になったことはあきらか』(P148)で、そのような現代社会における身体概念の身体からの遊離が近代スポーツの超近代化をもたらし、一方で『スポーツはスポーツとして存在するためには、人間性というすでに不確かになってしまった神話を、自らの核心におかざるをえない』(P150)。社会とスポーツの関係の逆転現象がありながら、この虚構を前提としてスポーツはあり続けざるを得ない。

その上で多木はこう指摘する。

『こうした根本的な矛盾は、スポーツが暴力を制御してきたゲーム性を解体しないだろうか。暴力がスポーツの領域のどこかから噴出しても不思議ではない状態が生じていないだろうか。』(P150)

その例としてフーリガンなどを挙げているが、その暴力の存在が顕在化した現在からみるならば、より深刻な指摘と感じずにはいられない。非暴力化によって誕生したスポーツというものが暴力を制御しえないように、あるいはその境界があやふやになりながら発展してきたのだとすると、もし、現代のスポーツにおいて、暴力が噴出したとするならば、その背後には暴力を容認する社会、矛盾が存在しながら見ない振りをしてきた社会の存在がある。スポーツが社会の反映として、また、社会はスポーツによって動かされながら、「スポーツ」は「社会」として存在している、ということが、同書を通して非常にクリアに見えてくる。

一方で同書では時代性を反映して、スポーツ、特にサッカーがナショナリズムの相対化をもたらす将来像が描かれてもいるのだが、確かにグローバル化の象徴としてサッカー文化は発展してきているが、一方でオリンピックと並んでもっともナショナリズムを強化する競技としても成長してきた面があるように感じられる。グローバル化とナショナル化とがコインの裏表であるという現代社会の一面の表出であるといえるのかもしれない。

著者の多木もエリアスも、また勿論フーコーも既に故人であるが、研究者の皆様には、このような先行研究を下敷きにして、「近代」「市民社会」「国家」「暴力」などの観点で現代からスポーツを論じる、新たな論考を期待したいところだ。

二〇年弱昔の新書とはいえ、現代のスポーツと社会の関係を考える上で、非常に重要な一冊だと思う。

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