退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ

ローマ教皇は終身制の地位だが、歴史上、退位したローマ教皇が四人おり、今回のベネディクトゥス16世で五人目となる。

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1)ポンティアヌス(在位二三〇~二三五)

最初に退位したのが第一八代教皇ポンティアヌスである。このころはまだ、キリスト教会はローマ帝国の激しい弾圧の渦中にあった。ポンティアヌスはローマ皇帝マクシミヌス・トラクスから迫害を受けサルディーニャの鉱山に、先先代のローマ教皇カリストゥス一世以来対立していた対立教皇ヒッポリュトゥスとともに流罪となり、解放の見込みがないことから二三五年九月二八日に退位した。以後ほどなくして劣悪な環境により衰弱、獄死している。

2)シルウェリウス(在位五三六~五三七)

西ローマ帝国滅亡直後、六世紀当時のローマ教皇は西ローマ帝国を滅ぼした東ゴート王国東ローマ帝国という二大国に挟まれて翻弄されていた。東ゴート王国はイタリア王位をよこせと言い、東ローマ帝国は東ゴート王国打倒のためイタリアに侵攻すると息巻いている。その渦中で右顧左眄していた。

シルウェリウスの先代アガペトゥス1世のとき、東ローマ皇帝ユスティアヌス帝がイタリア侵攻を公言、これを止めるべくアガペトゥス1世自らコンスタンティノープルに赴くが目的は果たせず、ローマに帰還することなく五三六年コンスタンティノープルで死去する。

この後継教皇を巡ってユスティアヌス帝の妃テオドラはローマの助祭ウィギリウスに、前年に異端とされていたコンスタンティノープル大司教アンティムスの復権と交換条件でローマ教皇につけてやると申し出る。

一方、ローマではすでにシルウェリウスを教皇に選出していた。彼は第五二代教皇ホルミスダスの子で貴族出身であったが、すでにイタリアに侵攻してきていた東ローマ帝国の将軍ペリサリウスに退位を迫られ、これを拒否すると、ペリサリウスによって力づくで追放される(五三七年三月十一日)。追放後、東ゴート王国と通じ皇帝打倒の陰謀を巡らせたとして新教皇ウィギリウスから裁判への出頭命令が出され、同年十一月十一日、正式に退位となり再び追放、十二月二日、餓死した。

3)ケレスティヌス5世(在位一二九四年七月~一二月)

前回の記事『600年前のローマ教皇(法王)退任「教会大分裂(大シスマ)」終結までの歴史まとめ』でも簡単に紹介したが、「アナーニ事件」の当事者ボニファティウス8世の前任者である。

一三世紀末のイタリアはアンジュー家(フランス・カペー家の一族)の強い影響下にあった。悪名高い「シチリアの晩祷事件」以降、ナポリ王シャルル・ダンジューとその子シャルル2世の意向が教皇選任に強く影響を及ぼす。シャルル2世と共同歩調を取った教皇ニコラウス4世の死後、後任を巡って枢機卿同士の対立が続き二年四か月が経ってもなお、新教皇が決まらない異常事態となっていた。

この異常事態の中で直ちに教皇を選任するよう諫言する手紙を教皇庁に送ったのがベネディクト修道会の司祭ロムーネのピエトロであった。彼は当時八〇代半ばの老人で、苦行に耐え、貧者や病人の救済に生涯を捧げ、その救済に専念する専門の修道会(後のケレスティヌス修道会)の創設者として非常に高い名声を誇っていた。その手紙を受け取った枢機卿たちはひらめいた。ピエトロになってもらおう。彼は自分が教皇に選ばれたという衝撃の手紙を受け取ることになる。さらにシャルル2世にも懇願され、渋々ローマ教皇ケレスティヌス5世となった。

しかし、当時のローマ教皇の座は人徳や高潔さや名声だけでは務まらない非常に世俗にまみれた地位であったから、自身は適さないとして改めて退任を申し出て、再び教皇選挙によって後任が選ばれることとなった。それがボニファティウス8世である。

ボニファティウス8世は就任早々強い教皇の復活を目指して野心的に活動を開始、有力貴族コロンナ家と争うが、コロンナ家はボニファティウス8世への攻撃として前教皇ケレスティヌス5世の退任が合法ではなく、よってボニファティウス8世も正当な教皇ではないと主張する。ボニファティウス8世は保身のため、口封じに年老いたケレスティヌス5世を捕え、フェレンティノ近くのフモーネ城に軟禁、ケレスティヌス5世は獄中で病死した。

ケレスティヌス5世はボニファティウス8世に「汝は狐のように駆けあがり、ライオンのように君臨したのち、犬のように死ぬことだろう」(ミシュレP43)と、その末路を予言し、果たしてボニファティウス8世はその通りの最期を遂げることとなった。
ケレスティヌス5世は後に一二世紀~一五世紀を通してただ一人だけ聖人教皇に列せられている。

4)グレゴリウス12世(在位一四〇六~一四一五)

教会大分裂(大シスマ)」終結時のローマ教皇。詳細は以前まとめた『600年前のローマ教皇(法王)退任「教会大分裂(大シスマ)」終結までの歴史まとめ』を参照のこと。

また退位ではなく廃位された教皇、正当な教皇ではなく対立教皇で退位した者も多数いるが、一応正式に退位としてカウントされているのはこの四人であるようだ。(マックスウェル・スチュアート「ローマ教皇歴代誌」P6)

※例外1)レオ8世(九六三年十二月~九六四年二月)とベネディクトゥス5世(在位九六四年五月~八月)

レオ8世は平信徒でありながら、神聖ローマ帝国初代皇帝オットー一世(大帝)に教皇に指名されて一日で全叙階を駆け上って就任するもその三か月後に廃位。ベネディクトゥス5世は同じくオットー大帝に勝手にローマ教皇に選任され、すぐに怒りを買って退位させられた。正式なローマ教皇なのか議論の余地があるが、一応両方ともローマ教皇に数えられてはいる。

※例外2)ベネディクトゥス9世(在位一〇三二~一〇四四、一〇四五、一〇四七~一〇四八)

十一世紀初頭のローマ教皇位は名門貴族クレッシェンティ家とトゥスクルム家の世襲によって続けられることとなっていた。ベネディクトゥス9世はトゥスクルム家出身、先代教皇ヨハネス19世の甥で就任時二〇歳前後の若者だった。彼は放蕩な私生活で悪名高く、退位と復位を繰り返したあげく追放され、破門となった。彼の一回目の退位後に就任したシルヴェステル3世はクレッシェンティ家出身であったが、わずか一ヶ月でベネディクトゥス9世に取って代わられている。また、ベネディクトゥス9世の二回目の退任後に彼の代父グレゴリウス6世が就任したが、これは金で教皇位を買ったとの疑いが濃厚で、教会会議で有罪となり一年半で廃位させられている。

参考書籍
・P・G・マックスウェル・スチュアート「ローマ教皇歴代誌」
・ジュール・ミシュレ「フランス史 2 〔中世(下)〕 (フランス史(全6巻))」
・松本宣郎「キリスト教の歴史〈1〉初期キリスト教~宗教改革 (宗教の世界史)」

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