「萌え」の第一歩は巴マミを「マミさん」と呼ぶか否かでは?

最近ちょくちょくアニメを見るようになって、アニメにハマれるかどうか、登場人物に「萌え」られるかどうか、はその物語の中の関係性をそのまま受け入れて、その中に自身を組み込んで語れるかどうかにかかっているような気がしてきているので、ちょっと漠然と思っていることをメモ的に書いておきたいと思います。

例えば魔法少女まどか☆マギカの巴マミというキャラクターは、主人公にとっては先輩にあたるため劇中では「マミさん」とさん付けで呼ばれます。多くの視聴者にとってはかなり年下の子どもと言って良い年齢差ですが、同様に視聴者も多くが「マミさん」と呼んでいるようです。僕も「マミさん」と呼ぶのが自然です。

他のアニメでも例えば、草薙素子は「少佐」、中野梓は「あずにゃん」、戦場ヶ原ひたぎは「ガハラさん」など、出した例えは悪いかもしれませんが、劇中の関係性におけるニックネームが、視聴者の側で話題に上る際にも、役名よりも優先されて呼ばれていることが多いのではないかと思います。

「萌え」という言葉は曖昧だし、何かしら定義不可能性があるとは思うのですが、それが所有欲からくるものであれ、愛でたいという好意の念であれ、性的な欲求であれ、作中の虚構の関係性と自身を含めた実体的な関係性とが交差しないと、やはり感情として抱きにくいんじゃないかと思うんです。つまり、まず作中の関係性を受容するか否か、受容させやすい作品であるか否かが、”ハマる”とか”萌え”とかの最初のステップになっているんじゃないかなぁと。

一般映画でも例えば「マトリックス」はその作品を語るときキアヌと呼ばずに「ネオ」と俳優名より役名で呼ぶ人が多い気がします。他のキアヌ・リーブス出演作品だと逆に役名で呼ばずにキアヌと呼ぶ場合が多い。同様に「スターウォーズ」でもハリソン・フォードと呼ぶより「ハン・ソロ」と呼ぶ方が心理的に自然な気がします。これ、デ・ニーロ出演作品とかで考えてみると面白いかもしれないんですが、普通どんな映画でもその作品を語るときには役名より俳優名のデ・ニーロで呼ぶような気がするんですが、「タクシードライバー」なんかになると作品を語るとき「トラヴィス」と役名で呼ぶことが増えるような気がします。「ディアハンター」「ゴッドファーザー」なんかはどうだろうか。前者はマイケルと呼び、後者はデ・ニーロと呼ぶ気がするのだけど、何故だろうか。演者の知名度にも大きく左右されると思いますが、その知名度をねじ伏せるほどに役名が優先されて呼ばれる作品というのはあるんじゃないかと。

物語世界の関係性を視聴者にすんなりと自分のものとして受け入れさせやすい作品か、そもそも物語世界の関係性を受け入れやすい何らかの嗜好を持っている人か、どちらがより強いのか、あるいはその特徴や構造などはよくわかりませんが、ハマる、萌えることのかなり初期に、作品の関係性を受容して作中の呼称を使うというのがあるんじゃないかと思います。

あ、まどマギは青や赤の生き様に涙しつつ黒の背負った運命(さだめ)にむせる派です。

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