東京の「誰にも注目されない場所」を執拗に掘り下げて紹介する

先日超人気ブロガーであるところのコンビニ店長さん(idよめない)が「特に注目されない町を執拗に紹介する・その1 – 24時間残念営業」「特に注目されない町をふつうに紹介する・その2 – 24時間残念営業」(リンク切れ)という記事を書いておられて非常に保土ヶ谷区和田町への注目を集めておられたのに便乗して、僕も「特に注目されない場所」を執拗に紹介したいと思います。かくいう私も散歩者でね(合田)。

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1)世田谷区弦巻の八幡小祠

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東京都世田谷区弦巻、世田谷中央図書館からほど近い閑静な住宅街の一角に、八幡神を祀った小さな祠がある。かつてここには八幡神社があったが、明治の神社合祀政策の波を受けて明治四十一年近くの弦巻神社に合祀され廃された。

明治末期、神社合祀と呼ばれる全国の神社を伊勢神宮を頂点としたピラミッド体制へ再編成する過程で行われた寺院と神社の分離、一町村一神社制の推進政策によって、全国の神社は三分の一程度にまで減少、行政区画ごとに一つの神社に統合された。神社は村落共同体の中心であり生活に密着した存在であったから、各地で反対運動おき、一度は合祀されながら地域住民の手によって復された神社も少なくない。結果、国家神道への集中と地域信仰の衰退とをもたらすことになり、国家神道の消滅後には日本各地の信仰・地域文化を大きく毀損することになった。

そんな時代背景を押さえつつ、この八幡小祠が出来ることになったエピソードはささやかながらとても興味深い。ここにあった八幡神社が弦巻神社に合祀されてからほどなくしたころのことだ。当地の地主の夢枕に八幡神が立ち、元の場所に帰りたい、と泣いたという。夢から覚めた地主は旧八幡社のあったこの地に小さな祠を作り、夢の中で帰りたいと泣いた八幡神を祀った。時代は移り、背後には高級マンションが建っても、現代までひっそりと小さな祠として残されている。

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弦巻神社と八幡小祠

2)目黒区中目黒の第六天社

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中目黒駅前の超高層オフィスビル「中目黒GTタワー」の裏手に「第六天社」という小さな小さな神社がある。おそらくオフィスワーカーのほとんどは気付きもしないであろう、はっきりとそこにありながら注目されない場所の一つだと思う。この神社もまた神社合祀を契機として流転の歴史を辿ることになった神社である。

第六天は第六天魔王として名高い天上界の第六天欲界を統べる仏教神他化自在天のことで、江戸時代には広く信仰を集めていた。しかし明治に入ると第六天を祀る神社はその多くが廃され、残った第六天も他化自在天から日本神話にいう神代七代の第六代面足命・惶根命へと変更させられた。いわば強制的に信仰の弾圧が行われたという歴史がある。日本中の第六天を祀った神社は消滅か、もしくは残されたとしても祭神の変更を余儀なくされた。

この第六天社は、元々は今の山手通り沿いに架かっていた石川橋のたもとにあり、その後、現在地よりもっと山手通り寄り高架際(2丁目1番6号)に移り、今の上目黒3丁目地域にあった「石川田圃」や同5丁目「小川田圃」を水害、旱魃から守る神として信仰されていたが、明治四十五年、神社合祀によって上目黒氷川神社に合祀され、跡地もやがて環状六号線の建設工事のため失われてしまう。しかし、地域の人びとの間では復祀の想い強く、昭和十年に現在の目黒銀座と蛇崩川緑道の間の路地裏に再建。以後ひっそりと信仰を集めていたが、平成十一年、中目黒周辺の再開発によって取り壊され中目黒八幡神社に移されしまう。それでもこの神社が廃されることはなかった。地元の有志によって、平成十四年、現在地にこのように小規模ながら再建され、現在へと至っている。

この写真は五年ほど前に訪れたときのものだが、おそらく若く細い桜は今はもっともっと見違えるほどに太く大きくなっているのではないかと思う。都心のど真ん中でひっそりと、しかし、今度こそ永く遠くそこにあり続けられれば良いと願わずにはいられない。

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中目黒の第六天社

3)道祖神の墓場

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江戸時代には、江戸から多くの街道が整備され、宿場町が栄え、武家の参勤交代、商人たちによる物流、農村から都市への出稼ぎの人びと、そして中期以降には旅行ブームが訪れたことで江戸から富士山登頂、伊勢神宮参拝、大山詣でなどの旅行客によって、街道はかなりの人の往来があった。街道をゆく人々は道々に設えられた道祖神や地蔵、庚申塔などに旅の安全を祈り、また残念ながら死した旅人や動物たちの供養塔・馬頭観音像などが立ち並んでいた。数えられないほど大量に建てられたそれら街道沿いの石像群は、戦後の都市近代化の中で静かに姿を消していく。

国道246号線はかつて大山道(矢倉沢往還)という街道の一つであった。赤坂見附付近を基点として青山、渋谷を通り、三軒茶屋交差点付近で新道(現在の世田谷通り)と旧道(現在の246号線)に分岐し、両道は用賀付近で再び合流、多摩川を渡し船(二子の渡し)で渡って溝の口、鷺沼、長津田、さがみ野、厚木などを抜けて神奈川県伊勢原市の大山へと繋がっていくルートである。大山詣でがブームとなったこともあって、大山道は両者の往来が非常に多い道であった。当然、その道中には多数の石像が置かれ、旅人が祈りを捧げていた。

以前三軒茶屋付近を歩いていた時に偶然見つけたのが、写真の、246号線沿いの空き地に無造作に集められた石仏だちである。かつてあった道祖神たちは多くは最寄の神社や寺院の境内に移設、あるいは郷土資料館などに置かれ(世田谷区の郷土資料館にも多く置かれている)、一部が道中に丁寧に保護されて残されるが、それでも収まらないものたちは破壊されることになる。

ここは、もはや誰かに祈られることも無く、誰かを見守ることも無く、役目を終えてただ無造作に集められた神々の墓場だった。

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国道246号沿いにある道祖神の墓場

4)亀戸梅屋敷跡

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丁度梅が見ごろを迎える季節だが、江戸時代の梅の名所を紹介しよう。

本所深川の豪商伊勢屋彦右衛門の別荘清香庵は庭内に多数の梅が植えられていたことから梅屋敷と呼ばれ、その中の一本「臥龍梅」は梅の枝が地を這う龍のように見えたことから水戸光圀が命名したという。また、徳川吉宗もここの梅を愛でて鷹狩の帰りに立ち寄ったと伝わる。見ごろを迎えると、多くの人で賑わい、江戸名所図会などにも取り上げられるなど江戸屈指の行楽地として多くの人の注目を集めた。特に絵師歌川広重がここの梅をこよなく愛し、多数の作品を世に送り出した。有名なのが後にゴッホも模写したという歌川広重の代表作「亀戸梅屋敷」だろう。

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しかし、明治四十三年、大雨による隅田川の水害によってこの一帯が水没し、全ての梅の木は枯れて梅屋敷も廃園となった。現在はここにはかつて梅屋敷であったことを記す看板とちょっとした植込みの他は何も残されてはいない。かつて誰もが注目し、今や誰も注目しない場所である。

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梅屋敷跡

5)布田郷学校跡

布田郷学校跡

東京都調布市調布駅からほど近い布田天神社裏に「布田郷学校跡」の石碑と看板がひっそりと設けられている。ここには明治四年から明治七年にかけて、何もかも無料で教育を施すという当時としては画期的な学校があった。丁度明治新政府樹立直後の混乱の時期で、学校制度の確立もまだ端緒についたばかりのころであったから、民間で様々な試みがなされていた時期で、その中でも特筆すべき事例の一つだと思う。

その仕組みとしては、大規模な養豚業で出た利益で授業料や教科書代などを含めて費用を賄うというもので、国学・漢学・洋学・作文・習字・算術・西洋農学が当初40名、のちに最大200名余りの子どもたちに教えられることとなった。いわゆる教育ベンチャーの走りで、豚が頑張って増えれば子供が学べるようになるという構図が非常に面白おかしい。

しかし、ビジネスモデルに元々アバウトなところが多かったせいか、そもそもの仕組みに難があったか、わずか三年で養豚業は破綻、布田郷学校は閉鎖となり、この先駆的な試みは失敗に終わった。そのような、かつての人びとの教育にかける思いがあったことだけが、現在は石碑と案内板に残されているにすぎない。

以前まとめた記事にその興廃は詳しく書いている。
豚が日本を救う?明治四年の教育ベンチャー「布田郷学校」

まぁ、あまり注目されないことでは定評のある当ブログの中でも特に、多くの人に読んでもらいたかったにも関らず、ほとんど注目されない記事の一つではあったのだが(笑)

まだまだ紹介したい注目されない場所は多数あるが、とりあえずこの五つで済ませておこう。どうみても誰も注目しようと思わないにもほどがある場所たちですが。当ブログの散歩記事は、実に、殊更に、全く持って注目されないカテゴリの一つであるのだが、こういう注目されない場所やエピソードをひっそりと書き連ねているので、たまにでもご覧いただけると、意外と面白いかもしれないなどと思ったりはしております。

あ、ところで上で紹介したコンビニ店長さんの和田町については、軽く調べてみた限り、色々歴史的に面白そうでありましたので、そのうち訪れて実際に見て回り、色々郷土史を調べた上で紹介するかもしれません。東海道保土ヶ谷宿と連携して鎌倉道が和田町で、ふふふ・・・和田町の町名って和田義盛由来なのね、ふふふ・・・。

誰も注目しない場所にも脈々と流れる歴史があり、人々の営みがある、というのは散歩をしていて甚く感じさせられることでありますので、その姿をじっくりと見つめ、掘り下げて行きたいと常々思っております。そこで浮かび上がってくるその場所の持つ言葉に表せない何か――例えばそれは都市論の用語では「ゲニウス・ロキ(地霊)」という言葉で表されたりもするが――は僕にとってはとても注目に値するものばかりですので。

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