ローマ教皇(法王)ベネディクトゥス1世~15世歴代15人まとめ

ローマ教皇ベネディクトゥス16世の退位にちなんで、同名のローマ教皇たち1世から15世までの簡単な事跡についてまとめ。ヌルシアのベネディクトゥスについては松本宣郎編「キリスト教の歴史〈1〉初期キリスト教~宗教改革 (宗教の世界史)」、各ローマ教皇についてはP・G・マックスウェル・スチュワート著「ローマ教皇歴代誌」とwikipedia各ページ、他西欧史関連書籍を参照。

ベネディクトゥスという名はベネディクトゥス修道会の創設者として知られるヌルシアのベネディクトゥス(四八〇頃~五四七年)にちなむ。彼は西暦五二九年、モンテ・カッシーノ修道院で独自の極端に走らない中庸な共同性を重んじた禁欲主義に基づく修道規則を執筆し、それが後にシャルルマーニュやルイ1世に受け入れられ、西方カトリック世界の修道院のスタンダードとして広く浸透した。その規則に従い修行を続ける修道士たちは中世の強い教皇権の基盤となっていくことになる。標語「祈れ、そして働け」は名高い。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

1) ベネディクトゥス1世(在位五七五~五七九)

イタリアに総督を派遣し実効支配していた東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の死後、イタリアはローマ教皇が権威を回復していたが、五六五年にペストが流行し、その痛手も癒えぬ五六八年、ランゴバルド族が北イタリアに侵入し瞬く間に勢力を広げてランゴバルド王国が建国される。時のローマ教皇ヨハネス3世は南ナポリに逃亡、東ローマ帝国に支援を請うが、かねてから対立関係にあったことで、満足な助力も得られずランゴバルド軍の南下は止まらない。

ベネディクトゥス1世はそのようなイタリア動乱の渦中でローマ教皇に就任した。彼の在任中の成果はほとんどない。教皇就任の許可が皇帝からなかなか下りず、即位まで十一か月かかったこと。イタリアが飢饉に見舞われたが無策であったこと。五七九年にはついにランゴバルド軍がローマを包囲し、東ローマ帝国からの援軍がそれに対峙する中で苦悩のうちにこの世を去った。

2) ベネディクトゥス2世(在位六八四~六八五)

七世紀のローマ教皇も引き続き東ローマ帝国皇帝の強い影響下にあり、教皇就任には皇帝の許可が必要だった。教皇ホノリウス1世(在位六二五~六三八)の唱えたキリスト単意論(キリストは神性と人性の二つの意思を持っていたのではなく、ひとつの意思を働かせていたとする説)を巡って起きた神学論争は六八〇年のコンスタンティノープル公会議キリスト両意論を正統、キリスト単意論は異端とされたが、それまでの間、東ローマ帝国とローマ教皇との間で神学論争が駆け引きの道具として使われた。

その渦中で就任したベネディクトゥス2世はわずか十か月の在任期間であったが、皇帝との交渉で、新教皇就任に際して皇帝の承認は直接コンスタンティノープルで行うのではなく、ラヴェンナ駐在の皇帝代理が行うこととする譲歩を引き出す成果を上げた。

3) ベネディクトゥス3世(在位八五五~八五八)

八世紀半ば、教会史上画期となる出来事があった。時のローマ教皇ザカリアス(在位七四一~七五二)は巧みな外交手腕の持ち主で、ランゴバルド王国と和平条約を結び、東ローマ帝国と関係を修復しつつ、七五一年、フランク王国宰相ピピンが王位を簒奪するにあたって、その簒奪に正統性を与えカロリング朝の誕生を後押しした。その見返りとして、後にピピンがランゴバルド王国を破って手に入れた領土を教皇に寄進。この史上名高い「ピピンの寄進」によって後のローマ教皇領が誕生する。以後、ローマ教皇はフランク王国と密接な関係を築いていく。

ピピンの子カール大帝(シャルル1世、シャルルマーニュ)は西ローマ皇帝として戴冠しフランク王国は大帝国として欧州に君臨したが、その死後、敬虔王ルートヴィヒ1世は王宮の一部が破損したことを自身の死の予兆と感じ、八一七年、長子ロタール1世を共同皇帝としイタリア、次男ピピンにアクイタニア(現在のフランス・ボルドー一帯)、三男ルートヴィヒ2世にバイエルンを与え、これがフランク王国の分裂へと繋がっていく。結局、死の予兆だけでルートヴィヒ1世は死なず、さらに四男シャルル2世が誕生、シャルルを溺愛するルートヴィヒ1世は彼にも領土を分け与えようとして混乱に導き、八四〇年ルートヴィヒ1世が崩御すると、八四三年、度々の武力衝突を経てヴェルダン条約によりシャルル2世の西フランク王国、ルートヴィヒ2世の東フランク王国、ロタール1世の中部フランク王国に帝国は三分割された。

ローマ教皇たちはそのフランク王国分裂の骨肉の争いに巻き込まれ、イタリアを支配するロタールに服属を余儀なくされた。それでもロタールの同意を得ずに教皇就任が行われるなど、教皇権は確実に強化されつつあった。ローマ教皇に対して対立教皇が立てられるなど分裂気味の中で、ベネディクトゥス3世は最初に教皇に選ばれた人物が就任を拒否したことで選び直されて教皇となったが、毅然とした態度でロタール1世に臨み、ロタール1世死後の子どもたちの後継者争いに干渉し、東ローマ帝国にも従属することなく、基盤が弱い中で精力的に活動した。

4) ベネディクトゥス4世(在位九〇〇~九〇三)

八九一年にローマ教皇となったフォルモスス(在位八九一~八九六)はイタリア王(ローマ皇帝)との対立で東フランク王アルヌルフと結ぼうとしたがアルヌルフの死によって失敗し、フォルモススの方針を巡って教会はフォルモスス派と反フォルモスス派に分裂、死後ベネディクトゥス4世が就任する四年間で五人の教皇が次々とフォルモスス派と反フォルモスス派に分かれて右往左往していた。

ベネディクトゥス4世はフォルモスス派に属して彼の復権に尽力、イタリア王国の後継者争いにも介入したが、慣例ではローマの貴族階級から選ばれていた後任の教皇に教区司祭を指名し、血で血を洗う教皇後継者争いの火種を作ることとなった。後継者レオ5世は対立教皇クリストフォルスに投獄され獄死。不在中クリストフォルスが教皇として君臨、一方、セルギウス3世が新教皇に就任すると、反フォルモスス派の彼はフォルモスス派を一掃する動きに出る。以後、教皇権を巡る政争は長く続いていくこととなった。

5) ベネディクトゥス5世(在位九六四)

彼については以前の記事『退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ』でも触れた。ベネディクトゥス5世は神聖ローマ皇帝オットー大帝に勝手にローマ教皇に選任され、すぐに怒りを買って退位させられた。正式なローマ教皇なのか議論の余地がある。

6) ベネディクトゥス6世(在位九七三~九七四)

ベネディクトゥス6世もオットー大帝の強力な後ろ盾で誕生した傀儡であったが、九七三年、オットー大帝が崩御するとベネディクトゥス6世はローマ市民の支持を受けた対立教皇ボニファティウス7世によって捕えられ、獄中で殺害された。

7) ベネディクトゥス7世(在位九七四~九八三)

混沌極まる状況下で教皇に就任したベネディクトゥス7世は対立教皇ボニファティウス7世を破門し、オットー2世との関係を修復、修道院改革を行い、腐敗の温床となっていた聖職売買の禁止を定めるなど混乱を収束させ、目立たないながらも堅実な手腕で安定をもたらした。しかし、その死後、対立教皇ボニファティウス7世が復権し再び動乱の時代へと突入していった。

8) ベネディクトゥス8世(在位一〇一二~二四)

神聖ローマ皇帝とローマ教皇の蜜月は長く続かなかった。ローマは一〇世紀以後内紛と反乱の時代を迎えており、度々暴動、叛乱、政争が繰り返される戦国時代に突入していた。古代ローマの復活を夢見るオットー3世はローマ巡礼を数度にわたって行い、古代ローマ宮殿があったパラディーノの丘に宮殿の建設も行ったが、一〇〇一年、ローマ近郊ティベリで暴動が起きると、それを契機として貴族トゥクスルム伯グレゴリウスがローマ市民の後押しを受けて反旗を翻し、教皇と皇帝はともに一時、ローマから離れざるを得なくなった。一〇〇二年、オットー3世が崩御、ローマ教皇は名門クレッシェンティ家とローマを実効支配するトゥクスルム家から選ばれる世襲制に変わっていた。

ベネディクトゥス8世はトゥクスルム伯グレゴリウスの息子であった。就任後、対立教皇グレゴリウス6世に追われて一時ローマを去るが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の協力でグレゴリウス6世を放逐すると、ハインリヒ2世とともに教会改革に乗り出す。一〇一六年、サラセン人が南ヨーロッパ沿岸を襲撃してくるようになるや、自ら海戦に参加し、東ローマ帝国の勢力伸長に対してはハインリッヒ2世に協力を仰ぐことでその侵攻を食い止めるなど、かなり勇ましい人物であったようだ。

9) ベネディクトゥス9世(在位は後述)

彼については5世と同じく以前の記事『退位した歴代ローマ教皇(法王)四人まとめ』で触れている。ベネディクトゥス9世はトゥスクルム家出身、先代教皇ヨハネス19世の甥で就任時二〇歳前後の若者だった。彼は放蕩な私生活で悪名高く、退位と復位を繰り返したあげく追放され、破門となった。彼の一回目の退位後に就任したシルヴェステル3世はクレッシェンティ家出身であったが、わずか一ヶ月でベネディクトゥス9世に取って代わられている。また、ベネディクトゥス9世の二回目の退任後に彼の代父グレゴリウス6世が就任したが、これは金で教皇位を買ったとの疑いが濃厚で、教会会議で有罪となり一年半で廃位させられている。在位期間は一〇三二~一〇四四、一〇四五、一〇四七~一〇四八の三回だが、正式なカウントは不可能。

10)ベネディクトゥス10世(?~一〇七三)

彼は正式なローマ教皇ではなく対立教皇にあたる。

一〇五四年、ローマ教皇とコンスタンティノープル総大司教が互いに破門し合い、東西教会の分裂が決定的となると、一〇五五年にローマ教皇に就いたウィクトル2世(在位一〇五五~一〇五七)は勢力を拡大しつつあったノルマン人対策のため神聖ローマ帝国と結び、イタリアで最大の勢力を誇るようになっていた神聖ローマ帝国の廷臣ロレーヌ候ゴドフロワと通じて、ゴドフロワの弟フレデリックをモンテ・カッシーノ修道院の修道院長に就かせる。

このフレデリックがローマ教皇ステファヌス10世(一〇五七~五八)となり、神聖ローマ皇帝に幼帝を廃して兄のゴドフロワを就かせるべく画策するが、わずか半年で死去。その死の前、後任のローマ教皇選任に際しては腹心のヒルデブランドゥス(後のグレゴリウス7世)が外交の旅からローマに戻るまで待つよう遺言していたことから、教皇の急死からその帰還までの間空白期間が生じてしまっていた。

この空白期間中に権力を握ったのが対立教皇として立ったベネディクトゥス10世であったが、一〇五八年、ニコラウス2世が選任されるとベネディクトゥス10世は逃亡、その後捕えられて降格処分を受けた。

11)ベネディクトゥス11世(在位一三〇三~〇四)

アナーニ事件」と「アヴィニョン虜囚」の間でわずかの期間だけ就任した人物。アナーニ事件とアヴィニョン虜囚については以前書いた記事『600年前のローマ教皇(法王)退位「教会大分裂(大シスマ)」終結までの歴史まとめ』を参照。アナーニ事件後の混乱収拾を図ろうと尽力したが、騒動の渦中でローマに居られなくなりペルージャに退去、同地で死去した。死因は赤痢とされるが毒殺説もある。次代のクレメンス5世からアヴィニョン虜囚が始まることとなる。

12)ベネディクトゥス12世(在位一三三四~四二)

アヴィニョン時代の三人目の教皇にあたる。無力だったクレメンス5世、アヴィニョン教皇庁の基礎を作りながらも、厳格過ぎたヨハネス22世に続いて就任したベネディクトゥス12世は、教会改革に積極的で賄賂などの悪習の撤廃に尽力したが、一方でアヴィニョンに教皇宮殿を建設し、外交的にも前教皇時代から続く神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世との対立で、皇帝が譲歩をしてきたにも関らず、フランス王フィリップ4世を恐れるが余り、ルートヴィヒ4世を離反させることとなった。また、オッカムの剃刀でお馴染みのオッカムのウィリアムを前教皇ヨハネス22世に倣って破門に処した。

13)ベネディクトゥス13世(在位一七二四~三〇)

前回のベネディクトゥス12世から四百年近く経っていることもあり、ローマ教皇を取り巻く情勢は全く変わっていた。腐敗の時代から十字軍を指揮する強い教皇権の時代を経て教皇の分裂、宗教改革運動とカトリックの再興、イエズス会などによる世界布教、そして時代はフランス王ルイ14世らをはじめとする絶対王政諸国の時代へと移り変わり、一八世紀の教皇権は形骸化が著しい。

ベネディクトゥス13世の前任者インノケンティウス13世(一七二一~二四)は同じ名を冠した全盛期の教皇とは比べるべくも無く政治的に無力で、神聖ローマ皇帝カール6世にシチリアとナポリを与え、フランス王ルイ15世の摂政デュボアを枢機卿に任命することを強いられた。

続いて教皇に就任したベネディクトゥス13世はその行動全てが裏目に出た。就任後も修道士としての修業を止めず、病人を見舞ったり貧者の世話をするなどしたが、むしろこれはローマ教皇らしからぬ行為として評価を落とし、『教皇としては過去に先例がないほどの倹約家』(P256)らしく枢機卿たちの流行を追う風潮に歯止めをかけるため、かつらの着用を禁止して、笑いものとなった。教皇グレゴリウス7世の祝日を祝おうという呼びかけを行ったが、むしろこれは「カノッサの屈辱」を人々に思い出させることとなり、教皇の人気はさらに急降下していった。さらに人を見る目が無かったか、彼が取り立てた枢機卿コスチアとその一味は賄賂を取って私腹を肥やすことにしか興味が無い俗物たちで、教皇庁の財政悪化を招いた。また、13という数字を嫌って、一時ベネディクトゥス14世を名乗ったが、混乱を呼ぶだけということで、13世に戻している。

14)ベネディクトゥス14世(在位一七四〇~五八)

全てが裏目だった13世と正反対に、功罪相半ばするものの一定の成果を残したのが14世である。

スペインやオーストリアなどを相手に司教任命権について合意を取り付けるなど、外交の舞台で巧みに立ち回った。一方、神聖ローマ皇帝カール6世の死に始まる「オーストリア継承戦争」(一七四〇~四八)では当初マリア・テレジアを、続いてバイエルン候カール・アルブレヒト支持に転じ、最終的にオーストリアを敵に回すこととなった。また、宣教地における現地文化への過度の適応政策を批判し、これはイエズス会によるアジア布教に歯止めをかける結果となったが、反面、商業主義に陥っていたイエズス会の綱紀粛正も行っている。

彼は外交より内政に成果を残しているとされる。教皇庁の財政を立て直し、司教の務めを強調し政務日課書の改訂を行い、教皇庁の体制の整備に成果を残した。また学問振興に非常に力を注ぎ、ローマに四つのアカデミーを創設、ローマ大学に高等数学と化学の講座を新設、ボローニャ大学の解剖学研究を復活させ、外科学口座を創設、ボローニャの科学研究所には自身の蔵書とモンティ枢機卿の蔵書合わせて八万冊の書物と二万五百冊の写本を寄贈し、一八世紀の科学研究最大のパトロンとしてその名を残すことになった。

教皇就任時のコンクラーヴェに際し「聖人がいいならゴッティを、政治家がいいならアルドブランディーニを選ぶといい。だが誠実な男を選びたければ私に票を入れてほしい。」と演説したという。非常に聡明な人物であったらしい。

15)ベネディクトゥス15世(在位一九一四~二二)

第一次世界大戦の勃発とともに戦争回避に尽力した前任者ピウス10世が死去し、新たに教皇に就任したベネディクトゥス15世は中立を表明、和平の実現に向けて様々な和平案を提案したり、捕虜と家族の再会をする機会を設けるなど尽力する。しかし、一九世紀、カトリシズムに固執してきた教皇庁と世俗諸国との間には大きな断絶があり、ベネディクトゥス15世の提案はことごとく拒否された。一九一九年の講和会議でも教皇は無視されたが、それでもくじけず、世俗国家と教会との和解の道を探り続けた。

一九二〇年、ベネディクトゥス15世はジャンヌ・ダルクを聖人に列し、これがフランスとの和解の契機となった。ジャンヌ・ダルクは一九世紀にフランスでナショナリズムの象徴となっていたから、列聖したことで態度を軟化させることとなったためである。また、一九一七年の帝政ロシア崩壊後、東方教会との再統一を目指して教皇庁に東方教会省と教皇庁東宝委員会を設立した。

色々と和平と和解のために尽力したが『大戦下のヨーロッパでは正当に評価され』(「ローマ教皇歴代誌」P281)なかった人物であった。

参考書籍

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク