鎌倉はどこまでが鎌倉か?

鎌倉はどこまでが鎌倉か?以下松尾剛次著「鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー)」より。

鎌倉時代、首都的な機能を備えていた都市鎌倉には鎌倉とそれ以外とではっきりとした違いがあった。例えば平安京が洛中と呼ばれたように鎌倉とされる地域一帯は「鎌倉中」と呼ばれ、まず行政単位として鎌倉中は保、鎌倉外は里という制度が敷かれ、各保には保奉行人という責任者が置かれていた。

鎌倉中の内と外との明確な区切りは、中世の境界がグラデーション的な観念であったことを反映して、当然のことながら曖昧ではあるが、鎌倉中の境として、東は六浦(現在の横浜市金沢区六浦)、西は稲村ヶ崎(鎌倉市)、南は小坪(逗子市小坪、北は山内(鎌倉市山ノ内)、または稲村ケ崎に変えて片瀬川(藤沢市片瀬地区)であったとされる。鎌倉時代を通して定期的に鎌倉中と外とを聖別し、悪鬼を鎌倉の外に追い払う祭礼「四境祭」が執り行われており、その四か所が四境として挙げられている。また、由比ヶ浜もかって葬送の場であったことから境界性は強い。

その四境にはそれぞれ律宗寺院が置かれることが定められていた。西南の極楽寺、東南の萬福寺、東北の金沢称名寺、西北は不明で、律宗寺院が鎌倉の境界を守る存在であると認識されていたとされる。これは当時の律宗が非人やハンセン病患者などマージナルな人々の救済活動に尽力していたことと関係があるかもしれない。

知らぬ人の無いほどの有名な観光名所「鎌倉高徳院の大仏」はその境界の「外」に設けられていた。建設当初の大仏の建設地は「深沢里」であったとされる。『目に見えぬ悪鬼・悪霊を、その巨大さによって威嚇し、退散させる存在、仏(仏の力)そのものであった。』(松尾P27-28)やがて鎌倉都市圏が拡大するにつれて大仏は鎌倉中と認識されるようになっていたという。大仏は鎌倉中と外を分ける境界で鎌倉を守る存在であった。

鎌倉の外は「田舎」と呼ばれたと考えられている。中世、奈良でも奈良の都市圏は奈良中と呼ばれたが、奈良中の外の大和国内地域は「田舎」と呼ばれていた。一三世紀の文献に鎌倉から田舎に出かけたという記述があり、奈良中―田舎の関係と同様に鎌倉中の外の相模国内の諸地域も「田舎」と呼ばれたのではないかと松尾剛次氏は書いている。

鎌倉を歩くと、この境界性は、峻険な地形、鎌倉中と外とを繋ぐ七つの街道「鎌倉七口」の遺構などから今でも実感できるところではある。街を歩いているときに、境界を認識させられる瞬間の空間と時間が歪んで過去へと引き摺られそうになる感覚ほど身体にダイレクトに響くものはない。

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