見頃を迎えた鎌倉最大の梅林「十二所果樹園」と「朝夷奈切通」

鎌倉駅からバスで20分ほどいった鎌倉市東部、鎌倉霊園裏手に鎌倉最大400本の梅林があると知り、丁度見ごろでもあるので行ってきました。

ルートはこんな感じです(所要時間二時間~二時間半)。
鎌倉駅東口から湘南京急バス鎌23(鎌倉霊園行)または鎌24(金沢八景駅行)→十二所神社バス停下車→十二所神社(じゅうにそじんじゃ)→梶原景時太刀洗の水→十二所果樹園(じゅうにそかじゅえん)→朝夷奈(朝比奈)切通(あさひなきりとおし:六浦道)→朝夷奈熊野神社→朝比奈バス停→鎌倉駅

途中で朝比奈切通に行かず十二所神社バス停方面に戻り、徒歩で近隣の寺院(光触寺、明王院など)を歩きつつ鎌倉へ、あるいは鎌倉駅から朝比奈バス停まで行き逆に廻って十二所神社からさらに近隣の寺院(光触寺、明王院など)を歩きつつ鎌倉にゆっくり戻りながらさらに帰路の史跡(浄妙寺、荏柄天神、頼朝墓、鎌倉幕府址、鶴岡八幡など)を巡るコースもありかなと思います。そっちは休憩なしでも所要時間四時間超ぐらいのイメージ。

ということで、十二所神社バス停で下車すると、目の前に小規模で閑静な神社が鎮座しています。

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十二所神社から十二所果樹園

十二所神社

十二所神社

十二所神社本殿

元は近くの光触寺境内にあったとされ、創建は弘安元年(一二七八)と伝わり、天保九年(一八三八)、現在地に移転して現在に至ります。祭神はその名の通り「天神七代」「地神五代」の十二代の神々からなる。同地の地名「十二所」の由来もこの十二所神社からとする説が有力ですが、一方でかつて十二軒の民家があったことに由来するとする説もあるとのこと。

朝夷奈切通方向へ

十二所神社バス停前看板

十二所神社から信号を渡り滑川沿いに朝夷奈切通、十二所果樹園方面へと看板に従って歩いて行きます。

朝夷奈切通方向へ

しばらく道なりに歩くとむき出しの切通しへと変わっていきます。そのまま十分ほど歩きます。

朝夷奈切通と十二所果樹園分岐

せせらぎの水音や木々の揺れる音に耳をすましながら歩いていくと朝夷奈切通と十二所果樹園への分岐までたどり着きます。

梶原景時太刀洗水

梶原景時太刀洗水

その分岐路の朝夷奈切通側に天然の小さな滝があります。これが梶原景時太刀洗水と伝わる滝です。

梶原景時は源頼朝に仕え、特に侍所所司(軍務の次官にあたる)として主に頼朝の権力確立のための汚れ仕事を中心に担当した。寿永二年(一一八三)一二月、景時はこの地の近くに館があった頼朝の御家人上総広常の館を訪れ、しばらく歓談しながら双六を打っていたが、突然、盤を飛び越えて上総広常の首を刎ねた。上総広常には謀反の疑いがあったとされており、頼朝の意を汲んだ景時が粛清を行ったものだ。その景時が広常の首を刎ねた血の付いた太刀を洗い清めたのがこの場所だという。

鎌倉幕府のオーベルシュタインこと梶原景時ゆかりの地で歴史に思いを馳せつつ、十二所果樹園へと向かいます。

十二所果樹園

十二所果樹園へ

100メートルほど山道を歩くと残り200メートルの看板が。あれ?確か十二所バス停付近の看板では朝夷奈切通と十二所果樹園との差は200メートルだったような・・・と思いつつ先を進むと数十メートルほどで十二所果樹園の入り口に着いたりします(笑)まぁよくあることです。

十二所果樹園入口

十二所果樹園は鎌倉市東部、三浦丘陵の一角に位置する果樹園です。昭和五九年と六三年に自然保護のために鎌倉府内保存会が一・九ヘクタールを貸借、平成一八年に全地を買上げボランティアによって運営管理されており、梅四〇〇本、栗二〇〇本、柚子約四〇本の他、桜の季節にはヤマザクラが見頃を迎えるなど、様々な植物が植えられています。

意外と穴場なのか、平日の朝九時過ぎに行ったら来園者は僕だけでした。鎌倉中心部の梅の名所はここより圧倒的に少ない梅の本数に対して平日でも人人人で溢れているのに。大量の梅独り占めで幸せ。

ということで、ほぼ白梅が広大な敷地に広がっています。ほぼ八分咲きぐらいでしたので、今週末から来週(2013年3月9日~15日ぐらい?)にかけてぐらいまでが見頃といえるでしょうか。

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

あ、このベンチでご飯食べたりすると良さそうです。ということでこのベンチから見上げてみた。

十二所果樹園の梅

最高。

十二所果樹園の梅

十二所果樹園の梅

ということでゆっくりと梅を堪能して十二所果樹園を後にし、分岐路まで戻り朝夷奈切通へと進みます。

朝夷奈切通

朝夷奈切通の歴史

朝夷奈切通

朝夷奈切通は鎌倉と六浦とをつなぐ街道で、早くから房総半島へと至る街道として利用されていたが、大規模に主要幹線道として整備されたのは仁治元年(一二四〇)、執権北条泰時によって大規模な開削・拡幅工事が始められ仁治三年(一二四二)、着工した。和田義盛の三男朝夷奈義秀によって開かれたとされることからその名をとって朝夷奈切通と呼ばれている。鎌倉へ通じる切通は七つありそれらを総称して鎌倉七口と呼ぶが、その中でも道の峻険さでは群を抜いている。

ここが歴史の大転換の舞台となるのは、鎌倉幕府滅亡時だ。新田義貞軍は分倍河原の戦いで鎌倉幕府軍を撃破すると、諸勢力を糾合し大軍をもって鎌倉攻略に乗り出した。これに対し朝夷奈切通の守将金沢貞将は新田軍に奇襲を加えるべくこの切通を通って攻撃を加えようとするが、逆に新田軍の一隊千葉・小山軍が金沢軍を待ち伏せて横撃を加え、金沢軍は撤退する。金沢貞将は以後、化粧坂切通、巨福呂坂切通などを転戦、赤橋守時・大仏貞直とともに数十倍の新田軍を相手に鉄壁の防衛線を敷いて新田軍の猛攻を防ぎ続け、新田軍の陸路での侵攻を断念させることとなった。

また、南北朝期の暦応元年(一三三八)には奥州軍を率いた北畠顕家が朝夷奈切通しから鎌倉へ侵攻、文和元年(一三五二)には新田義貞の子義宗が南朝方として挙兵し鎌倉へ侵攻、足利尊氏はこの朝夷奈切通しから鎌倉を脱出して武蔵国へ逃れ再起を図り、軍を整えて再侵攻し南朝方を撃破した。

江戸時代には六浦港で取れた塩の輸送路として、塩の道と呼ばれて主要道として栄えた。昭和三一年、県道が整備される際に、この切通の北側に新たに道が整備されたことで、この切通は工事の手が入ることなく古いまま残ることとなり、現存する鎌倉七口の中でもかつての雰囲気を良く残している切通となっている。

ということで、鎌倉七口の一つ朝夷奈(朝比奈)切通です。

朝夷奈切通

朝夷奈切通

朝夷奈切通

化粧坂切通や名越切通以上に歩き甲斐がある、往時を彷彿とさせる雰囲気のある切通で、非常にときめかされます。

朝夷奈切通の石仏、供養塔、磨崖仏

朝夷奈切通の石仏

朝夷奈切通の供養塔

朝夷奈切通の磨崖仏

朝夷奈の熊野神社

朝夷奈切通から熊野神社へ

朝夷奈切通も最後のあたり、熊野神社があります。

朝夷奈の熊野神社

実はここの由来・歴史はよくわかっていないようです。一応現地の案内では源頼朝によって創建され、元禄年間に再建されたということですが、このあたりは定かではありません。一応いくつか文献(鎌倉市史など)を探ってみましたが、これ以上のことは特に記載が無さそうです。朝夷奈切通の鬼門に位置している、とする話も。

朝夷奈の熊野神社拝殿

朝夷奈の熊野神社本殿

非常に高い位置にあるので、周囲を一望でき、とても心地よい雰囲気がある神社です。

朝夷奈切通最狭部分

朝夷奈切通最狭部分

再び朝夷奈切通に戻り、切通の朝比奈口まで歩きます。

朝夷奈切通朝比奈口付近の石像たち

朝夷奈切通朝比奈口付近の石像たち

ほぼ二時間ぐらい。朝比奈口から徒歩数分、幹線道路沿いに朝比奈バス停があるので、そこからバスで鎌倉市街または反対に金沢八景駅へと戻れます。

ということで、梅の季節にオススメな鎌倉の梅の名所とその周辺の紹介でした。


大きな地図で見る
鎌倉駅からバスで20分

参考書籍・サイト
奥富 敬之 著「鎌倉史跡事典
神谷 道倫 著「深く歩く鎌倉史跡散策〈上〉
十二所果樹園

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