「アッシジのフランチェスコ ひとりの人間の生涯」キアーラ・フルゴーニ 著

アッシジのフランチェスコ
キアーラ・フルゴーニ
白水社
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ローマ教皇ベネディクトゥス16世が退位し、コンクラーベを経て新教皇フランシスコが選出された。その名の由来はフランシスコ会の創設者アッシジの聖フランチェスコで、意外なことに教皇の名に採用されたのは初めてだという。アッシジの聖フランシスコへの注目が集まっているだろうと思うので、その伝記本を紹介したい。

序文を寄せているのはアナール学派の泰斗ジャック・ル・ゴフで、ル・ゴフ自身も「アッシジの聖フランチェスコ」というフランチェスコの生涯を通して十三世紀文化史、社会史を俯瞰しようとする論文集を書いているが、両方でこの本を高く評価している。ル・ゴフの序文にある『人間であるのを止めることなく聖人となったフランチェスコ』(P5-6)という一節に、本書がどのような本であるかが端的に表現されていると思う。

聖人・偉人の生涯はどうしてもその人物の輝かしい面、立派な面が描かれがちだが、むしろ僕はその人物がどのような執着や鬱屈や感情の昂りや負い目を抱えていたか、いわば人間的な側面に興味がある。そして、この本ではまさに聖人フランチェスコの人間としての顔を、史料を積み重ねていくことで浮かび上がらせており、とても面白い。

少しアッシジのフランチェスコの若い頃の話をまとめてみよう。

アッシジのフランチェスコは一一八一年から一一八二年の間に、裕福な織物商ピエトロ・ディ・ベルナルドーネとフランス人女性(ピーカともジョヴァンナとも)の間に生まれた。丁度ピエトロがフランスに行商に行っている間に誕生し、母はジョヴァンニと名付けたが、フランスから帰ってきた父ピエトロは「フランチェスコ(フランス人)」と呼んだという。妻の故郷を名前に留めようとしたのだとも、丁度フランスでの取引が上手くいったからだとも、あるいは今後息子が自分の事業を継ぐことを想定して目立った名前にしたかったからだともいわれるが定かではない。

青年期のフランチェスコは父の仕事を手伝いながら、陽気で気前が良く、宴会や遊びごとに金を惜しまなかったから、周りに同年代の若者が多く集まっていた。また高級な生地を使った衣服を身に纏い、さらに独創的な格好を好んでいたというから、放蕩者、一種の「かぶき者」のような人物であったらしい。金遣いが荒いので父はよく叱り、隣人たちも眉を顰めてあれこれと言っていたが、母はその都度溺愛する息子をかばっていたという。

フランチェスコは貴族風の振る舞いをすることで、貴族の徳を身に着け、騎士になろうという野心を持っていたし、身のこなしや言動も華麗であったので人望が集まり、将来を嘱望されてもいたという。これは身分に対するコンプレックスの現われともいえる。商人である彼はどれほど貴族的な振る舞いをしようとも、決して貴族になることはできない。

十一世紀から十三世紀にかけてのイタリアは人口が飛躍的に増大し、農業技術の発達や商業の活発化によって都市が著しく成長を果たし、次々と自治都市(コムーネ)が成立していた。アッシジもそのような都市のひとつで、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立、旧貴族階級と台頭する平民の対立が絡み合いつつ危うい均衡の上に成り立っていた。

その均衡が崩れるのが一一九八年頃のことである。一一九七年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が急死、翌一一九八年、ローマ教皇インノケンティウス3世が即位すると中部イタリアにおける皇帝権力が一気に瓦解し始める。一一九八年、アッシジの「平民(新興商人層と下層市民)」が「良き人々(旧封建貴族出身の騎士層)」に対し反乱を起こし、貴族層の多くは隣のペルージアに退避、以後アッシジとペルージアの間で戦闘が続くことになる。

若きフランチェスコもおそらく平民側に立って反乱に参加、しかし一二〇三年、サン・ジョヴァンニ橋の戦いで彼は捕虜となってしまい、ペルージアの牢獄に一年以上閉じ込められることになった。『彼は、戦さで手柄を立てるか、さもなければ貴族の娘と結婚してでも、自分の生活と社会階層を変えたいと切望していた。』(P29)

ペルージアの牢獄では彼の身なりが豪勢であったことから、アッシジ側の貴族・騎士層と同じ牢獄だったが、身分ばかり高いのに、無価値な人々の様子に憤っていたという。ある捕虜と口論になり「ぼくが将来何になると思っているんですか?ぼくは世界中で讃えられるようになるんです!」(P33)と答えたという。

一年余りの虜囚生活は彼の健康を損ない、また非常に内省的にさせた。解放されてからしばらくは消耗による病気の療養にあて、体力が回復してからは少しずつ父の仕事を手伝ったりもしたが、かつての騎士や君候になろうという野心は消え、稼いだ金を貧しい人々への施しにあてるようになっていた。父ピエトロは織物商としてだけでなく金貸しなども営んでいたと著者は推測しているが、これは定かではない。ただ、商業を通じて、金の流れがむしろ多くの人びとを不幸にしていることを実感していた。

当時の社会は医療も満足ではなく、ちょっとしたケガや病気が即生死を左右する不安な時代でもある。戦乱や事故で身体が不自由な人々や乞食、狂人が世の中に溢れ、さらにハンセン病(らい病)患者は、かつて何らかの罪を犯したことで神の罰を受けたと観念されたことで差別され、隔離されていた。若きフランチェスコも彼らのことは見て見ぬふりをして過ごしていた。

内省的姿勢がやがて信仰に結び付くのは不思議なことではない。彼はローマ巡礼に赴き、サン・ピエトロ大聖堂に感銘を受け、有り金を鷲掴みにして周りにばらまいたという。また、衣服を乞食と交換して他の乞食たちに施しを求めたりした。そんな苦悩の日々の果てに、彼はアッシジで一人のハンセン病患者を見かけると、意を決して彼に近づき、金を与え、その手に接吻し、抱擁した。その後、彼はハンセン病施療院を訪れるようになり、そこに通いつめて救済活動を始めるようになる。身に着けていたもの一切を売り払い、サン・ダミアーノ教会の司祭にその金を渡して一緒に暮らすことを申し出る。

一向に帰らない息子が何をしているのか知ったピエトロは驚いた。後を継いで商人に、もしかすると騎士にすら立身出世するかもしれないと期待していた自慢の息子が、貧しい身なりで病人の世話をしている。ピエトロはフランチェスコを力づくで家に連れ帰ると監禁し、彼をまっとうな道に戻すよう様々な人々に相談しはじめた。しかしフランチェスコは、一説には母の助力で、父の下から脱出を果たし教会へと庇護を求めた。

怒り心頭の父ピエトロは、父としての怒りを商人としての論理に変えて市に訴える。息子フランチェスコにこれまで費やし、不当に奪われた財産の返還を申し出たのであった。これに対しフランチェスコは、自分はすでに『自治都市の裁治権ではなく、司教の裁治権に服している』(P55)と申し出、司教の同伴で父と息子の対決が行われることになった。聴衆が見守る中フランチェスコは衣服を脱いで裸になり、服の上に金を乗せ、こう宣言したという。

「皆さん、聴いてください。そしてどうか私のことをわかってください。今まで私はピエトロ・ディ・ベルナルドーネをわが父と呼んできました。けれども、私はただ神のみに仕えると決意したので、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネに、彼の心を悩ました金と、彼が私に与えてくれた衣服を返します。今から先は、いつも『天にましますわれらの父』としか言いません、『わが父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ』とは決して言いません。」(P55-56)

怒りに我を忘れた父ピエトロが彼の衣服と金を掴んで退場し、司教が彼にマントを被せ、修道士フランチェスコが誕生する。一二〇六年、二四~二五歳ごろのことだという。

修道士となってからのフランチェスコの事跡については本書をお読みいただくとして簡単な要点だけ書いておく。

その後一二二六年に亡くなるまで、彼は徹底した清貧生活を送り、貧者や病者の救済に生涯を捧げた。その活動に多くの人々が彼の下に集まり、フランシスコ会が誕生する。その戒律はキリストの歩んだ徹底した清貧と金の否定である。他の修道会が衣服を揃えるのに対し、フランシスコ会はありあわせのみすぼらしい格好で、金銭に対しては極端な嫌悪を示した。知識や教養の否定もその特徴として挙げられる。当時書物は高価であったから、知識欲は傲慢と支配の元になるとして否定された。

福音に従い、平和主義で、迫害を受けても反抗せず、清貧を貫き、弱者救済に身を捧げるその活動は瞬く間に信奉者を広げ、ときの教皇インノケンティウス3世やホノリウス3世、後のグレゴリウス9世であるウゴリーノ枢機卿など教皇庁中枢にも後ろ盾を作り、やがてドミニコ会とともに中世教皇権を支える巨大勢力へと成長していくのだった。フランチェスコは死後すぐに新教皇グレゴリウス9世によって聖人に列聖されるが、不安定な教皇権の支持基盤としたい新教皇の政治的意図が背景にあった。

アッシジの聖フランチェスコの、特に若い頃の姿を読みながら、どうにも父ピエトロの視点を想像せずにいられない。衣服を受け取った後もう一度二人は再会するが、それも哀しい訣別だった。

「息子があまりにも惨めな姿でいるのを見て、ますます深い悲しみの中に閉じこもっていった。彼はわが子を心の底から愛していた。けれども、不真面目であるのと、やつれ果てて真っ青な息子を見るのが辛いのとで(極端な欠乏生活と寒さのせいで、フランチェスコは歩く屍のような有りさまだった)、父は息子と会うたびに、呪詛と悪罵を浴びせかけた」(P61)

その親子が最後に逢った日、フランチェスコはピエトロの前で乞食から祝福を与えられ、息子は父にこう言ったという。

「神は、私をののしり続けるあなたの代わりに、私を祝福する父を与えてくれることができるのです!」(P61)

以降、ピエトロは歴史の表舞台から消える。いつ亡くなったのか、どのような後半生を送ったのかわからない。

息子の活躍をどのような思いで見ていただろうか。弱者救済に尽力し、対峙する十字軍とイスラーム軍との仲裁を買って出て、アイユーブ朝のスルタンの前で説教をし、巨大なフランシスコ会を創設してキリスト者の生活の範となり、教皇すら敬意をもって接するほどの名声を得て、死後聖人に列せられた息子。その息子の説く清貧な生活と金銭の否定という教えはまるで、ピエトロの人生全てを否定しているように見える。

ふと「アマデウス」という映画を思い出す。映画のラスト、全てを告解した老いたサリエリは、最後にこう宣言するのだった。

『凡人よ、罪を赦そう』

偉大にして聖なる息子の、か弱き凡人たる父にも目を向けさせられたという点で、『人間であるのを止めることなく聖人となったフランチェスコ』の物語として一級の伝記であると思う。ピエトロ・ディ・ベルナルドーネに祝福を。

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