かつての鎌倉幕府の中心「大蔵御所址の桜並木」

鎌倉幕府の政務の中心「幕府」があった「大蔵御所」址の桜並木です。

大蔵御所址の桜並木

大蔵御所址の桜並木

大蔵御所址から頼朝墓所方向への遊歩道です。このまま真っ直ぐ行くと左手に白旗神社(旧法華堂)、正面に頼朝墓所、その裏手には伝大江広元墓などがあります

大蔵御所址の桜並木

大蔵(大倉)御所は源頼朝の鎌倉入部後、鎌倉将軍の政務の中心となった邸宅である。治承四年(一一八〇)十二月十二日亥ノ刻(午後十時)に頼朝が入ってから、承久元年(一二一九)正月二十七日に三代将軍実朝が暗殺されて無主となるまで、ここが政務の中心、すなわち「幕府」であった。実朝死後政子が入ったが承久元年十二月二十四日に全焼し、以後再建されることはなかった。

大蔵御所址の桜並木

現在は大部分が住宅街、一部が清泉小学校の敷地となり、見ごろの時期になると、桜並木がとても綺麗に咲き誇り、鎌倉の桜の名所の一つになっている。

せっかくなので、大蔵御所について奥富 敬之 著「鎌倉史跡事典より簡単にまとめておこう。丁度鎌倉幕府の成立年を巡るニュースもあったことだし。

治承四年(一一八〇)十月六日、鎌倉へ入部した頼朝は当初父義朝の邸宅跡に入ろうとしたが、地形が狭かったこともあって断念。大庭景嘉を新邸造営の奉行に任じ、その間頼朝は知家事兼道の邸宅を移築し、十月十五日に移築作業が完了。御所完成までそこで政務を執った。その後、御所がいつ完成したかは定かではないが、十一月十七日の時点では完成していなかったとされる。

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1)第一期大蔵御所(治承四年(一一八〇)十二月十二日~建久二年(一一九一)三月四日)

治承四年(一一八〇)十二月十二日亥ノ刻(午後十時)、頼朝は上総広常邸から行列を従えて新邸へ入り、侍所に三〇一人の御家人が列座して侍所別当和田義盛の着到を受ける。その後宴が催され、大蔵御所が誕生した。鎌倉幕府の成立時期についての諸説のうち、有力な説の一つに大蔵御所へ頼朝が入御し侍所が設置されたこの夜とするものがある。大蔵の名は当地が鎌倉郡大蔵郷にあったことに由来する。吾妻鏡には「大倉」とあることから大倉御所とも表記される。

養和元年(一一八一)六月十三日、未完成部分の北側が完成、南北約二一〇メートル、東西約二七〇メートル、総面積約五万六七〇〇平方メートルの寝殿造の建物であった。南側が公務スペース、北側が頼朝の私的スペースであった。

元暦元年(一一八四)十月二十日、東側に訴訟事務機関である問注所が設置され、本格的に「幕府」として機能していくが、建久二年(一一九一)三月四日、火災により全焼、頼朝は甘縄の安達盛長館に移り、政務を執った。同三月四日から七月二十八日まで「安達館」が「幕府」として機能した。

第二期大蔵御所(建久二年(一一九一)七月二十八日~建保元年(一二一三)五月三日)

焼失した大蔵御所の再建は直ちに開始され、消失からわずか四か月後の七月二十八日亥ノ刻(午後十時)、安達館から頼朝が再建された新御所に帰還した。

建久三年(一一九二)七月二十六日、幕府宿老三浦義澄が鶴岡八幡宮で預かった征夷大将軍に任じる除書を大蔵御所「西ノ廊」で受け取り、ここに征夷大将軍源頼朝が誕生する。

正治元年(一一九九)正月十三日、御所にて源頼朝が死去。西隣の小御所にいた嫡男頼家が二代将軍としてすぐに御所に入ったが、頼家は御家人との交渉を嫌い、概ね私的空間である北側にいたという。

建仁三年(一二〇三)九月三日、比企の乱の後頼家は廃され、同十月八日戌ノ刻(午後八時)、北条時政邸にいた源実朝が元服して翌々日までに御所に入り、三代将軍となった。

建保元年(一二一三)五月三日、和田義盛の挙兵による和田合戦の際に和田側の朝夷奈義秀が御所に突入、その後戦乱の中で全焼した。以後、五月五日より実朝は大江広元館で政務を執った。同日より八月二十四日まで「大江館」が「幕府」となった。

第三期大蔵御所(建保元年(一二一三)八月二十四日~承久元年(一二一九)十二月二十四日)

建保元年(一二一三)八月二十四日酉ノ刻(午後六時)、大江館を出た実朝が再建された御所に帰還、しかし、その七年後承久元年正月二十七日、将軍実朝は鶴岡八幡宮で公暁によって暗殺されてしまう。

これに代わり同三月九日、東御所に住んでいた北条政子が大蔵御所に移った。政子はこの日、実朝の弔問に訪れた後鳥羽上皇の使者を大蔵御所で迎えたという。以後政子は大蔵御所で政務を執る。尼将軍である。

同七月十九日、わずか二歳の四代将軍九条頼経が鎌倉に到着。しかし大蔵御所に入ることは許されず、北条義時館の邸内に新造された「大倉亭」に入ることとなった。

承久元年十月二十四日子ノ刻(午前零時)、火災により大蔵御所全焼。焼け出された政子は「東御所」には戻らず「大倉亭」に入り、将軍頼経とともに住むことになった。以後大蔵御所は二度と再建されることはなかった。

これより将軍頼経、尼将軍政子、執権北条義時が集う「大倉亭」が仮御所となって「幕府」として機能する(同地を第四期大蔵御所とする説もある)が、手狭であったことから、貞応二年(一二二三)拡張工事が行われ、義時、政子死後の嘉禄元年(一二二五)十二月二十日、新設の「宇都宮辻子御所」に将軍頼経、執権北条泰時らが移り、その十三年後の嘉禎二年(一二三六)、「若宮大路御所」の完成によって以後同地が鎌倉幕府滅亡まで「幕府」となった。

ということで、今は住宅地の一角でしかない「大蔵御所址」ですが、歴史ファンなら一度は訪れておきたいスポットでしょう。周囲には鎌倉幕府ゆかりの地が多く並びますし、特に桜が見ごろな時期に訪れると二度美味しいです。


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