鎌倉の地名の由来まとめ

「鎌倉」という地名の初出は和銅五年(七一二)成立「古事記」中巻景行天皇条にある「鎌倉の別」(相模国鎌倉郡鎌倉郷を支配した一族のこと)。承平年間(九三一~九三八)成立の「和名類聚抄」には「加末(万)久良」とあり、天平七年(七三五)の「相模国封戸祖交易帳」(年貢の計算帳)には「鎌倉郡鎌倉郷」との記載があるとされる。

地名の由来は諸説あるが、『カマ(鎌)は「えぐったような崖地・崩壊的浸食谷」で、クラ(倉・蔵)は「谷を意味する古語」』(三浦勝男P44)であるとして、『地名・考古学的にいう「浸食地形・崩壊地形」を示す地形用語と解される』(三浦勝男P44)。また、通俗的な説としては藤原鎌足が鹿島神宮に参詣の途上、鎌倉で持っていた鎌を埋めたことから鎌倉となったとするものもある。

「鎌倉郡」の範囲は定かではないが、現在の鎌倉市、横浜市栄区・戸塚区・金沢区、藤沢市・逗子市の一部と推定されており、前述の天平七年(七三五)の交易帳が初出。「鎌倉七郷」という七つの郷(村)があったという。鎌倉七郷は沼浜・鎌倉・埼立(はしたて)・荏草(えがや)・梶原・尺度(さかど)・大島だが、それぞれの位置はよくわかっていない。沼浜(現逗子市市域)、埼立(長谷・坂ノ下・寺分・町屋・大船・小袋谷地域)、荏草(鎌倉南東部一帯)、梶原(梶原辺り)、尺度(大船~横浜南部)、大島(横浜市戸塚区付近)と推定されているが、推測の域は出ないとされている。

また、応永年間(一三九四~一四二七)の複数の史料には「相州鎌倉県」の記載があり、当時、現在の山ノ内、大船を中心とした地域が鎌倉県(かまくらのあがた)と呼ばれていたと考えられている。

鎌倉時代の「鎌倉」の範囲については以下の記事を参照のこと。

鎌倉はどこまでが鎌倉か?

現在の鎌倉市は鎌倉地域(稲村ガ崎・扇ガ谷・大町・御成町・極楽寺・小町・材木座・坂ノ下・笹目町・佐助・十二所・浄明寺・二階堂・西御門・長谷・由比ガ浜・雪ノ下)、腰越地域(腰越・七里ヶ浜・七里ガ浜東・津・津西・西鎌倉)、深沢地域(梶原・鎌倉山・上町屋・手広・寺分・常盤・笛田・山崎)、大船地域(今泉・今泉台・岩瀬・大船・小袋谷・台(1丁目を除く)・高野・山ノ内)、玉縄地域(植木・岡本・城廻・台1丁目・玉縄・関谷)に分類されており、歴史上の鎌倉より現在の鎌倉地域の方が狭くなっている。

鎌倉地域に属する以下の十七の町名の由来についても簡単にまとめておく。

稲村ガ崎――由比ガ浜と七里ガ浜とを分ける岬。極楽寺切通へ通じる稲村ガ崎の付け根付近にあった村が稲村という名で、それに由来するとされる。古くは岬の東側が霊山ガ崎、西側を稲村ガ崎と呼んだ。治承四年(一一八〇)、頼朝が鎌倉入部の際に通り、また元弘三年(一三三三)、新田義貞が鎌倉を攻める際に稲村ガ崎を攻めあぐねたが、潮が引いたタイミングで岬を越えて由比ガ浜から鎌倉侵攻に成功、鎌倉時代の初めと終わりを象徴する地名の一つである。
扇ガ谷―――もともとは亀谷と呼ばれていたが、鎌倉後期から扇ガ谷と呼ばれるようになった。地名の由来は山と谷が入り組んだ扇状の地形からと考えられている。室町時代、管領上杉定正が住み扇谷殿と呼ばれて以降、亀谷に変わって広く浸透していった。
大町――――鎌倉を横断する古東海道のうち、鎌倉市中を通過する若宮大路以西の部分が大町大路と呼ばれ、小町大路と大町大路が交差する夷堂橋を境として以北を小町、以南を大町と呼んだ。大町小町両地区あわせて鎌倉時代の商業の中心であったとされる。
御成町―――現在の鎌倉駅西側一帯で、現鎌倉市役所周辺に皇室御用邸があったことから御成と呼ばれるようになった。それ以前は大町に含まれていた。御用邸は関東大震災で倒壊、その後再建されず。
極楽寺―――極楽寺は正元元年(一二五九)または正嘉二年(一二五八)以前のいずれかの時期に創建された寺院で律宗の高僧忍性が慈善活動の拠点とした。当時から地獄谷と呼ばれていたが昭和四十四年に極楽寺の町名が採用された。
小町――――上記の大町を参照。
材木座―――滑川河口の左岸一帯を指す。鎌倉時代以前は和賀と呼ばれていたが、鎌倉時代以降材木商の座があったことから名付けられたとされる。極楽寺の管理下にあったが、南北朝時代には佐々木道誉の所有となっていたとされる。
坂ノ下―――戦国期になって見られる地名で、極楽寺切通の坂下にあることによる。
笹目町―――笹々目、笹々目ヶ谷とも表記される。「ささ」「め」とも狭い所の意で、鎌倉七谷の一つに挙げられる。
佐助――――佐介氏を名乗った北条時盛の館があったことから佐介が転じて佐助になった説が有力だが地名学ではサカの下略で谷間・峡谷の意とも。また佐介谷禅房という寺院があったという記録もあり、応永二十三年(一四一六)の上杉禅秀の乱では佐介谷で戦いが行われたとの記録もある。
十二所―――鎌倉時代は大倉に含まれていたが、光触寺境内の十二所神社(弘安元年(一二七八)創建)から十二所の地名が使われるようになったとされる。また別の説ではかつて十二軒の民家があったことに由来するとする説もある。文献上の初出は文和四年(一三五五)。
浄明寺―――十二所同様鎌倉時代は大倉に含まれる。文治四年(一一八八)創建と伝わる禅宗寺院「浄妙寺」に由来し、浄妙寺をそのまま地名に使うのが憚られることから浄明寺となったとされる。江戸時代の史料には浄明寺村の存在が確認されている。
二階堂―――頼朝が奥州合戦からの凱旋後、中尊寺大長寿院の二階大堂を模して永福寺を建立したことに由来。同寺は十五世紀ごろまで存続したがその後廃絶。また鎌倉幕府の行政官僚一族二階堂氏の拠点があった。
西御門―――西帝谷とも。大倉御所の西門に由来し、天然の要害の地形から三浦氏を始め幕府の高官が館を構えた。江戸時代には西御門村があり、明治二十七年に大字名として、昭和十四年の鎌倉市成立以降町名として残った。
長谷――――創建時期未詳の古刹長谷寺に由来する。地名としての初出は元弘三年(一三三三)。長谷寺や鎌倉大仏、御霊神社など史跡が多く、鎌倉初期には鎌倉の境界に位置していた。極楽寺の忍性によってハンセン病(らい病)患者の療養所が建てられており、病者・貧者救済の中心地域であった。
由比ガ浜――稲村ガ崎から材木座までの相模湾に面した海岸付近。由比は相互扶助組織であった「結」に由来しているとされ、由井・湯井とも書く。中世を通して死者が葬られた葬送の場であり、首実検が行われたり、流鏑馬など武芸の鍛錬の場であったり、また商業地としての役割もあり、鎌倉の境界として重要な場所であった。
雪ノ下―――鶴岡八幡宮、大倉御所址など鎌倉幕府の中心となった一帯。建久二年(一二九一)二月十七日、頼朝が雪見のため鶴岡別当坊(鶴岡八幡宮内鎌倉近代美術館別館付近にあったと推定)を訪れ、その際に積もった雪を長櫃に入れ、氷室(洞穴等を使った天然の冷蔵庫)を作らせて、夏に備え「炎暑を消すべきの由」と命じたことに由来する。以後雪下、雪ノ下と呼ばれて度々歴史の舞台として登場する。

参考書籍・サイト
・三浦 勝男編「鎌倉の地名由来辞典
・奥富 敬之 著「鎌倉史跡事典
・松尾 剛次 著「鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー)
・松尾 剛次 著「葬式仏教の誕生-中世の仏教革命 (平凡社新書600)
・三浦 佑之 著「口語訳 古事記―人代篇 (文春文庫)
・赤坂 憲雄 著「境界の発生 (講談社学術文庫)
鎌倉市 – Wikipedia

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