鎌倉大仏を巡る四つの謎

桜が見頃を迎えていた三月の終わり、鎌倉大仏を観てきました。

鎌倉大仏と桜

正式には大異山高徳院清浄泉寺本尊銅造阿弥陀如来坐像で、奈良東大寺大仏に比して鎌倉大仏と通称される。総高13.35m、重量121t。誰もが知る日本を代表する大仏像だが、その知名度と裏腹に、非常に謎が多い。

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完成時期

第一に、いつ出来たのか、完成時期が不明である。着工時期はわかっている。暦仁元年(一二三八)三月二十三日、浄光という念仏僧が勧進(寄付を広く募ること)によって大仏堂の建造を始めた。建長四年(一二五二)八月十七日、金銅の阿弥陀像の鋳造が開始されている。問題は完成時期である。幕府の一大プロジェクトであったはずの鎌倉大仏の建造が、その完成について公式文書「吾妻鏡」に残っていないのだ。

実は「吾妻鏡」には弘長二年(一二六二)と文永元年(一二六四)に欠巻があり、この欠けている時期のいずれかに完成したのではないかと考えられている。それを裏付けるものとして大仏鋳造に関った技術者丹治久友という人物の記録がある。久友は自身がかかわった文応元年(一二六〇)十一月二十二日付の武蔵国の寺院の梵鐘に「鋳師丹治久友」と銘し、文永元年(一二六四)四月五日付の東大寺真言院の梵鐘では「鋳物師新大仏寺大工丹治久友」と自称する。ゆえに文永元年(一二六四)四月五日以前に大仏が完成したと推定され、弘長二年(一二六二)説と文永元年(一二六四)説、かなり可能性は薄いが康元元年(一二五六)説、さらにはそれ以降の鎌倉時代末期説もある。一二六二説と一二六四説を簡単に紹介しておこう。

一二六二説

この説は極楽寺の律僧忍性ら叡尊教団が鎌倉大仏建造の主体となったという仮定に立つ。忍性は非人救済に尽力した鎌倉新仏教を代表する人物の一人で、建長四年(一二五二)八月十四日に関東に下向して活動を開始するが、同説ではこの忍性の関東下向を大仏勧進の目的と推測した上で、丹治久友ら関西の鋳物師を連れてきたのも忍性であり、律宗の指導者叡尊が弘長二年(一二六二)に関東下向するが、これを大仏開眼会のためと推測する。しかし、忍性の伝記「性公大徳譜」には鎌倉大仏建立を主導したという記録は一切無いため史料的裏付けは弱い。ただし、忍性は弘安七年(一二八四)、高徳院別当(責任者)に就任していることから、大仏と関わりが無かったわけではない。ゆえにこの説には忍性は建造ではなく維持管理の方に関与したのではないかという反論も強い。

一二六四説

一二六二年説に対して一二六四年説では、そもそも忍性ら律宗教団が関東で影響力を持つのは建長五年(一二五三)以降のことで、鎌倉大仏の建造にはかかわっていないとする。それ以前は念仏僧の力が強く、引き続き浄光が鎌倉大仏建設を主導していたと考える。阿弥陀像であるという点も念仏僧主導説を裏付けるものだ。しかし浄光という人物が謎に包まれている。念仏僧であったこと、鎌倉大仏の勧進者であったこと、文永十一年(一二七四)三月以前に死去していたこと、だけしかわからない。建長二年(一二五〇)に高野山金剛三昧院長老となった浄光坊栄信と同一人物とする説もあるが、そうすると今度は鎌倉大仏の建造に関れたかどうかが不明となる。こちらも史料的裏付けが弱く、決め手に欠けている。

木造大仏と金銅大仏

第二に、木造大仏と金銅大仏の謎がある。作者不明(一説には鴨長明とも源親行とも言われる)の紀行文「東関紀行」には仁治三年(一二四二)八月十日の記録として建設中の阿弥陀像を木像としているのだ。『此阿弥陀は八丈の御長なれば、かの大仏よりもすぐめり、金銅木像のかはりこそあれども、末代にとりてはこれも不思議といひつべし』。これに対して、「吾妻鏡」の建長四年(一二五二)八月十七日には『深沢里に、金銅八丈の釈迦如来像を鋳始め奉る』と、金銅像の鋳造開始が記録されている。木像と金銅像の二つの大仏の存在が史料上確認される。

これには二つの推論がある。一つは、木像は金銅像の原型として作られたとするもの。従来主流の説であったが、原型とするだけなら、大仏殿まで建立する意図に疑問が残る。ゆえに、第二の推論として、木像も何らかの意図で作られ、後に金銅造で造り直されたとするものが有力になりつつあるらしいが、やはりこれも謎のままである。

釈迦像と阿弥陀像

第三に、釈迦像と阿弥陀像の謎である。鎌倉大仏が建立された深沢里は鎌倉の西の境界に位置しており、西方極楽浄土の主である阿弥陀像が鎮座する場として適している。また、当初から阿弥陀像として建造が始まったらしい。前述の「東関紀行」の記録にも『此阿弥陀は八丈の御長なれば』と阿弥陀像であることが記録されている。ところが同じく前掲の鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」には『深沢里に、金銅八丈の釈迦如来像を鋳始め奉る』と釈迦像の建造を開始するとされている。

「吾妻鏡」の記載ミスとするのが定説だが、吾妻鏡が編纂されたのは、鎌倉時代末期の十四世紀初頭で、当初阿弥陀像として建てられた鎌倉大仏が何らかの理由でそのころには釈迦如来像に変わり、再びその後阿弥陀像に変えられたのではないかとする説も強い。実は、釈迦と阿弥陀との違いは手の印相だけで、その部分は手元さえ変えれば良いだけなので比較的容易に変えることが出来るとのこと。これも謎の一つである。

ちなみに、与謝野晶子が詠んだ和歌の歌碑があるが、彼女は阿弥陀仏であるはずの大仏を釈迦として詠んでいる。いわく。

かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな

原型の作者

第四に原型の作者が不明である。前述の通り河内の鋳物師丹治久友が関っていたことは明らかだが、彼はあくまで技術者であってデザイナーではない。運慶(?~一二二四)・快慶(?~一二二七頃まで)らに始まる慶派の影響と宋の仏師の影響と両方を併せ持つ特徴を持っているという点が指摘される。

鎌倉大仏

鎌倉大仏

鎌倉大仏の後ろ姿

鎌倉大仏の後ろ姿

鎌倉時代末期の元徳二年(一三三〇)頃には大仏造営のためにわざわざ元帝国にまで貿易船を出したという記録も残っているが、幕府滅亡後の建武二年(一三三五)と応安二年(一三六九)の二度に渡って、大風で殿舎が倒壊、再建後明応四年(一四九五)には鎌倉を地震と津波が襲い、大仏殿は崩壊、以後現在まで再建されることなく大仏殿無しのまま露座の大仏となった。

高徳院清浄泉寺

高徳院清浄泉寺

高徳院入口の石仏

高徳院入口の石仏

今も多くの人々が、それこそ海外からも訪れる日本を代表する観光名所である鎌倉大仏だが、その謎は非常に面白く、奥深い。


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江ノ島電鉄長谷駅下車徒歩七分

参考書籍・サイト
・奥富 敬之 著「鎌倉史跡事典
・松尾 剛次 著「鎌倉 古寺を歩く―宗教都市の風景 (歴史文化ライブラリー)
鎌倉大仏殿高徳院
高徳院 – Wikipedia

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