「動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)」ジョージ・オーウェル 著

人間たちを追いだして動物たちによる平等な農場「動物農場」を築いた動物たちの社会が、次第に恐怖政治へと転換していく様を描いたディストピア小説の古典の一つ。

第二次大戦中の1944年、「ソヴィエト神話を暴露する」ためにソ連指導部を家畜動物に模した寓話として執筆されたが、当時英国の同盟国であったソ連の体制を正面から風刺するという、題材が題材だけになかなか出版が決まらず、刊行されたのは戦後1945年のことだった。そのあたりの経緯は付録「出版の自由」でオーウェル自身が思いっきり不満をぶちまけているので、そちらも面白い。

ユートピアを目指して作られた新体制のはずが、いつしか変質して独裁体制が敷かれ地獄絵図が展開されるというディストピアのお手本のような展開で、平易な文章の中に存分に風刺と皮肉と批判が詰まっていて単純なお話でありながらとても面白い。雄豚独裁者ナポレオン(スターリン)の腰巾着スクィーラー(モロトフかベリヤあたりだろうか)の詭弁のオンパレードな台詞がいちいちツボにはまってもう・・・

当初の理想が歪められた結果として恐怖体制へという描かれ方だが、個人的には理想を突き詰めた結果として、あるいは理想がそもそも内包していた矛盾故にディストピア化していくという方が好みではある。しかし、作品の最後の最後でさらにぐにゃりと世界が歪んでいく救いようの無いオチは非常に素晴らしかった。

オーウェル自身はあくまでソヴィエトのスターリン体制批判として描いたようだが、あのオチの結果として西側体制にもブーメランとして帰ってきている感じもあって乾いた笑いを浮かべずにはいられない。この作品から「1984年」へと続くオーウェルの姿勢は揺るぎないなという印象だった。

あと当時の英国社会に広がる思想表現への抑圧に対する批判をこれでもかと重ねた付録「出版の自由」から少し紹介。

『いついかなるときにも、正統的教義というものがある。それは、正しい思考の持ち主であれば疑いをはさむことなく受け入れるはずだとされている観念の束である。厳密には、あれこれのことを言ってはならない、と禁じられているわけではないが、ヴィクトリア朝中期にご婦人の面前でズボンと口にするのが「差し障り」があったのとちょうどおなじように、それを言うことは「差し障り」があるのだ。世間に広まっているこの正統的教義に挑んだりしようものなら、その人は驚くほど効果的に口を封じられてしまうことを思い知る。』(P184)

『わたしたちの時代に特有な現象のひとつは、変節した自由主義者である。「ブルジョア的自由」は幻想であるという、よくあるマルクス主義的な主張の上に、さらにその上を行って、いまや、民主主義を防御するには全体主義的な手法によるしかない、とする主張が蔓延している。民主主義を愛するならば、いかなる手段を弄してでもその敵を叩きつぶさねばならぬ、という理屈である。そしてその敵とは誰なのだろうか。つねにそれは、民主主義を公然と意識的に攻撃する者だけでなく、まちがった教義を広めることによって「客観的に」民主主義を危機におちいらせる者、ということになるようだ。言いかえると、民主主義を護るためには、思想の自立性というものをすべて破壊してしまってかまわないということになる。この論法はたとえばロシアの粛清を正当化するのにも使われた。』(P193)

『もし自由というものがなにがしかを意味するのであれば、それは人の聞きたがらないことを言う権利を意味する。ふつうの人びとは、ばくぜんとではあるが、いまだにこの原則に同意し、これにしたがって行動している。わが国では――どこの国でもおなじというわけではない。共和政のフランスはちがっていたし、今日の米国もちがうのだが――自由を恐れるのは自由主義者であり、知性に泥を塗りたがるのは知識人なのである。』(P199)

このような時代背景を前提として、その批判的文脈で生み出されたのが一連のディストピア小説ということなのだろう。時代に広がる空気を敏感につかみ、それを批判するためにいかに巧妙に戯画化して描くか、という才能に恵まれていたがゆえに、現代まで読み継がれる普遍的な作品を生み出せたのだろうなと思った。

ゆえに、ディストピア作品が往々にして陳腐化するのは、その構造の表面だけなぞるのではなく、時代そのものを適切に掴むことにこそそのキモがあるからなのだろう。同時代にとってのユートピア/ディストピアとは何か?が考え抜かれた果てに生み出されるかもしれない傑作を、今こそ読みたい。

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