今こそ「異端審問」を振り返る~何故スペインで異端審問は激化したのか?

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史上悪名高い異端審問制度だが、その制度が確立して苛烈を極めたのは一五世紀末から一七世紀初頭にかけてのスペインにおいてであった。何故スペインで異端審問が制度として整ったのか?その背景には中世スペイン特有の少数派排除の文化があった。

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第一章 中世スペインにおける排除の思想の形成

後にスペイン帝国の中核となるカスティーリャ王国は一三世紀初頭に即位したフェルナンド3世によってレオン王国と統一され、諸国乱立のイベリア半島のイスラーム勢力を次々と撃破してレコンキスタ運動を大きく進展させた。続く賢王アルフォンソ10世(在位一二五七~一二七五)から彼の曾孫アルフォンソ11世(在位一三一二~一三五〇)までの四代に渡って改革と体制整備が進められ、軍事的成功と経済の発展、都市の発達を背景として、多宗教共存の寛容な社会が作り上げられていった。ユダヤ教徒もムスリムも自治権と信仰の自由が保障され、確かにキリスト教徒の間に彼らに対する差別的な感情は少なからずあったものの概ね共存した寛容な社会が維持されていた。

一四世紀初頭のカスティーリャ王国では天候不順と凶作による人口減少、食料品の不足による社会不安と領主経営の圧迫によって旧貴族層の没落が顕在化し、封建制の危機を迎えていた。一方で経済発展は新興富裕層の台頭をもたらし、特に地位向上が目覚ましかったのが商業の発展によって財をなしたユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した「コンベルソ」と呼ばれる人々であった。歴代国王は優秀な彼らコンベルソを要職に積極的に登用したから、堆積する社会不安はやがて成り上がりのコンベルソたちに対する憎悪へと転化していく。

引き金を引くことになったのが「黒死病(ペスト)」の大流行である。一三四八年、欧州全土で猛威を振るった史上最大規模の黒死病は瞬く間にイベリア半島にも拡大して多数の死者を出す。一四世紀に三度に渡って大流行した黒死病は欧州人口の三分の一から三分の二にあたる三〇〇〇万人近くを死に至らしめ、全世界で約八五〇〇万人がその犠牲になった。

黒死病の蔓延によって目の前に広がる地獄絵図は、その原因をユダヤ教徒へと結び付ける妄想を生む。欧州全土で共通の現象として、疫病による人口の現象、農村の荒廃、小作農の流民化、貧民の急増と都市流入が起き秩序が大きく揺らぐ。その中でハンセン病患者、ユダヤ教徒、イスラーム勢力などマージナルな存在はキリスト教諸国を包囲する敵として観念されるようになり、「反ユダヤ主義」が醸成されていく。

カスティーリャ王国でその「反ユダヤ主義」が加速した要因は内乱であった。一三五〇年、最後の名君アルフォンソ11世が黒死病でこの世を去りその子ペドロ1世が即位するが、一三六六年、異母兄弟のエンリケ・デ・トラスタマラが王位継承に異を唱え反旗を翻す。双方勢力が拮抗し、戦略としてエンリケ側はペドロ1世がキリスト教徒を犠牲にしてユダヤ教徒を富ませているという反ユダヤ言説を巧みに流布して、ペドロ1世側への敵意を煽り、これが苦境に立つ人々の不満と合致してユダヤ教徒排除の空気が醸成された。

一三六九年、エンリケはモンティエルの戦いでペドロ1世を敗死させ、カスティーリャ王エンリケ2世として即位、トラスタマラ朝が始まる。政権を得ても不安定なエンリケ2世は既得権益層と戦う解放者のイメージで語られるようなプロパガンダを打ち、反ユダヤ民衆運動は高進する一方であった。キリスト教徒を迫害した”残忍王”ペドロ1世からカスティーリャの民を救った英雄エンリケ2世というイメージは現在まで残る。

一三九一年、ついに民衆のユダヤ教徒への憎悪が爆発する。イスラーム勢力ナスル朝グラナダにほど近いセビーリャで教会の助祭であったフェラン・マルティネスはユダヤ教の会堂の打ち壊しやその排除を訴え民衆を煽る。同六月、ついにマルティネスのヘイトスピーチに駆り立てられた民衆がユダヤ人居住区に侵入、数千の男性が殺され、女子供は捕えられて奴隷として売られていく。この狂気は瞬く間にコルドバ、トレド、バレンシア、バルセロナへと伝播し「ポグロム」の嵐が全土を覆っていった。

これによってユダヤ人共同体は壊滅的な打撃を受け、多数のユダヤ教徒がキリスト教徒への改宗を余儀なくされた。苛烈を極めた反ユダヤ運動は一四二〇年代に沈静化するが、キリスト教徒からの不信は変わらず一触即発の状態は続く。その不信の目はユダヤ教徒だけでなく改宗したコンベルソ達に向けられる。彼らは真にキリスト教徒に改宗したのだろうか?また、早い時期からコンベルソとなった富裕層はその才覚と財力でキリスト教社会の上層に食い込んでいたが、その上層コンベルソとポグロム後に改宗を余儀なくされた新参のコンベルソと間にも対立関係が生じ、キリスト教徒とユダヤ人、キリスト教徒とコンベルソ、コンベルソ間の対立の複合的な対立関係がより複雑な関係を生む。

一四四九年、国王フアン2世の寵臣アルバロ・デ・ルナが富裕コンベルソの献策に基づいてトレドの富裕層へ課税を行ったことに対し、キリスト教徒民衆の怒りが爆発、有力コンベルソ居住地を襲撃して破壊と略奪を繰り返す。その反ユダヤ運動の過程で登場するのが「判決法規」と呼ばれる法令である。トレドにおけるコンベルソの官職保有の禁止、公職からの追放などが定められたこの法規がユダヤ人問題の前提としているのは、「宗教」ではなく「血統」であった。

『すなわち『法規』では、コンベルソ改宗の真実性が疑われ、また彼らの社会進出が、旧キリスト教徒の社会を転覆させる陰謀の一環と認識されていた。さらには、コンベルソ=ユダヤ人=反社会的存在という単純化された図式のもと、トレドの管轄域内のすべての公職から、コンベルソを排除することが規定されていた。ひとつの法として胚胎したこの考え方こそ、一六世紀スペイン帝国を通底する「血の純潔」という観念である。』(網野P116)

反ユダヤ運動がむしろ王権を揺るがすに至って、時の国王エンリケ4世の権威は失墜、王太子アルフォンソが急逝する中で王女イサベル、王女フアナ二人の女王位を巡る貴族を巻き込んでの権力闘争が勃発。一四六九年、王女イサベルはアラゴン連合王国国王フェルナンド1世との婚姻を進め、その後ろ盾で対立する王女フアナより優位に立つ。一四七四年、エンリケ4世が崩御すると、イサベルはカスティーリャ王に即位、これに対し王女フアナはポルトガル王アルフォンソ5世と結婚して同じくカスティーリャ王を宣言、イサベル派とポルトガルの国際戦争が引き起こされるが、一四七六年、イサベル=フェルナンド連合軍がポルトガル軍を撃破(トロの戦い)して、カスティーリャ=アラゴン統一国家スペイン王国が誕生する。

未だ不安定な新国家スペインの体制を整備するため強権的王政を目指す女王イサベルとフェルナンド1世の「カトリック両王」は、対コンベルソ強硬派であったドミニコ会士アロンソ・デ・オヘーダらの進言に基づきコンベルソの実態調査を開始。ユダヤ教的生活を送りながらキリスト教徒として官職を得るコンベルソの存在を知り、この改善を進めさせるが成果は出ず、ついに一四八〇年九月、セビーリャに異端審問裁判所の設置を命じた。悪名高いスペイン異端審問の始まりであった。

第二章 異端とは何か

「異端」という概念は二世紀ごろに登場して以降、様々な意味を持ちながら、キリスト教における「正統」の教義が確立していく過程で同時に形成されていった。まず二~三世紀のグノーシス主義を巡る論争があり、四世紀末までのキリスト教国教化の過程で正典としての新約聖書が確立、四~五世紀に正統教義を巡る論争を経て、四五一年カルケドン信条の制定で三位一体論、キリスト両性論が正統として公認され、文書として規範化されていく。異端とされた様々な古代教派は西方世界で概ね姿を消していくが、このキリスト教の発展の過程はまさしく「異端」の排除による唯一性の強い「正統」の確立の過程であり、「正統」という真理を権威づける制度としての教会というヒエラルヒーが必然的に誕生することとなった。

「異端」が再び語られるのは十一世紀のことである。西方教会はフランク王国の力を背景としてキリスト教世界の拡大を進めたが、九世紀後半フランク王国が解体すると諸領主へ権力が分散する封建社会化が進み、聖職者たちも地域社会との関係が強化され、聖と俗の密接な共棲関係が築かれる。「聖職売買(シモニア)」「聖職者妻帯(ニコライティズム)」が一般化し、教会でもレオ9世(在位一〇四九~一〇五四)の教会改革を先駆として、グレゴリウス7世(在位一〇七三~一〇八五)による「聖職売買」「聖職者妻帯」の禁止やローマ教皇の首位権の主張、聖職叙任権闘争などの諸改革(グレゴリウス改革)が断行された。

グレゴリウス7世は「カノッサの屈辱」によってハインリヒ4世に謝罪をさせたが、この教皇と皇帝との対立はキリスト教世界の秩序を巡る闘争であり、皇帝の反撃と教皇の死などもあって一一二二年のウォルムス協約で妥協がなされることとなるが、この過程で聖俗の分離と教皇を頂点とする教会のヘゲモニーが確立することとなり、教会支配への服従が信徒には重要視されることとなる。

ここに「不服従の異端」という観念が誕生する。教義的誤謬ではなく教会の権威に従わない者もまた「異端」とされ、信仰のみならず、政敵や反抗的な人々、貧民、ハンセン病者、性的・道徳的逸脱などもまた「異端」として語られるようになっていった。「異端」という言葉が対象とする領域の著しい拡大によって「異端」が次々と登場することになる。一連のグレゴリウス改革は改革を巡って議論百出する。教会が目指す改革の方向とは違う手段を選んだ人々もまた数多く登場するが、その人々もまた、服従か不服従かの差がすなわち「異端」か否かの基準となった。

十二世紀から十三世紀にかけて、カタリ派、ヴァルド派、聖霊派(ベガン派)といった様々な「異端」が南フランスを中心に登場し、アルビジョア十字軍が組織されて異端討伐の軍が差し向けられ、虐殺と強制改宗、異端審問が行われるようになる。実のところ異端とされたヴァルド派と教会の中心勢力となったフランシスコ修道会の祖アッシジのフランチェスコの教えとの間には大きな違いは無い。ただ、前者は教会支配に抵抗し、後者は教会に服従しただけに過ぎないが、その違いが前者は弾圧、後者は隆盛の差を生んだ。

『一一・一二世紀のヨーロッパは都市と商業・貨幣経済の発展を背景にしてダイナミックな成長と拡大の時代を迎えていた。都市では新しい経済ばかりではなく、新しい文化と心性が生成する。そこでは早くからラテン語の読み書きができない一般信徒の間にも文書やテクストに対する関心が高まっていた。商人をはじめとした都市エリート層はすでに俗語(日常語)による読み書きを身に着けていたが、ラテン語訳聖書にも説教をつうじて触れる機会が増えてきた。一般信徒の間にも、聖なるテクストに書かれた神の言葉に対する関心が高まり、神の言葉を自らのものにしようという願望が現れた。』(小田内P75)

その社会変化の帰結として教会とは違う救済の道の模索という知的運動が「異端」と呼ばれた人々である。高度に論理を整えた者から俗信にまみれた者まで幅広く、その活動が活発化し、支配権を強化しようとする教会とぶつかり、あるいはその改革者となっていった。やがて、その大きなうねりが「正統」な権威による「異端」の排除へと帰結する。「不服従の異端」はやがて教会秩序を守る聖職者たちによって「悪魔の陰謀」としての異端へと観念されていく。教会というキリストの身体を穢す者たちとして位置づけられた異端は、教会の側からはそれぞれの思想や教義は無視されて「悪魔」崇拝と結び付けられる。

欧州の異端審問の登場は、一二三〇年、グレゴリウス9世(在位一二二七~一二四一)によるものとされる。「異端的邪悪に対する審問」と呼ばれる司法手続きが托鉢修道会(ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会、カルメル会)に委託されてドイツのレーゲンスブルク、南フランスのラングドックなど次々と設置され、悪魔の陰謀としての異端というキリスト教世界を脅かす脅威を取り除くことが目指された。カタリ派やヴァルド派に対して異端審問が行われ、基本的に改宗が薦められたが、どうしても従わない者は火刑に処せられる。制度的確立者としてベルナール・ギーが有名である。

一四一五年のコンスタンツ公会議におけるヤン・フスの火刑、一四三一年ルーアンでのジャンヌ・ダルクの火刑などの他、一四四〇年フランスのジル・ド・レ元帥は悪魔崇拝の嫌疑で絞首の上火刑されたことなども有名であろうが、何れも信仰ではなく政治的思惑が強い。

カタリ派の壊滅、ヴァルド派の逃走、聖霊派(ベガン派)の消滅など十四世紀半ばまでに欧州での異端審問は沈静化していったが、新たな異端を求めて一五世紀に入って異端審問制度を導入したのがスペインであった。スペインでの異端審問はそれまでに見られないほどの凄惨なものであった。

第三章 スペイン異端審問制度

『新たに設置された裁判所の目的は、改宗者たち(コンベルソス)のなかにいる誠実なキリスト教徒を、不当な嫌疑や迫害から守ることにある』(テスタスP84)

一四八〇年、スペインに異端審問裁判所が設置されるに際してカトリック両王による勅令はこう宣言したが、その後の異端審問官たちの”丁寧な調査”では「誠実なキリスト教徒」は非常に少なかったようだ。

二人のドミニコ会修道士モリリョとマルティンがセビーリャに派遣され、最初の異端審問官に任じられる。彼らは精力的に「誠実なキリスト教徒」の保護に乗り出し、一四八一年二月六日、最初の異端者の火刑が実行され、同月中に六人が火刑となり、同年春だけで約一〇〇名もの命が奪われた。有力なユダヤ教徒ディエゴ・デ・スサンの下で抵抗運動が組織され二人の異端審問官暗殺計画が練られるが、彼の娘の恋人が密告、計画は頓挫して組織のメンバーはことごとく捕縛され一二人の男女が生きながら火刑に処された。容赦ない異端審問にセビーリャのユダヤ人共同体は恐慌状態に陥る。ポルトガルやイタリアに脱出する者、改宗を申し出る者などで溢れ、この結果に「カトリック両王」も満足して全土に異端審問裁判所の設置を決めた。一四八〇年代だけで一〇万の裁判、二〇〇〇人の刑死者、一万五千の悔罪者が出て、国を挙げての虐殺と迫害が実行された。

時のローマ教皇シクストゥス4世はこのスペインの苛烈極まる異端審問制度に驚き、一四八二年の勅書で裁判は教会法に則って行われるべきであるとして抗議を行い、異端審問官になった聖職者の職を解くなど介入したが、フェルナンド1世がこれに異を唱え、教皇は折れざるを得なくなり、スペイン異端審問裁判所は教皇の手を離れて、スペイン国王直属機関として独自の裁判を行うようになる。

一四八三年、規模の急拡大に応じてスペイン異端審問を統括する総審問官職に就いたのがフライ・トマス・デ・トルケマダであった。『彼は他人に対し非常に厳格であるが、自分自身に向かってはなお一層厳格である。』(テスタスP87)その評判通り、彼は組織の再編や裁判ルールの整備を進め、総審問官を長とする聖庁、同じく総審問官を長とした七人のメンバーからなる最高会議を頂点としたトップダウンの組織を作り上げた。総審問官職は国王により教皇の名の下で指名され、教皇が後から批准するというものであった。

ところで、異端者の処刑は火刑でなされたが、これを実行したのは異端審問官たちではない。聖職者は死刑に関与することが出来ないため、異端審問の判決では「世俗の腕」にゆだねるという表現が取られた。異端審問では処刑という判決は無く、ただ、王権に任せるに過ぎず、委ねられた世俗の者たちが勝手に処刑するというロジックである。また、拷問も血を忌み嫌うという原則から「ひも責め」(腕や腿を紐で締める)「水責め」(顔の上に布をかぶせ水を注いで呼吸を出来ないようにする)「吊るし落としの刑」(拷問台に括り付ける)、服を脱がせて辱めるなどの手法が取られた。

取調べは秘密裏に行われる。『教会は、証拠物件よりも自白のほうを好み、このほうが上だと考えた。被告がもし頑強に否認しつづけるなら、審問官たちはさまざまな強制手段を用いることができた。未決拘留などもそのひとつである』(テスタスP45)という。フランスでの異端審問のことだが、スペインも同様であった。これは告白こそが権力への服従を意味するからだ。密室での自発的な告白と、公の裁判でのその内容の再確認という儀礼を経て、「服従する意思」が生み出される。そのために密室での異端者自身による『「完全な真理」(=異端の罪を認め、悔悛すること)』(小田内P304)の自発的な告白は最重要視された。頑として自白に応じないときにはじめて拷問が用いられることになる。

一四九二年、ついにグラナダが陥落し、七百年に渡ったレコンキスタ運動が完了する。「カトリック両王」は陥落直後のグラナダで「ユダヤ人追放令」を発布する。四か月の猶予を与え、改宗か国外追放かの選択を迫った。追放令によって国外退去したユダヤ人は八万~一五万と推計され、またコンベルソの数は一五世紀末の時点で二〇万人に膨れ上がっていた。彼らコンベルソに対して異端審問は繰り返し行われていく。また、国外退去したユダヤ人たちは難民となって欧州各地に散らばっていくが、急激な流入に耐えられず各地で迫害されることになる。また、一五〇二年には、ムスリム追放令が出され同様にキリスト教徒への改宗か国外退去かが突きつけられた。

かくしてスペインはユダヤ人、ムスリムを弾圧し同化し排除することによってカトリック信仰に基づく宗教的統一を成し遂げる。「血の純潔」という観念はスペイン社会独特の価値観と差別意識として定着し、この観念はやがて国外へと向けられていった。同じ一四九二年、コロンブスによる新大陸発見から怒涛の植民地建設の過程で行われたインディオ虐殺と同化政策もまた、「血の純潔」観念が大きく作用した。改宗すれば認められるのではなく、その実態としての信仰や生活、文化、思想こそが問われ、それは異端審問によって常に試され続けた。

スペイン異端審問制度はハプスブルク朝断絶後の一八世紀までにはほぼ形骸化し、一八二〇年の廃止令によって解体(一八二三年に王政復古で復活するが死文化した)する。また、欧州の異端審問制度も一六世紀までにはほぼ見られなくなっていくが、異端排除の思想が消えたわけでは無かった。異端審問制度と入れ替わるように一六世紀から一七世紀初頭にかけて、欧州各地で見られたのが「魔女狩り」であった。「魔女狩り」は異端審問よりさらに大規模に、多数の人々を巻き込んで人々を凶行に走らせていく。「魔女狩り」についてはまた別の機会に紹介しよう。

付章 参考書籍まとめ

世界歴史大系 スペイン史〈1〉古代~近世
山川出版社
売り上げランキング: 510,453

スペイン史の通史。主に記事の第一章と第三章の史実関係についてはこの記事と次の網野書を参考にしている。

インカとスペイン 帝国の交錯 (興亡の世界史)
網野 徹哉
講談社
売り上げランキング: 64,324

スペイン帝国とインカ帝国の比較、特に両帝国が実はよく似た制度や文化であったことが浮き彫りになる。主に本書の第三章、第四章でスペインの排除の文化の誕生から異端審問までが概説されており、その記載を参考にした。

スペインの黄金時代 (ヨーロッパ史入門)
ヘンリー・ケイメン
岩波書店
売り上げランキング: 353,804

そもそも黄金時代とされるスペイン一五~一六世紀が黄金時代などではなく単に衰退の過程であったという、ナショナルヒストリー史観に対するカウンターとして書かれた一冊。面白いが、批判も少なくないらしい。

異端審問 (文庫クセジュ)
ギー・テスタス ジャン・テスタス 安斎 和雄
白水社
売り上げランキング: 536,686

1972年発行、異端審問のコンパクトな概説書としては古い部類だと思うが、フランス、スペイン、ラテンアメリカなどそれぞれの地域の異端審問制度の概要がまとまっていて有用。本記事の第三章で本書第五章を多く参照している。

異端審問 (講談社現代新書)
渡辺 昌美
講談社
売り上げランキング: 458,035

異端審問について全体像が書かれた最近の新書としてはこれが唯一か。主にフランスでの異端審問を中心に、スペインについては最終章で簡単に触れられているのみなので、南フランスの異端審問について知りたい人に有用。ベルナール・ギーについて詳しい。概説というよりは事例集的な印象なので、がっちり入門としては次の小田内書の方をお勧めする。

異端者たちの中世ヨーロッパ (NHKブックス No.1165)
小田内 隆
日本放送出版協会
売り上げランキング: 332,730

「異端」について古代から中世フランスの異端審問までをかなり本格的に描いた、とても勉強になったよい本。グノーシス主義やマニ教などの古代の異端、カタリ派、ヴァルド派、聖霊派(ベガン派)などの中世の異端、またその登場の社会的・歴史的背景、神学論争などが詳しく描かれていて、とても面白い。これ読むと中世欧州社会の教会を中心とした大きな流れが見えるんじゃないだろうか。本記事第二章はほぼこの本に沿っている。また第三章も一部この本を参照している。

キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)
小田垣 雅也
講談社
売り上げランキング: 21,945

定番のキリスト教史の概説書。本棚に一冊あると何かと便利です。

他に上記に挙げた書籍の多くで参考書籍として挙げられている「スペインのユダヤ人 (世界史リブレット)」も参照したかったが、最寄りの図書館に在庫が無かったためあきらめた。このテーマでは鉄板の一冊であるようだ。

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