鎌倉は「鎌倉」であって世界遺産「武家の古都・鎌倉」ではないと思う

鎌倉の世界遺産「不登録」へ、イコモス勧告に市民落胆/神奈川:ローカルニュース : ニュース : カナロコ — 神奈川新聞社
世界遺産 鎌倉不登録、イコモス勧告「武家の物証」不十分/神奈川:ローカルニュース : ニュース : カナロコ — 神奈川新聞社

目指していた関係者の皆様は残念でした。世界遺産を目指すための多額の予算と関係者の活動が鎌倉の観光や様々な史跡の整備などに向けられていたようなので、一観光客である僕もかなり恩恵を受けた面があったのだろうと思います。

それはそれとして、鎌倉について個人的に思うところを。

「武家の古都」としての、鎌倉時代当時の建造物は相次ぐ戦乱のためほとんど残っていない。

まず、武家の都の中心である政庁がない。鎌倉幕府初期の政庁があった「大蔵御所」は三代将軍実朝死後の1219年に焼失、続く「宇都宮辻子御所」(1219~1236)、最後の御所となった「若宮大路御所」(1236~1333)も鎌倉幕府滅亡の戦乱の中で焼失しており、若宮大路御所は諸説あってどこにあったのかも定かではない。

かつての鎌倉幕府の中心「大蔵御所址の桜並木」

神仏習合神として武家権力を正当化する源泉として機能していた鶴岡八幡宮も幕府滅亡とともに衰退。1526年の里見氏と後北条氏が激突した鶴岡八幡宮の戦いで本宮をはじめとするほとんどの施設が焼失、幾度かの再建を経て、現在の本宮は1828年に作られたものだ。また、明治維新後の廃仏毀釈によって仏教施設は全て壊されたため、武士の信仰を集めていた神仏習合神としての八幡大菩薩であった当時と、八幡神としての現在ではその相貌は全く違うものといえる。

鶴岡八幡宮と由比ヶ浜

また「大蔵御所」があった一帯の北側に源頼朝の墓があるが、これも安永年間(一七七二~八一)に頼朝子孫を自称する島津氏(伊東祐親によって殺害された千鶴丸が生存して島津忠久になったという俗説に基づく)によって作られたもので、実際はその横の現在の白旗神社のあたりにあった法華堂に遺骨が納められていたとされる。法華堂は鎌倉時代を通して頼朝の霊廟として武士たちの尊崇を集めたが、明治の廃仏毀釈によって壊され、1872年に白旗神社となった。あったとされる頼朝の遺骨がどうなったのか簡単に調べた限りでは良くわからない。

源頼朝の墓

鎌倉では新仏教が興隆して様々な寺院が建てられたが、中でも幕府の庇護のもと武士の信仰を集め鎌倉で最大の勢力を誇ったのが禅宗系の寺院であった。建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺は鎌倉末期から室町時代にかけて鎌倉五山として最高の権威となったが、その鎌倉時代を代表する禅宗寺院の建築様式が、三門仏殿法堂が一直線に並び左右に庫院と僧堂、法堂背後に方丈も設ける禅宗伽藍である。しかし、各寺とも今も多くの観光客を迎えているものの、鎌倉時代を特徴づける禅宗伽藍様式は取られていない。度重なる戦乱と、宗派対立で全て破壊され、再建が出来ないままだったからだ。

鎌倉五山筆頭、現在でも広大な敷地の建長寺は、1414年の大火で全焼してから江戸時代になるまで荒廃、あまりに大規模過ぎて再建の費用を捻出できず、京都般舟三昧院(天台宗)や芝増上寺(浄土宗)など禅宗に限らない様々な宗派の建物の使い廻しで構成されている。八代執権北条時宗墓所でもある円覚寺も室町時代建造の国宝舎利殿を除いて建物は江戸時代に再建されたもの。1374年に建長寺と円覚寺で対立が先鋭化して建長寺派僧兵の襲撃で全焼したあと、荘園を失い再建までかなり時間がかかってしまった。どちらも鎌倉時代は中国からの留学僧を多く迎え、文化の発信センターとして機能していたが、その当時の威容は失われたままだった。

鎌倉第一の権威を誇る禅宗寺院「巨福山建長寺」
北鎌倉の古刹「瑞鹿山円覚寺」

「鎌倉大仏」については謎が多い。いつ、だれが建てたのか諸説あって定まっていない。ただ言えるのは鎌倉大仏の役割は権力の象徴ではなく、「鎌倉中」と「田舎」とを分ける境界の守護である。鎌倉の西の境界に位置し、この先の極楽寺を中心とする一帯は鎌倉中から追われたハンセン病患者や貧者救済の中心であった。大仏は疫病や凶事などに象徴される悪鬼を退ける目的で弱者が集まる境界に建てられたものだ。

鎌倉大仏を巡る四つの謎

鎌倉と外部とをつなぐ七つの街道「鎌倉七口」は鎌倉時代に整備された七つの切通からなり、巨福呂坂などは完全に舗装されているが特に朝夷奈切通や名越切通、あと化粧坂切通などがかつての姿を残している。しかし、かつてと言っても鎌倉時代というわけではない。明治時代、道路が整備されるまでそれぞれ主要街道として使われ、以後工事の手が入らなかったので近代以前の姿が残る。江戸時代の道祖神なども多く見られるし、江戸時代に何度も拡幅工事や崩落を繰り返して当時とは大きく姿を変えている。

見頃を迎えた鎌倉最大の梅林「十二所果樹園」と「朝夷奈切通」
鎌倉・逗子の境界にある死の聖域「まんだら堂やぐら群」と名越切通、猿畠の大切岸

色々と例を挙げたが、要するに鎌倉を現在でも「武家の古都」たらしめるような建造物は鎌倉にはほとんど残っていないということ。鎌倉は歴史の積み重ねの中で大きく形を変えており、かつて武家の都であったという幻想が残っているにすぎない。その幻想もより深く人々の心に刻み込まれて日本の信仰・文化にまで昇華されていれば「武家の古都」は客観的に観測されて世界遺産になったかもしれないが、やはり観光PRのキャッチコピー以上ではないと思う。真に「武家の古都」という幻想を突き詰めようとしたら、近代性という壁と向き合わざるを得なくなるが、それは無理な相談だろう。

しかし、それをもって鎌倉を貶める意図は全くない。むしろ鎌倉は歴史的にも一観光客にとっても素晴らしい土地である。歴史を掘り下げて行けばいくほどに、かつてあった鎌倉の姿が浮かび上がってくる。街のあちこちに、幻想としての歴史が、幻想としての建築物が、幻想としての信仰が、幻想としての人々の営みが見え隠れする。これほど歩き甲斐のある土地はそうそう無い。

何かが在ったのに、何も残っていないというのは、何かがあったからだ。何かを失わせる事件があり、それを取り戻そうとする意図は、それを失わせる流れの中で翻弄され、様々に形を変えて今の鎌倉が形作られている。調べれば調べるほどに歩けば歩くほどに面白い。「武家の古都」ではなくただ「鎌倉」としてあることによって比類無い魅力に満ちていると思うのだが、その感覚を伝えるのは難しい。

葬送の場であった由比ガ浜で、沈む夕日を眺めながら今まさに死を迎える鎌倉の人々の想いとシンクロする。ツギハギの建長寺を訪れて、堂々たる威容の七堂伽藍を脳裏に浮かび上がらせる。円覚寺で襲い掛かる僧兵たちと炎上する大伽藍に震える。雪の降り積もる鶴岡八幡宮で実朝に斬りかかる公暁の場面を幻視する。大蔵御所址の桜並木に佇んでせわしなく働く幕府官僚の姿を思う。若宮大路を闊歩する鎧武者の一団とすれ違う。険しい切通を歩きながら新田義貞軍と北条軍との戦さに従軍して息を切らせる。鎌倉大仏で、苦しむ貧者や病者に献身的な救済活動を行う鎌倉新仏教の僧侶たちの姿に心を痛める。静謐なる腹切りやぐらで次々と自害する北条一門に祈る。頼朝の墓の前で、わしは頼朝殿を超えたぞと語りかける後北条氏を滅ぼした直後の豊臣秀吉と出会い時代の終わりを感じる。円覚寺境内を分断する横須賀線と、かつて女性のアジールであった東慶寺が尼寺でなくなった歴史に近代国家明治を見る。

散歩と言うのは、目の前に無い場所に行くことにこそその楽しさの神髄があると思うので、鎌倉ほど楽しい場所は無い。そのような幻想の世界を歩くという個人的な楽しみに鎌倉は満ち満ちている。

ということで、貴重な「まんだら堂やぐら群」が再び臨時公開(4月 20 日(土)~5月 26 日(日)の間の土日祝日のみ)されているそうなのでおすすめ。

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