ガリレオを擁護した囚われの魔術師トンマーゾ・カンパネッラ

「それでも地球は回っている」

地動説の撤回を異端審問裁判で求められたガリレオ・ガリレイが呟いたとされるこの言葉は、現在では創作であったというのが定説だが、大人から子供まで知らない者がないと言って良いほどに有名だ。しかし、そのガリレオの地動説を命がけで擁護した魔術師が居たことはほとんど知られていない。

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1 ガリレオとカンパネッラ

トンマーゾ・カンパネッラはルネサンス末期を代表する魔術師である。変人であった。

トンマーゾ・カンパネッラ

1568年、南イタリアの貧しい靴屋の倅として生まれた彼は14歳でドミニコ会に入会、しかし修道士の禁欲生活よりも学問に魅せられて古今東西の書物を渉猟していくうちに当時支配的なアリストテレス的世界観に疑問を覚えるようになり、20歳で反アリストテレス主義者として名高い南イタリアの自然哲学者ベルナディール・テレジオの思想に心酔、異端とされていたテレジオ思想擁護の本を執筆する。

1589年から二年あまりナポリに滞在したカンパネッラはそこで当代随一の魔術師ジャンパッティスタ・デッラ・ポルタと出会いオカルトの研究を薦められ、また同地でユダヤ律法学者アブラハムから占星術と魔術の教えを受けたことで修道士から魔術師へと転身した。1592年、カンパネッラは教会から悪魔との交流や不遜な態度を指弾されて贖罪を求められるとこれを無視して放浪の旅に出、教会の追手を交わしつつフィレンツェ、ボローニャなどを転々として92年秋ごろヴェネツィアの都市パドヴァへと逃れた。

ガリレオ・ガリレイがパドヴァ大学教授に赴任したのが1592年9月のことであった。二人の出会いはガリレオがフィレンツェ大公からカンパネッラ宛の手紙を預かっていたことがきっかけであったと言われている。当時のパドヴァはガリレオをはじめとする自然哲学者たちが集まる知のサロンの様相で同時代随一の研究者たちが至る所で日々討論を繰り広げていた。ガリレオとカンパネッラもここで後の近代自然科学誕生の揺籃期を過ごした。

しかしカンパネッラのパドヴァ滞在は長くなく、1593年、彼の思想を危険視したローマ異端審問所「検邪聖省」に逮捕されローマで牢獄に収監される。同じ牢獄には後に異端として火刑になる哲学者ジョルダーノ・ブルーノも収監されていた。カンパネッラは94年に釈放されるもそのまま軟禁され、97年に自由の身となるが、以後彼はその生涯を通して何度となく獄に繋がれることになる。

2 ルネッサンスの魔術

「魔術」はキリスト教以前の汎神論的世界観に基づく思想であった。キリスト教が唯一絶対の神を頂点とした整然とした世界観であるのに対して、魔術思想では神は至る所に遍在しており、もろもろの自然は様々な神の姿を取る。その力を引き出して自然に何らかの効果を及ぼす技が「魔術」であり、魔術を司る人を「魔術師」と呼び、魔術の一環として「占星術」や「錬金術」などが存在する。キリスト教の支配が確立する過程で魔術は異端とされ抑圧されてきたが、その魔術的知識の復興がルネッサンスの特徴の一つであった。

ルネッサンスによってイスラーム世界から流入した汎神論的な諸々の文献によって新プラトン主義やヘルメス思想など自然を有機的統一体として捉える神秘思想の拡大を土台として、十四世紀頃、ペストの蔓延や東ローマ帝国の凋落、イタリアの精神的・政治的荒廃などによる社会不安と危機意識の中で旧来の神学に代わり「魔術」が大きく栄えることになる。「魔術」は社会不安の中で自然の統一的な秩序を模索し、自然に対して影響を与える手法を探究する思想であった。

「占星術」には二つの知的前提があったという。『一つは”理論”として、明確な輪郭の下に宇宙の永遠の法則を見出そうとするもの。また一つは”実践”として、宇宙の悪霊を恐怖し、宗教的な因果律を統括する術を考え出すものである。』(澤井「魔術と錬金術」P44)前者は数学の発達とともに天文学など学問へ、後者は宗教領域へと進展していった。「魔術」も様々な実験を繰り返すうちに技術の発達とあいまって経験科学的な要素を強めていく。

十六世紀の魔術は自然に対して力を及ぼす中間的存在である第五元素スピリトの存在を前提とした有機的自然観を共有しつつも、経験的知識尊重の北イタリアと観念的な形而上学が濃厚なカンパネッラらの南イタリアとに大きく分かれていた。ガリレオら北イタリア出身者の間でやがて近代科学が誕生していくことになるが、どちらも自然観察と経験知を重視する傾向には変わりがない。ただし前者は全体性よりも目の前の事実理解する手段として、後者は全体的な秩序へとたどり着く手法として自然観察を重視していた。

魔術から科学へと知の体系が大きく変わる一大転換期にガリレオとカンパネッラの二人が登場する。

3 地動説と天動説

1610年、ガリレオはその数年前にオランダで発明された『対象が観測者の眼からずっと離れているのに近くにあるようにはっきりみえる』(ガリレオ「星界の報告」P10)眼鏡の噂を聞き、その理論を独自に解明して自作する。後世「ガリレオ式望遠鏡」と名づけられるその眼鏡に、彼は、科学史においてあたかも創世神話のごとく熱く語り継がれることになる、ある工夫をほどこした。水平に向けて使われるはずの望遠鏡を斜め上、天空に向けたのである。

そして彼は地球の自転を確信するに至る。同年に刊行された「星界の報告」は一大センセーションを巻き起こした。彼の「地動説」は当時の支配的宇宙観「天動説」と真っ向から対立していたからだ。

アリストテレスは宇宙を有限で球形なものと考えた。宇宙の中心には静止した地球があり、地球は土で出来ている。地球の周りには順に水、空気、火の球に囲まれ、その火の球の外には七つの天球があり、宇宙の最も外側に位置するのが恒星天球で、神によって回転させられるその恒星天球の動きが七つの天球に回転運動を伝える。七つの天球は霊魂を有し、彼ら天球の神への愛が永続的な円運動を行わせている、とするものである。

トマス・アクィナスはこのアリストテレスの宇宙観に以下の四点でキリスト教的修正を加えた。(「ガリレオの弁明」 P157)

1)恒星天球を宇宙の果てとしたアリストテレスに対して、トマスはその外側に、日周運動のみを行う第一可動天球を措定。
2)第一可動天球のさらに外側に、天使が創造され、その住処である光輝天球を措定。
3)アリストテレスの神と異なって、トマスの神は、この宇宙(物体的被造物と霊的被造物の総体)を想像し配慮するとする。
4)アリストテレスでは天球に霊魂が付されていて天球が動くのであったが、トマスはその霊魂を天使に変え、「天使は、神によるこの宇宙の配慮の手段となり、天球を動かす」とする。

この結果、アリストテレスの宇宙観を元にした神を頂点としてその下位の天使が天体を動かし、天体が月下界に影響を及ぼすというピラミッド型の階層化された宇宙観が成立する。このアリストテレスの宇宙観を前提とするキリスト教的に整理され中世キリスト教世界の支配的世界観として行き渡ったトマス・アクィナスの宇宙観がいわゆる「天動説」である。

神を頂点とする「天動説」への異論はすなわちキリスト教支配体制への反逆を意味する。ゆえに地動説の先駆であるコペルニクスは自著の発売を控え、地動説を唱えたブルーノは火刑となったのである。しかし、すでにルネッサンス末期の経験科学的潮流は大きくキリスト教的価値観を揺るがせており、まずケプラーがガリレオの地動説を擁護し、多くの知識人がそれに続いた。

そしてガリレオは「星界の報告」を、すでに同時代最高の魔術師に数えられていたカンパネッラに送る。彼は獄中にあった。

4 囚われの魔術師

1597年に自由の身となったカンパネッラは故郷ナポリ王国に戻るが、当時のナポリ王国はスペイン帝国の支配下にあり苛烈な異端審問の嵐が吹き荒れていた。スペインの圧政と弾圧、特権階級は保身のために民衆に重税を課し、カトリック教会はプロテスタントとの闘争に明け暮れて人々を抑圧する。その惨状を見かねたカンパネッラは自ら預言者を名乗り、善の共同体の創設を唱えて武装蜂起を企図するが、1599年、計画が露見して逮捕されてしまう。裁判で死刑判決が下りそうになると狂人の振りをして刑を免れ、長い獄中生活を送っていた。

獄中、彼は盛んに執筆活動を行っていた。この間に執筆された数々の著書によって、彼の魔術師としての名声は揺るぎないものとなる。特に、彼は個人の能力に負う魔術を社会との関係で捉えなおし、自然探求の手段としての魔術から社会変革の手段としての魔術へと大きく発展させた。『人間の中で最も偉大な魔術的行為は人間に法律を与えることである。』と、宇宙の普遍的精神に基づく法に支配された共同体を構想した。まさにルネッサンス魔術の完成者と言える。

『学者が、知られざる技巧を用いて、自然を模倣したり授けたりすることによって、何事かをなすとき、無知文盲の徒のみならず通常の人々にも、これらはすべて魔術の仕業だと見えるのである。

(中略)

火縄銃や印刷の発明も魔術的な事柄であった。磁石もそうである。しかし今日では誰でもその技巧がありふれたものであることを知っている。同時に時計や機械的技巧の発明も、その構造が衆人に公開されてしまうと、途端に尊敬されなくなってしまう。ところが物理学や天文学や宗教の事柄は広く知られることが稀である。そしてこういう事柄を古代の人々は魔術として理解したのである。』(澤井「魔術と錬金術」P133 カンパネッラ著「事物の感覚と魔術」1604年)

魔術がやがて衰退していく未来を見据えていたかもしれない変わり者の魔術師に歴史が与えた役割が「ガリレオの弁明」であった。

5  魔術と地動説

獄中でガリレオから送られた「星界の報告」を読んだカンパネッラは即座にその正しさを確信した。魔術はアリストテレスのとは違うがやはり天動説を支持している。ヘルメス主義的な太陽崇拝を前提として天体の動きにスピリトという力が影響を与えて円運動をしていると考える。その自身の魔術思想が拠って立つ土台を覆して、地動説が正しいと理解したのである。

彼はガリレオに宛てた手紙(1611年1月13日付書簡)で無数の星々には『「わが地球と同じように人がたくさん住んでいるにちがいない」』(「ガリレオの弁明」P171)と、その他の星々に住む住人たちの文化や社会の在り様にまで想像の翼を羽ばたかせ、他の星々に地球とは違う人々が住んでいるであろうという多様性を考慮して『好奇心や空想力を発揮して政治家は人びとの社会生活がいかにあるべきかを問い、神学者はそれら遠い星の住人に贖罪の理法を提示すべき』(「ガリレオの弁明」P172)とまで語る。『「彼らは幸多きか、あるいはわれわれ地球人と同じ状況にあるのか」』(「ガリレオの弁明」P172)

しかし、カンパネッラは囚われの身である。論文を読んで理解することは出来ても、研究を行うことは出来ない。『「ああ、これらの問題についてあなたと議論することができるならば」』(「ガリレオの弁明」P173)と無念さをガリレオに書き送っている。

また、魔術師としての壁はやはり越えがたかった。魔術師である彼の興味はやはりこの世界の全体像や秩序の探求であって、ガリレオの地動説を宇宙観の中にどのように位置づけたらよいかであった。一方でガリレオの興味はあくまで真理の探究にあり、数学的論証の積み重ねにある。ガリレオとカンパネッラの仲介役となっていたフェデリコ・チェジは『「彼(カンパネッラ)は数学的なものをほとんど受け容れられないようです」』(澤井「ガリレオの弁明」P174)とガリレオに語っており、また、ガリレオも他の人物への手紙に『「私はどんなささやかなことでも、真理を見出すことを重んじている。真理に到達することなく、大問題を長時間論ずることはない」』(澤井「ガリレオの弁明」P176)とカンパネッラとの対話の拒否を示す内容を書き送っている。

このズレはガリレオにとって非常に大きなものであった。以後、カンパネッラは熱心にガリレオに書簡を送るが、ガリレオがカンパネッラへの返事を書くことは無かった。

6 ガリレオの弁明

1616年2月24日、検邪聖省(ローマ異端審問所)は正式にガリレオの説が異端であると宣言、ガリレオに対して説の撤回が求められ、彼がその勧告を受け入れたことが聖省に報告された。誰もが沈黙する中、頼まれもしないのに、一人異議を唱えたのが、恐らく異議を唱えることが最も危険な行為であったであろう、獄中のカンパネッラであった。

1616年9月、彼が獄中で書き上げた「ガリレオの弁明」は、ガリレオの説がキリスト教の伝統的な思想に反しないという論証が試みられた小論である。同書は当時教会中枢の中では寛容な人物として知られていたカエターニ枢機卿に届けられるが、その枢機卿が翌年死去してしまい、紆余曲折あって6年後の1622年に出版にこぎつけている。出版されるとその内容について賛否両論が巻き起こった。

出版を請け負ったトビア・アダミが寄せた「出版者挨拶」からして、皮肉を通り越して反骨の挑戦的なウィットに満ちている。

『たいていの事柄は、庶民の目には哲学者として映る何人かのうぬぼれ屋によって観察されているのだが、彼らがいくら気取って研究成果を発表しても、真理を求めていっそう深く研究している人たちを満足させることはできない。こうした真理探究を妨害しようとする輩のなかで第一線に立っている者といえば、聖書の無謬なる権威に寄りかかる多くのカトリックおよびプロテスタントの神学者たちである。真理を愛する人にとっては、彼らが理性を持っているかどうかが、最初に心惹かれる問題である。』(P19-20)

カンパネッラは古今東西の哲学者・神学者を引きつつガリレオの研究手法と地動説がキリスト教の伝統と合致していることを主張する。あわせて、経験的認識の尊重と知は進歩するという思想を唱えて、古い宗教的世界観と新しい学知との融合を図った。

『知者といえるのは、自分の無知さ加減を自覚している人で、(中略)すべてを熟知していても研究を思いとどまらない人に限られる。実際、人間の知識など閃光にすぎない。』(P67)

『キリスト教の大いなる栄光のために、私たちは新たな学知を発見し、「爪を切り髪を切」(引用者注:異教徒の学知に倣うことの比喩)らなくてもよいように旧い学知を刷新することが必要である』(P70)

『さて私が理解に苦しむ点は、現代の神学者がなぜ数学的証明も実験もせずまた啓示も受けずに、地球が世界の中心にあって不動であると不当にも主張するのか、ということである。』(P90)

『ガリレオの発見は聖書と両立するのであり、神学者のこじつけ的解釈や哲学者の嘲笑から聖書を救ってくれているのである。私は、なぜ人は自ら盲目のままでいたいのか判らない。また、なぜ確固たる理論もなく誤った情熱で燃え上がるのか、あるいは、情熱をもたずになぜ経験に基づいた教説をないがしろにするのか、理解できない』(P122)

ガリレオを弁明することを通して当時の社会が拠って立つキリスト教と勃興しつつある科学とを融合させようとした彼の試みは、しかし、ガリレオ側には丁重に無視されることとなった。ガリレオにとっては信仰上の真理と科学上の真理とは全く別物であって、カンパネッラが目指した宗教と科学の折衷はどうでもよいことであった。『ただ、科学的に確証された結論を宗教の側が批難することで、教会と聖書の権威が損なわれるのを危惧』(P184)していたという。知の統一を目指したカンパネッラと宗教的知と科学的知の分離を目指したガリレオという構図である。

熱心にカンパネッラがガリレオを擁護しようとすればするほど、ガリレオはカンパネッラを遠ざけるようになる。それでもカンパネッラはガリレオの擁護に情熱を捧げ続けた。

7 魔術の時代の終わり

1626年、数々の著書によって魔術師としての名声を確固としていたカンパネッラへの人々の助命嘆願が功を奏し、収監から27年目にしてついに釈放される。しかし、それを良しとしない検邪聖省によって護送途中で教皇庁に三年に渡って軟禁され、晴れて自由の身になったのは1629年のことであった。

出所したカンパネッラはガリレオに出所を知らせる手紙を送り、その後五通の書簡が残っているが、ガリレオの態度は変わらずつれないものだった。カンパネッラはガリレオに一緒に田舎で研究したいと申し出ているが、その申し出は叶わなかったようだ。

1632年、ガリレオの新著「天文対話」が出版。長らく主張を控えていた地動説が満を持して再び唱えられ、自説を補強するために近代物理学の基礎となる慣性の概念が登場する。検邪聖省はこの出版禁止令を出し、ガリレオに出頭命令を出した。冒頭の「それでも地球は回っている」との言葉で名高い「ガリレオ裁判」の開幕である。

カンパネッラはその出版禁止令に先立って内容の是非を議論する委員会に自身を加えてくれるよう各所に働きかけるが、釈放されたとはいえ罪人であることに変わりは無いと脅されて、泣く泣く身を引くことになった。

1634年、再びスペイン当局の手がカンパネッラに伸びようとしていたことを察知して、彼はフランスに亡命する。宰相リシュリューが彼を高く評価しており、厚遇されて魔術の研究に没頭、以後パリに骨を埋めた。ガリレオには二度と手紙を出すことは無かったという。

1639年1月、カンパネッラは星の動きから自身の死期が近いと悟り、同年5月、71年の魔術師としての生涯を終えた。フランス大使フェルナンド・バルディはガリレオにこう書き送った。

「あわれなカンパネッラ神父が逝去されました。公平で学者である方がなべてみなそうであるように、あの方もおおいに偏屈な人でした」(「ガリレオの弁明」P198)

新旧の知の狭間で両者の統合を目指した変わり者の魔術師の死をもって魔術の時代が終わり、彼が命がけで擁護したガリレオの登場をもって歴史に言う「第一次科学革命」が始まる。キリスト教的世界観と科学的合理主義との過渡期に隆盛を誇った「魔術」は急速に過去のものとなっていった。

『人間の英知はこの地上に満足しきっていて、あえてそれを超えようとしなかったと、どうしていえましょうか?』

ガリレオ・ガリレイ(「星界の報告」P7 トスカナ大公コジモ・デ・メディチに宛てて)

参考書籍
・トンマーゾ・カンパネッラ 「ガリレオの弁明―ルネサンスを震憾させた宇宙論の是非
・澤井 繁男「魔術と錬金術 (ちくま学芸文庫)
・ガリレオ・ガリレイ「星界の報告 他一編 (岩波文庫)
・小田垣 雅也「キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)
・桜井 邦朋「天文学を作った巨人たち - 宇宙像の革新史

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