幕末の人口統計「空白の四半世紀」に何故人口は増加に転じたのか?

前回の記事「歴史人口学から見た江戸時代農村の結婚について」が好評だったので引き続き歴史人口学のネタを。

幕末から明治初期にかけて、人口統計資料が残っていない空白の四半世紀がある。

徳川吉宗によって1721年から6年間隔で行われるようになった全国人口調査「子午改め」は1846年を最後に打ち切りとなっており、以降江戸時代には人口調査は行われていない。1852年の調査は行われたものの1853年ペリー来航、13代将軍家慶死去など大事件が相次ぎ集計作業が中止、以後幕末の動乱へ突入したことで1858、1864は実施されたかどうかも不明であるという。次に全国調査が行われたのが明治維新政府成立後の1872年「壬申戸籍」の集計だが、この72年のデータは多くの脱漏があるなど信頼性が低く、1881年の統計まで待たねばならない。

この統計資料が無い空白の26年(35年)間は、非常に重要である。なぜなら長い停滞期にあった人口がこの空白の時期のいずれかに一気に上昇に転じているからだ。1721年から1846年まで約3000万人~3200万人の間でほぼ横ばいに推移していた日本の人口は1880年約3600万人、1890年4100万人、1900年4650万人と右肩上がりで増え続け、以後、1899年から若干の上下はあっても、常に出生が死亡を上回る人口拡大期が2005年に初めて自然減に転じるまで続くことになる。

1846年~1881年の庶民の人口増加率は年率0.4%前後、1872年から81年の人口増加率は年率1.0%であったという。(浜野「歴史人口学で読む江戸日本」P155)おそらく1860年前後に全国人口は上昇に転じたと見られているが、何故なのか?

第一に、幕末の人口成長の前段階として、1820年代に出生率が上昇に転じていることがわかっている。1792年に全国人口が底を打って以降、出生率は上昇傾向を見せていたがその後も飢饉や疫病の流行などで度々引き戻されながら、全国人口は徐々に1822年にはそれ以前のピークであった1732年の規模にまで回復していた。(鬼頭「人口から読む日本の歴史」P219)

この一九世紀初頭の人口増加を詳細に地域別に見ると、一八世紀の人口増加率の西高東低傾向から東高西低への大きなシフトが起きていることがわかるという。具体的には一八世紀まで西日本で増加率が高く東日本で低い傾向が続いていて、その相殺によって人口停滞期が生まれていたが、1804-46年に出羽と北陸で人口増加率が上昇に転じ、これが1846年以降東東北南部、西関東も上昇、西高東低から東高西低への大きなシフトが起きていた。(浜野P156-158)

その第一段階である出羽の人口上昇のきっかけを作ったのが米沢藩主上杉治憲(鷹山)の改革であったとされる。1767年に米沢藩主に就いた治憲(鷹山)は自身の改革は挫折するものの、隠居後の1791年、莅戸善政を抜擢して武士階級も養蚕や織物に就かせるなど殖産興業を進め、米沢の経済が急速に発展、庶民に至るまで所得の増大をもたらすと、その五年後には人口増加が開始、江戸期を通じて人口増加率は増加し続けた。特に、江戸期日本の物流の大動脈であった西廻り海運を通じてその販路を確保出来ていたことが大きい。米沢藩同様に出羽・北陸の諸藩はまず内生的な財政再建・産業振興に成功させ、貿易を通じて市場経済の発展をもたらし、それが所得増加に繋がることで人口増加の要因となっていた。(浜野P159-166)

第二に、幕末の人口成長の大きな要因として、医療技術の進歩が挙げられる。1796年にジェンナーが開発した牛痘種痘法は1803年に日本に伝えられ、試行錯誤の末1849年に成功、これが伊東玄朴、日野鼎哉、緒方洪庵、笠原良策ら医師に広まり、以後全国に種痘法は拡大、福井を皮切りに各地に種痘所が設けられ、特に子供たちの死亡率が大きく改善した。(鬼頭「文明としての江戸システム」P109-110)

第三に、1819年の文政改鋳に始まる徳川家斉の金融政策である。前述の通り1792-1822の間で人口が過去のピーク時にまで戻っている拡大期に入っていたが、その人口成長が有効需要を拡大させつつあった。そこで文政小判の発行による金融緩和と人口増加にともなう物価上昇が経済成長を誘発、『賃金・年貢率が硬直的だったことから利潤を増大させ、予想利潤の上昇が民間投資を誘発して幕末の経済発展を実現した』(鬼頭「人口から読む日本の歴史」P221)。江戸では町人文化「化政文化」が花開き、地方では新田開発ラッシュが起きて人口の持続的成長の足腰となった。

第四に、十九世紀に入ると、地球規模の寒冷期が終わり温暖化の兆しが見えて来ていた。その結果、大規模な凶作や飢饉は見られなくなり、これによって死亡率の低下がもたらされ、人口上昇に転じる要因となった。

以上のような、1820年代の変化は幕末に一気に構造改革を促す圧力として吹き出すことになる。

度重なる貨幣改鋳は貨幣の信用低下と慢性的な物価上昇をもたらしていたが、それも貨幣の流通が国内でとどまり、幕府が存立し続ける限りある程度問題を先送りしていても大きな矛盾は無い。ところが1858年、日米修好通商条約締結によって実態に即さない(あるいは実体に即した、というべきか)交換比率を合意した結果、大量の金流出が起こり、一気にハイパーインフレーションが国内を襲う。

また、幕末の人口成長は食糧・エネルギーの自給自足体制を大きく揺るがす。(鬼頭「文明としての江戸システム」P111-112)食糧需要圧力の増大が米価の上昇を招き、米価は当時の物価指標であったから、物価騰貴を促すこととなり幕府の信用低下による貨幣価値の低下、外交政策の失敗としての金流出と並び、ハイパーインフレーションを推し進める要因となり、その結果都市下層民や下層農民の生活は悪化、社会不安が全国を覆う。それがやがて幕府滅亡へと作用していった。

その一方で、開港は特に東日本に有利であった。当時伊仏の蚕糸業が不振であったため、それに変わってまず生糸需要が高まり、日本へ生糸の買い付けが殺到、続いて蚕需要も高まり、生糸や蚕の生産地であった東東北南部、西関東、東山地域に「生糸バブル」「蚕バブル」として大きな経済発展をもたらした。生糸や蚕は横浜港から欧州に輸出されて多大な利益をもたらし、結果、同地域に出羽・北陸を加えた一帯を中心として東日本で急激な人口増加が始まったと見られている。(浜野P170-171)生糸と蚕は幕末から明治初期にかけて日本を代表する輸出品であった。

東日本の人口の急成長に牽引されて、幕末から明治期に人口が拡大、その持続的成長を支えたのが一九世紀末の急速な工業化の進展だったが、一方で増加の一途をたどる人口を殖産興業政策に基づく経済成長が支えきれなくなったとき日本社会が大きく揺らぎ、その後の経済・政治・軍事・外交政策に大きな影響を与える要因の一つとなった。

ということで現代と比較してみたり、幕末の状況を理解する助けにしてみたりと、ちょっとはお役に立つんじゃないかと思う記事を書いてみたつもり。簡単に概要をまとめただけなので、詳しくは下記の参考書籍に目を通されること推奨です。

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