戦国時代の村の安全保障・外交交渉・戦時体制のまとめ

先日の記事『戦国時代の日常茶飯事「掠奪・奴隷狩り・人身売買」について』で掠奪や奴隷狩りに遭う戦国時代の百姓たちについて紹介したが、勿論、彼らはただされるがままであった訳では決してない。先日の記事と同じく藤木久志氏の一連の書籍から、中世の戦う村について簡単にまとめ。

中世の村々は常に戦争や暴力の脅威に晒されていたから、生活共同体であると同時に『村の権益は自力で守るという「自検断」(自力救済)が中世社会の建て前』(藤木「戦う村の民俗を行く」P6)であるがゆえに洗練された武装集団でもあった。

男性は成人(十五歳前後)すると成人祝いに刀と脇差を与えられる。成人祝いは戦国期までにそれまでの烏帽子を与えられる戴冠式から「刀指」と呼ばれる帯刀式へと移行していた。ルイス・フロイスも『日本では今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀と小刀を帯びる』『彼らは不断の果てしない戦争と叛乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている』(藤木「戦う村の民俗を行く」)と書き記している。刀は武士の魂といわれるが、戦国期には武士に限らず、農民も商人も、すべての人にとって刀は大人ならば当然所有している必需品であった。現代でも内戦中のアフリカ諸国などで武装した少年の写真などが良く報道されるが、まさにあのような状態であったろう。

藤木久志著「戦国の村を行く」では和泉国日根荘(大阪府泉佐野市)の谷地にある四つの村(土丸、大木、菖蒲、船淵の「入山田四か村」)の十五~六世紀の戦時体制について紹介されている。日根荘は九条政基が領した和泉国と紀伊国との国境にある荘園で、紀伊の根来寺僧兵と和泉守護の細川氏との対立の狭間にあった。

細川軍が攻めてくるという噂が流れるや、即座に「鹿狩り」を名目にして狩りの支度の振りをして武装した村人が四か村から集結、夜明け前までに街道沿いの要衝であった雨山に登って待ち伏せて待機するとともに、四か村の入り口にあたる土丸村は守護軍の来襲に備えて家財を隠すための牛馬で騒然としたという。表だって迎撃の体制を整えると守護軍への敵対と取られるため、あくまで「鹿狩り」を名目としておけば、いざという時にも弁解が出来るという計算であった。また、四か村の間には日ごろから早鐘など伝達手段が整備されており、連絡があり次第、即座に村人は武装して終結するよう申し合わせてあったらしい。

藤木は、戦国時代の村々の山には村人が籠る山城があったと言う。避難所として、戦闘の拠点として様々に活用されたもので、東西を問わず様々な史料に戦時に山に避難する村人の姿が記録されているという。ただし、これまでの歴史学ではどうしても城は武士の物という先入観から城の遺構が見つかっても最寄りの武士や大名とつなげて考えられたため、村の城の研究は今後の調査次第だとされる。

村人の避難先は村の城だけではなく、領主の城が最優先の避難場所であった。前者は「山あがり」後者は「城あがり」と呼ばれ、『村の農民や百姓には、耕作のための在郷と避難先を保障し、危機には城の守りも期待する、という態勢』(藤木「雑兵たちの戦場」P158)が戦国時代の習俗となっていた。領主は領民に安全と生活のための耕作地を保障し、領民は軍役や年貢を納めるという契約関係である。

とはいえ、百姓たちは領主に全面的に頼っていたというわけではなく、織田信長も『大百姓以下は、草のなびき、時分を見計らう物にて候』と語っているように戦争の趨勢を見極めて勝ち馬に乗ったり、両勢力間で中立を保つよう交渉をすることで安全保障の体制を整えていた。例えば日根荘の入山田四か村では、根来寺僧兵の侵攻に晒された時に、村の代表が根来寺と交渉して二千疋(二十貫文=銭二万枚)の賄賂を贈ることで同盟を締結、根来兵に対し入山田四か村への濫妨狼藉(掠奪暴行)禁止の下知状を発行してもらい、難を逃れている。

常に村が戦争の被害者となる訳ではない。合戦は村同士でも起きる。境界や水利権、共同地としての山の支配権などを巡って村同士の交渉が決裂すると、村でも武力衝突となる。そのような村同士の衝突が起きたときの手打ちとして、あるいは戦国大名などから罰として刑死者を出すよう命じられたとき、犠牲者となるのは、乞食など身分の低い人々であったという。これは以前『生贄(スケープゴート)の構造』という記事でも紹介したが、中世の村ではいざというときに村人の身代りとなって死ぬことが決められた主に乞食や流れ者などのマージナルな人々を村で養っていた。彼らは必要とあらばスケープゴートとして死ななければならない。その代わり彼の子供などは名字が与えられたり、村人として迎えられたりする。他、戦死者の遺児を養育したり、遺族が負う課役を肩代わりするなど、補償体制が様々に整備されていた。

子どもたちは戦争奴隷の多くを占めていたが、運よく奴隷となっていなければ、村では別の役割を担ってもいた。人質である。当時の習いとして、戦国大名は占領した村から人質を多く取った。その人質として送られたのが子どもたちであった。『豊臣軍が奥羽を制圧したとき、出羽の仙北(秋田県横手地方)で四十三人の「証人」(人質)を取った』が、『人質全体の七二パーセントが子どもたちで、大人も女性と老人ばかりで、成人男性は一人もいない』(藤木「戦う村の民俗を行く」P9)という。他にも多数子どもの人質の例は多いが、その多くは交替も認められていた。人質の子どもが成人したら代わりの子どもを送っている例が多く見られている。

村人たちは危機に対して一致団結して事に当たるが、その一方ですぐに村から逃亡していた。領主による増税や借米などの負債、課役など負担に耐えかねた百姓は特に春の耕作期に村を飛び出して離散する。村からの年貢や百姓らが負う労役・軍役は戦時下の諸国にとってはまさに国力の基礎であるから、百姓の離散問題は非常に重要な問題としてのしかかる。百姓の側もそれを心得ていて、領主との年貢を巡る交渉の過程で逃亡を選ぶことが多々あった。百姓に逃げられるようでは領主失格で、戦国大名から責任を問われることになるので村と領主との交渉は毎年非常に重要なイベントであった。

歴史上有名な事例として天文十九年(1550)の北条氏康による「公事赦免令(国中諸郡、退転につき、この四月、諸郷の公事(雑公租)を赦免する件)」がある。これは当時関東で百姓の退転(逃亡)が相次いでおり、対応策として帰村したら借金は赦免すること、領主が百姓の迷惑になる課役をかけた場合には御庭(大名法廷)への直訴を認めること、様々な税を整理して六パーセント基準に統一すること、などを定めたもので後北条氏の権力基盤を整えた『戦国大名としての後北条氏の権力の成立を画する重要法令と位置づけられ』(P24)ている。

これは中間搾取を排除して土着の領主権を弱体化させる一方で村々と大名権力とを直接的に結び付けることとなるもので、同時期の欧州でも見られていたような旧貴族・騎士階級の没落と新興富裕層の台頭の間で王権が相対的に強化されることで登場した絶対王政に似ており、専制的戦国大名体制の確立に繋がる。後北条氏を始め様々な大名が近い政策を実行した。分国法を定め、楽市楽座などに代表されるような重商主義政策で国力を養い、農業共同体・戦闘集団としての百姓たちに支えられた体制の確立に尽力する。天下一統まであと数歩だ。

中世の村は長老衆が率い、軍事を担う青年・壮年層が強い影響力を行使する合議体制が中心であったが、戦国時代後半になると村々でも商業と大名や領主との交渉を独占する名主層が台頭、少数の名主とそれに従う多くの下人・下女という格差構造が成立するようになっていく。土着の領主と新興の名主層の対立の中で名主層と直接つながった戦国大名が権力を強めていくことになるが、その過程で行われたのが大名検地であった。課税を巡る両者の対立が訴訟として戦国大名に上げられ、その見分のために検地が実行、大名と名主とは新たな被官関係を結ぶことで、旧領主層が沈没していく。この村の格差構造がフラットになっていくのは、以前『歴史人口学から見た江戸時代農村の結婚について』で書いた通り十七世紀、江戸時代のことだ。

というわけで、一連の戦国時代の村々の様子を知れば、「下剋上」を体現していたのはまさに戦国時代の村の人々であったことがわかる。参考にした書籍はいずれも面白いのでおすすめです。

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