「刀狩り―武器を封印した民衆」藤木 久志 著

豊臣秀吉の刀狩令、明治政府の廃刀令、第二次大戦後の占領軍による武装解除の三つの「刀狩り」を通して民衆が武器を封印していく過程を描き出す、日本中世民衆史の大家による「刀狩り」概論。とはいえ、論考のほとんどは秀吉の刀狩令と江戸時代の民衆の武装が中心となっている。

この本では、従来の刀狩り観として根強い『刀狩りいらい庶民の武装は禁止され、廃刀令で武士の帯刀も禁止され、ここに国民の非武装が定着した』(藤木「刀狩り」P12(平凡社版「廃刀令」一九八五年の引用))という「刀狩りで武装解除された庶民」という通念は様々な史料をもとに丁寧に否定される。

豊臣秀吉の天正十六年(1588)七月の刀狩令は確かに第一条で「刀・脇差・弓・鑓(やり)・鉄砲、そのほか武具のたぐい」全般の所持を禁止しているが、実際の施行の段階では徴収されたのは刀と脇差が中心でその他の武器は大して集められていない。また、徴収された刀と脇差のうち秀吉の元に送られたのも一部で、多くは各村の管理下に置かれるか、再度百姓たちに返されている。また鉄砲などは農具としての使用に限って認められている。秀吉の刀狩りの狙いは、刀・脇差の所持ではなく帯刀を禁じることでの帯刀の有無を表象とした身分統制、すなわち『武士に奉公する者と、奉公しない百姓、戦う奉公人(兵)と戦わない百姓(農)の差別化』(P106)であった。

『秀吉の刀狩りは、村に多くの武器があることを認めながら、村と百姓が武装権(帯刀と人を殺す権利)の行使に封印することを求めた。帯刀(携帯)権を原則として武士だけに限り、百姓・町人には脇差の携帯だけを認めた。刀を除く武器も、その使用は凍結された。しかし、村と百姓が完全に武装解除されたわけでも、文字通り素肌・丸腰にされたわけでもなかった。
さらに、村に多くの武器があることを前提に、その行使を凍結する喧嘩禁止令が発動されていた。百姓は手元にある武器の使用を抑制し凍結しよう、そう社会に提案する法であった。百姓も脇差は指しつづけたし、農具としての鉄砲は、時代とともに、むしろ大きく増加していった。』(P228)

江戸時代に入っても十七世紀を通じて百姓も町人も帯刀しており、十七世紀後半の史料でも江戸市中の事件300件のうち250件(83%)が刃物を使った殺傷事件で、うち240件が町人・百姓によるものだった。彼らの帯刀禁止が出されるのは十七世紀後半のことだ。寛文八年(1668)三月に御用町人を除く一般町人の帯刀禁止令が出され、天和三年(1683)に全町人に拡大、元禄十五年(1702)四月に包括的な町人・百姓帯刀禁止令が出され、神事などいくつかの例外の場合を除いて帯刀が禁止される。しかし、これもあくまで帯刀(携帯)の禁止であって所有の禁止ではない。

鉄砲については、その規制が本格化するのは寛文二年(1662)で、関東で猟師鉄砲として登録された物を除いて所持が禁止され、全て没収、ならびに農業時の獣害対策として威嚇射撃(威し鉄砲)も空砲で行うこととされる(関東令)が、威し鉄砲空砲化は厳格過ぎたとして元禄二年(1692)に撤回されている。貞享四年(1687)、生類憐みの令との連動で全国鉄砲改めが出され、関東令の全国拡大が行われ、隠し鉄砲の摘発と登録、村ごとの鉄砲所持数規制が進められる。しかし、害獣対策として鉄砲は必需品で享保十四年(1729)、村ごとの鉄砲所持数量規制は撤廃され、許可あれば鉄砲使用は害獣対策用途に限って自由化された。

興味深いのは、いつからかは不明だが十七世紀から十八世紀末にかけて『百姓と領主たちのあいだには、いつしか鉄砲不使用の原則が生まれていた』(P173)ということだった。百姓が一揆をおこしても、一揆側が鉄砲を使用しない限り、大名・幕府側も発砲しないというもので、一揆への発砲は原則禁止、どうしても必要な場合のみ幕府の許可の上で発砲という慣習が生まれていたとされる。

この原則が崩れるのは度重なる飢饉と社会不安によって一揆が苛烈さを増す十八世紀後半で、安永二年(1773)飛騨高山の一揆で群上藩兵が一揆勢に発砲、死傷者が多数出て大問題となり、以後、十九世紀に入るころにはなし崩し的に鉄砲が使用されるようになり、やがて世直し一揆など社会不安が積み重なって幕府は自力救済として各村に武装農兵組織を編成、しかし農村の武装集団化がさらなる治安の悪化を招き動乱の時代へと突入していった。

明治の廃刀令(明治九年(1876))も武器の所持禁止として始まったが、実際の施行段階では帯刀権を庶民だけでなく武士からも奪い軍人・警察・官僚に限るという新たな身分表象として展開したもので、刀狩りと同じく武装解除ではなく携帯禁止がその趣旨で、日本人が武装解除したのは秀吉の刀狩りから三百五十年あまり経た第二次大戦後の米占領軍による一連の武装停止令であった、というのが同書で描かれた大きな流れだ。

藤木は、第二次大戦後現在まで日本人が武器の所持や携行の国家権力による禁止を受け入れているのは、武器不使用を合意する『一般市民のコンセンサス』(P235)に求めているが、確かに社会としての武器に対する観念は大きな要因ではあると思うが、それに全てを帰するのは分析としては充分ではないとは思う。近現代以降の記述についてはアウトライン的な記述に留まっているので、もうすこし法制史や当時の政治情勢等々複数の観点からの分析が必要だろう。

私見として、著者が江戸時代に鉄砲をはじめとする武器が獣害対策で認められていた点を記述しているが、これを敷衍して考えて、1)前近代において生活必需品であった銃や刀剣が、近現代に農業・狩猟・山林業等々において不要となるような技術革新、2)現代日本社会というのは第一次産業の衰退・従事者の大幅な減少を一つの特徴としているように、産業構造の変化に伴って国民の大多数が日常生活で武器に転用出来る刀剣や鉄砲を使わなくても良くなったこと、3)村落ごとに狩猟等によって賄っていた食肉類の大多数が狩猟ではなく牧畜や輸入によって賄えるようになったことなど、近代以前の社会からの大幅な転換の方が要因として大きいのではないかと思う。(他にも要因があるかもしれないが)そのような現代社会の大幅な変化の直前段階で抜本的な武装解除がなされたことによって始めて成立した「一般市民のコンセンサス」ではないだろうか。

まぁ、ifの話として、第二次大戦後の武装解除が無ければ、たとえ日常生活で武器所持の必要性が低下したとしても、日本にも米国のような銃使用・刀剣所持の武器文化が形作られていたかもしれない。必要性の低下が所持のエクスキューズとしての「文化」という概念を生み出し、その文化の正統性を主張する過程でより強化されていく、というのは米国を見れば明らかでもあるし。

ということで、秀吉の刀狩りから江戸時代の武器を巡る社会状況については丁寧に論証を積み重ねた非常におすすめの概説書という趣き、近現代の武装解除の分析としては包括的とは言えず、問題提起に留まっている、という評価が妥当かなと思う。何にしても様々な発見があるとても面白い一冊。このあたりの歴史を前提として新たに日本武装解除史みたいなのをどなたか専門家の方が書いてくれないかなと淡い期待を抱いてみる。

最後に日本社会の武器所有の現状ですが『一九九九年(平成十一)年度末の段階で、刀はじつに二三一万二〇〇〇点ほど、銃砲も六万八〇〇〇挺ほど、総計では二三八万点ほどにのぼっていた』(P222)とのことで、多くは美術品と業務用の狩猟・趣味としてのハンティング目的の所持だろうが、非合法の所持も含めて少なくない数の武器が存在しているという。

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