何故、中世の司法制度は「自白」に頼っていたのか?

『教会は、証拠物件よりも自白のほうを好み、このほうが上だと考えた。被告がもし頑強に否認しつづけるなら、審問官たちはさまざまな強制手段を用いることができた。未決拘留などもそのひとつである。制裁にはいくつかの段階があり、裁判官は適当と思われる様式を選ぶことができた。被告は鎖につながれることもあった。長期の断食を課されることもあり、睡眠を奪われることもある。このような懲治の措置はときに数年間もつづき、いくつかの監獄は――たとえばカルカソンヌの独房のごとき――その厳しさゆえに悪名高いものがあった。ベルナール・ギーはこの種の懲戒法を称賛し、分量を間違えず上手に用いるなら、「心を開かせる」ものだ、「苦痛は理解のもと」だといっている。』(ギー・テスタス、ジャン・テスタス「異端審問」(1966年著、邦訳1974年)P45)

ベルナール・ギー(1261~1331)は中世を代表するフランス出身の異端審問官で異端審問の手引書「異端審問の実務」を著して異端審問制度の理論的枠組みを作った人物である。彼自身は拷問には否定的であったが、異端者とされる被告の自白を引き出すためには手段を選ばず執拗な取り調べを行った。『あなたは解放されたいがために誓約するかもしれないが、覚えておくがよい。一回の誓約では、あるいは二回、さらに百回でも私を決して満足させない、と。私が求めるだけの誓いが必要である。』(小田内隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」P304)と語っている。彼だけではない。中世の司法において「自白」は何より重視されるものだった。では、何故中世欧州の司法において「自白」は重視されていたのか。

キリスト教において重要視されている信仰儀礼に、罪を告白し赦しを求める行為を示す「告解」がある。古くからある信仰儀礼だが、これが全信徒に義務化されたのは1215年の「第四ラテラノ公会議」においてであった。第四ラテラノ公会議は同時に聖体拝領の義務化、ローマ教皇の首位権の確認、異端の排斥や十字軍の編成などを取り決めた公会議で、当時大きく揺らぎ始めた教会の権威を引き締め、全信徒に対し告解を通じて自発的に教会の権威に服従することが求められた。

『いうまでもなく、教会の悔悛の秘蹟では信徒は「自発的に」告白することを求められた。一見したところ逆説的であるが、異端審問における告白は監禁や拷問の使用が許される強制的な性格が露骨であるにもかかわらず、最終的にはその真理性は告白の自発性によって保障されると考えられた。密室で余儀なくされた告白は、そのあとに被告によって「自分の」ものとして認められなければならない。』(小田内隆「異端者たちの中世ヨーロッパ」P302-303)

異端者たる容疑者は密室の取調べにおいて、「完全なる真理」である自身の邪悪さと罪を「自発的に」告白し、公開の法廷においてその「自白」を認める。自発的な告白は内心からの権威への服従を示すから、彼が自白に基づいた真理に応じた罰を受けることによって秩序は維持されることになる。十三世紀から十四世紀にかけてこのような秩序維持儀礼としての異端審問制度が確立していった。異端審問制度は教会の異端審問官たちが裁判を行い、国王や領主など世俗の政治権力が刑罰を実行するというシステムであり、宗教と政治二つの権力への服従を求める制度であった。

浜本隆志著「拷問と処刑の西洋史」によると、異端審問などを通して確立した聖俗一体の権力を誇示する装置としての公開処刑や拷問などに基づく統治システムは、秩序回復機能、犯罪抑止機能、異端者を共通の敵とすることでの権力・市民の連帯機能、信仰強化機能の四つがあったとされる。

『この機能によって、犯罪者は抹殺され、名誉を失って社会から排除される反面、社会の損なわれた秩序が回復し、治安が維持され、結果的に政治的・宗教的体制が強化された。したがって公開処刑は、カタルシス(社会浄化)の役割をはたしており、定期的に行われねばならなかった。』(浜本隆志著「拷問と処刑の西洋史」P224)

異端審問の「自白」重視と拷問容認の手法はすぐに世俗の裁判にも適用され十四世紀から十五世紀にかけて一般化していく。法制史的にはカトリック教会が公会議や勅令などを通じて教会に関する法を整備していくことで登場する「カノン法」の成立過程にあたる。カノン法の展開によって司法の場における監禁・拷問と自白は理論的裏付けを与えられ、当時の社会通念としてごくごく当たり前のものとなっていった。

カノン法の確立と同時に中世は「ローマ法継受」というもう一つの流れが存在している。封建制国家から身分制国家へと移行していく過程で司法・行政権限は強化され、恒常的な司法システムの必要性が生じる。その改革をローマ法を学んだ法曹が主導し、主に神聖ローマ帝国を中心に刑事司法改革が始まる。ローマ法継受の過程で登場したのが「糺問訴訟」制度であった。

「糺問訴訟」は公の起訴官庁を設置した上で『一定の間接的証拠(懲憑)が存在する場合に被疑者を職権により拘束し、訴えを提起した上で証拠調べを行い、それに基づいて審理を進める』(勝田有恒他編著「西洋法制史」P189)制度で、風聞によって捕えられていた当時の状況からは大きな前進であった。十五世紀後半からドイツの一部の領邦・都市に採用されるようになり、1532年には神聖ローマ帝国皇帝カール五世による「カロリーナ刑事法典」に入れられドイツ全土に拡大された。この制度は三つの原則からなる。(勝田有恒他編著「西洋法制史」P189-190)

1) 職権主義原則・・・ある違法行為についての訴えによって開始されるのではなく、権限をもつ機関が、非行の疑いを抱いた際に職権により開始される、という原則
2) 捜査原則・・・当局が「真実を明らかにするために」ある非行に関してあらゆる状況について知識を得なければならない、という原則
3) 実体的真実原則・・・復讐や賠償によって事態の収拾を図るのではなく、あくまで被疑者の有責性を発見することを重視する原則

これらは現代の刑事手続きの根幹原則として機能している(特に捜査原則は、法制度上は日本の捜査手続きを支配している原則である)が、様々な問題がすぐに露呈していった。

第一に、捜査機関や裁判所に大きな裁量の余地を与えていたこと、運用する担当者たちが法学的素養を欠いていたことなどから、『実際の制度運用は濫用に支配され、しばしば恣意的かつ不安定なものになる傾向を有していた』(勝田有恒他編著「西洋法制史」P189)。

第二に、形式的には三原則が謳われながらも、その運用においては担当者の法学的素養の欠如などから「間接的証拠(懲憑)」の軽重の判断が出来ず、証拠重視なはずの手続きが形骸化して直接的証拠としての「自白」に頼ることとなり、結果として自白を得るための拷問が変わらず横行した。

形骸化する各裁判所・捜査機関に対し、法曹専門家からなる帝室裁判所が牽制することで、制度上の破綻はなんとか防がれたが、拷問は引き続き合法であり、十六世紀末から十七世紀にかけて欧州全土で魔女裁判が拡大、ドイツも監禁・拷問と自白との組み合わせによって恣意的な捜査・裁判が行われ、多くの人々が魔女として刑罰を受けた。

「自白」重視の司法制度から「証拠」重視の司法制度への転換は十八世紀半ばの啓蒙主義の台頭を待たねばならない。

モンテスキューは「法の精神」(1748年)を著し『恐怖をかきたてる苛酷な刑罰は、専制政にのみ適合的であり、どの合法的政体にも相応しくない』(勝田有恒他編著「西洋法制史」P258)ことを論じて「罪刑均衡の原則」を打ち立て、ジェレミー・ベンタムは監獄改革と法典編纂の必要性を唱え、ヴォルテールは死刑・苦痛刑から自由刑への転換を主張する。特に社会契約論を踏まえた啓蒙主義思想を総合し近現代の刑事司法の根幹思想となる大著がチェザーレ・ベッカリーアの「犯罪と刑罰」(1746年)である。

『自白は証拠にならない。なぜなら自白を証拠とするところから、強制、拷問が必要な取調べ手続きともなり、むじつの者を有罪と認定する誤判が生まれるからである。』(ベッカリーア「犯罪と刑罰」解説P210)

『自白、証人の証言等の供述証拠は不たしかなものであり、信ぴょう力の弱いものである。なぜなら、証人は利害関係により、被告人は強制や拷問によってウソの供述をすることがあるうえ、供述者による記憶の再生は不確実であり、またちょっとした表現の差でまったく反たいの意味をあらわしてしまうこともある不正確なものだから』(ベッカリーア「犯罪と刑罰」解説P210)

『裁判は公然でなければならない。犯罪の証拠もまた公然のものでなければならない。そうすれば、社会をつなぐ唯一のきずなである世論が裁判に関与する者達の暴力と欲望を封じるクツワとなるだろう。そして民衆は言うだろう。「われわれは断じてドレイではない。われわれは法律に保護されている」。こうした安心の感情は人々に勇気をふきこむ。そして民衆の勇気は、真の利益に耳をかたむけようという君主にとっては、みつぎ物にひとしい価値をもつものである。
こうした制度をうちたてるために必要な注意の詳細にこれ以上深入りすることはやめよう。なにもかも言わなければならないような連中に対しては、なにをいってもむだだろうから。』(ベッカリーア「犯罪と刑罰」P45)

このような啓蒙思想的刑事司法観を前提として次々と法が整備され、法制度上「自白」は証拠能力を失い、「拷問」や「監禁」は非合法化され、司法制度の恣意的運用を防ぐため三権分立が確立していった。勿論実運用段階では多くの問題や形骸化の危機と常に戦い続ける必要があったが、すくなくとも中世との違いはそれらが非合法化され、また解決すべき課題としての共通認識が芽生えたという点にある。

このような歴史的経緯ゆえに、自白に頼る捜査・裁判手続は中世的なのである。

蛇足として「犯罪と刑罰」からいくつか引用しておこう。

『訴追をうけ、勾留されたのちにおいて無罪となった者はいささかも汚名をきせられるべきではない。ローマでは、重罪の被告となった者でも、むじつと認められたのちには、ふたたび民衆の尊敬を得、共和国の最高官である司法官の地位につくことさえできた例が無数にあるではないか!不正に勾留をうけたむじつの者の運命が、われわれの時代ではどうしてこうちがうのだろう?
それは現在の刑事制度が、われわれの精神に、正義の観念より、むしろ力と権力の観念をうかべさせるからだ。被告人と服役者を同じ監房の中に入れるからだ。勾留はわれわれにとって被告人の身柄を確保しておく手段ではなく、苦役になっていると思われるからだ。また、内にあって法律をささえる力と、外に対して国家と王座を守る力とが、密接に結びついて統一のとれたものとなっていなければならないはずであるのに、それが別なものになってしまっているからだ。』(ベッカリーア「犯罪と刑罰」P40)

『拘禁は、訴追をうけたある市民が有罪かどうかの判決を受けるまでの間、その身柄を確保しておくための手段にすぎないのであって、ほんらい、なさけない、ざんこくな手法なのだから、その期間はできるだけ短く、またできるだけそのきびしさを緩和してやるようにつとめなければならない。逮捕された市民は、審理の手続きに必要な期間以上留置されるべきではない。また先に逮捕された者から裁判に廻すべきだ。
拘禁中の被告人の身柄の拘束は、彼が逃亡し、証拠を隠滅することをさまたげるのに必要な程度をこえてはならない。審理そのものがまた、遅滞なくこぼれ最小の期間内に終わらなければならない。むとんちゃくにのんびりとかまえている裁判官と苦しみもだえている被告――なんとおそろしい対照だろう。』(ベッカリーア「犯罪と刑罰」P109~110)

参考書籍

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