「自白の心理学」「取調室の心理学」浜田 寿美男 著

先日のエントリ「何故、中世の司法制度は「自白」に頼っていたのか?」では西欧中世の自白重視の傾向について簡単にまとめたが、今回のエントリでは現代日本の自白を重視する司法・警察の問題点について分析した本を二冊紹介しようと思う。

「自白の心理学」は心理学者の立場から数多くの刑事事件の供述鑑定に関った著者による取調べの際の嘘の自白を生む心理とメカニズムについて様々な冤罪事件を例に出しつつまとめた本である。

著者によると、冤罪事件の多くが、本人の自白があるのだという。拷問や被疑者の精神的な弱さ、一時的な変調などによるものも一部あるが、『現実には、拷問もなく、被疑者当人に知的な問題もなく、さらには一時的にせよ精神的な変調をきたした形跡もないのに自白して、のちにそれが虚偽だったと判明する事例のほうが、はるかに一般的』(「自白の心理学」P21)である。すなわち、取り調べの過程で彼らは、身に覚えのないはずの犯罪について、認めれば刑罰を受けることをわかっていながら、それでも自身が行ったという嘘の自白を行っているのだ。

うその自白へと至る過程には、
1) 真犯人が自身にとって大事な人であることを知っていて真犯人を守りたい思いから名乗り出る、あるいは社会を騒がせている事件で無関係な人物が自己顕示欲などから名乗り出るといった「身代り自白
2) 事件前後のことを問い詰められて思い出せないままに自分がやったのかもしれないと思い込む「自己同化型の自白
3) 取調べの辛さに耐えきれず、その場から逃れたい一心で相手の言うままに認める「迎合型の自白
の三つのタイプがあり、特に最後の「迎合型の自白」がもっとも一般的であるとされている。

この「うその自白」へと陥るメカニズムの前提として取調べの場が日常から遮断された非日常的な場であり、かつ、被疑者を有罪方向へと強く引きつける圧力の場であるという点がある。外界との関係を断ちきられ、心理的にも物理的(身体検査など)にも丸裸にされて、食事や排便に至るまでの一挙手一投足を監視され、取調官に罪を非難され、自白を迫られる。黙秘権があるが、無実の人はむしろ黙秘より自身が無実であることを分かってもらおうと弁解する傾向が強い。しかし、疑ってかかってくる取調官に対して無実の証明は余程確固とした証拠やアリバイが無い限り至難の業だ。否認したとしても無実と分かってもらえる可能性は少なく、終わりの見えない取調べに疲弊していく。

取調べの場において、生殺与奪の権限は被疑者自身にはなく、取調官が握っている。取調官は通常二人で、一人は厳しく迫り、もう一人が優しくフォローをするという役割分担で、責めるだけでなく支え、アドバイスをしてくれるので、そのアメとムチで被疑者は次第にその場の関係性に迎合していくようになる。また、第三者からすると、普通は嘘の自白をすることで受けることになる刑罰を想定して自白はありえないと考えるものだが、無実の人の傾向として予期される刑罰への現実感の喪失がある。自身がやっていない犯罪が、実際の刑罰に繋がるという現実感はなかなか持てないもので、自白したら場合によっては死刑もありえるような刑罰を受けることに思いを至らせることは実は無実であればあるほど困難である。その結果、取調べの苦しさから逃れるために、自発的に取調官に迎合するかたちで、うその自白を選ぶことになる。

同書ではその「うその自白」のメカニズムを、1974年に逮捕され1999年に無罪となった冤罪事件「甲山事件」を例にして解説し、うその自白を行った後の自白内容のもっともらしい犯行ストーリーの創作の展開過程について、1957年逮捕・1972年無罪の「仁保事件」から、さらに冤罪の疑いが非常に濃厚ながら1966年逮捕以来現在も服役している「袴田事件」(「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス認定され、その待遇は拷問禁止条約違反の疑いが濃厚であるという)から冤罪事件の供述調書の分析が行われており、非常に興味深い内容である。そこには被疑者が全く知らないはずの事件の調書が、動機から犯行過程に至るまで被疑者の嘘の証言に基づいて詳細に、物証で補強されて作り上げられていく過程が描かれており、戦慄の内容だ。

『こいつが犯人にちがいないとの断固たる確信のもとに、取調べが進行するとき、そこには被疑者を強く有罪方向へと引き寄せる磁場が渦巻いている。それに逆らうことがどれほど困難なことか。そこでは弱い人だけが落ちるのではない。うその自白をとるのに直接的な拷問はいらない。その磁場のもとにひたすら長くとどめるだけで、まずたいていの人は自白に落ちる。それこそが、むしろ心理学的に自然な人間の姿だといったほうがよい。誰もがそうした弱さを抱えているのである。』(「自白の心理学」P105)

同じ著者の「取調室の心理学」は「自白の心理学」でも描かれた特にブラックボックス化した取調室で何が起こっているのかを、供述分析から読み解く本で、「自白の心理学」では取り上げられていない「広島港フェリー甲板長殺し事件」「帝銀事件」「野田事件」などの事件を中心に描かれており、合わせて読むことをおすすめしたい本だが、同書にも取調室でのうその自白へと至る構図についてこう書かれている。

『確たる証拠にもとづかない疑いからはじまって、この疑いが、犯罪への憎しみ、犯人を逃がすことへの恐れや不安、そして職務への熱意や組織としての面子を栄養にしてふくらみ、やがて確信にまでいたってしまう。かくして証拠なき確信が取調室のなかで強力な磁場として渦巻くようになると、そこから嘘の自白が引き出され、歪んだ供述が生み出され、ときにはまがい物の証拠が作り出される』(「取調室の心理学」P203-204)

著者はブラックボックス化している取調べの可視化を必要不可欠なものとして提言している。『取調べにおけることばのやりとりを、録音テープに記録して、あとでチェックできるようにするだけで、冤罪の過半は解消する。そう断言してよい。』(「自白の心理学」P200)しかし、これには警察は消極的であるため、それを待っているわけにもいかない。そこで著者が進めているのが供述分析で、密室で生まれた自白の嘘を心理学的鑑定によって見抜いて論理的に突き崩していくということを長年行っているようだ。しかし、まだ発展途上の手法であり精度の問題もあって裁判の過程で証拠として認められるのは多くないらしい。

また、非常に重要な指摘だと思うのだが、著者は鑑識部門を捜査部門から分離させて第三者機関化することも提言している。冤罪事件の多くで『捜査が鑑識と一体になり、科学鑑定がことばによる物語のなかに巻きこまれ』(「自白の心理学」P197)、『望むべき結論を念頭においたご都合主義の鑑定が出てくる危険性』(「自白の心理学」P197)という問題がある。

さらに、ブラックボックス化しているのは捜査だけではない。『取調室の内部がブラックボックスに閉じられた謎であるのと同様、裁判官の事実認定にいたる「心証形成」過程』(「取調室の心理学」P175)もブラックボックス化しているという指摘もまた重要だろう。日本の司法には恣意的な行為を可能とするブラックボックスが至る所に存在していることが、非常によくわかる。しかもその恣意的な行為は著者が書いているように警察官の犯罪を憎む心、正義感から生み出されているのだ。

この本の指摘が重要なのは、このことは冤罪問題に留まらず、司法、ひいては社会全体の根幹を揺るがす大問題であるという点にあると思う。自白を重視する捜査によってうその自白が作り出され、しかもそれは誰もが陥る可能性がある。その嘘を見破るチェック機能は有効に機能せず、自白を元に有罪が確定し、しかも最高刑は死刑である。法治国家でありながら、法は適切に機能せず、しかも恣意的な運用によって無実の人が死に到る可能性が少なくなく、その問題が修復されることなく放置されている。法の信頼性は毀損され続けている。恣意的な裁判、恣意的な捜査の可能性を排除して初めて適切な刑罰の運用が可能となり、適切な刑罰の運用によってこそ、社会秩序が成り立つ。ならば、我々が拠って立つ「平和」で「安全」な社会は実は非常に危ういバランスの上に立っている、といえると思う。

この本が指摘する「虚偽自白と冤罪問題」とその解決策としての「取調べ可視化」「鑑識部門の独立化」、また恣意的捜査の問題と並ぶ「裁判官の事実認定にいたる心証形成過程のブラックボックス問題」などと共に、重要なのが「無罪の推定(推定無罪)」だろう。裁判所が有罪判決を下すまでは無罪として扱う、というのは法治国家の常識だが、日本社会の現実はその逆と言って良い。社会として「無罪の推定」をいかに根付かせるかもまた大きな課題だ。

これまで見たように「うその自白」は社会と隔絶した取調室で起こる。それは孤立した環境に置かれることが大きく作用するが、逮捕された時、推定無罪ならぬ推定有罪の世論が形成されて自身への批難で社会が覆われているとき、被疑者をより追い詰め、「うその自白」を促す強い要因になるのではないか。取調官は様々な手法で被疑者を落とすことに尽力することが同書では描かれている。甲山事件で被疑者のYさんは取調官に、あなたのお父さんも疑っていると言われ、『信じている者は、もうこの世には誰もいないのですよ』(「自白の心理学」P82)と取調官に言われたことで、自白に転じている。

取調べから恣意性が排除されない現状に置いては、有罪判決が下る以前の段階で、被疑者を有罪として扱い、批難することは、被疑者を社会から孤立させ、うその自白をさせる要因として働く可能性がある、と思う。「取調室の心理学」で紹介されている少女殺害事件「野田事件」では重度の知的障害がある被疑者Aさんが精神鑑定に回された際、地元では鑑定次第でAさんが戻るかもしれないとの噂から、Aさんを地域に帰すなという署名活動が起こり『その集落の一人を除いてすべてがこの署名に参加した』(「取調室の心理学」P165)。その後Aさんは弁護人に拘置所にずっと居たいという趣旨のことを語っている。

警察庁では世論を鑑みて取調べの録音・録画の試行を行っており、その報告書も公開されている。平成二十三年六月発表の「警察における取調べの録音・録画の試行の検証について」(pdf)によると、対象期間中の717件について録音が行われ『実施時間の長さの平均は、14.9分』であったという。『「大きな効果がある」と回答した者が264人(36.8%)、「ある程度の効果はある」と回答した者が432人(60.3%)、証拠価値は乏しいと回答した者が21人(2.9%)』であったとのことだが、取調べの全過程を録音・録画することについては『「そうするべきである」と回答した者が7人(1.0%)、「そうするべきでない」と回答した者が652人(90.9%)、「どちらでもよい」と回答した者が28人(3.9%)、「分からない」と回答した者が30人(4.2%)であった』と、現場の警察官の九割以上が反対しているという。詳細はpdfを参照のこと。

取調べの全過程を録音・録画することについての意見

『「そうするべきではない」と回答した者が挙げた主な理由は、①「被疑者との信頼関係の構築に支障を生じる」、②「被疑者の心理に影響を与えるなど、真実の供述が得られなくなる」、③「取調べ官に相当の負担を強いるなど、捜査に悪影響を及ぼす」及び④「その他」に分類された。』(「警察における取調べの録音・録画の試行の検証について」P15)

紹介した二冊で描かれているのは、まさに、その『被疑者との信頼関係の構築』の過程にこそ数々の冤罪事件で見られる虚偽自白が生みだされる構造があり、非公開であることによって『被疑者の心理に影響を与えるなど、真実の供述が得られなくなる』可能性があることが明らかにされているのだが、この報告書は被疑者と警察関係者との溝は果てしなく深いことを浮き彫りにしている。

不思議なのは、なぜ現代の日本ではこれほどまでに密室での自白を重視しているのか、である。歴史的には西欧の近代法形成の過程で人権意識誕生を背景として司法の場での自白への依存は否定されてきた。日本も近代化の過程でそのような近代法を継受してきたもので、明治期は確かにその継受も不完全であったが戦後は、日本国憲法施行とそれに伴う基本的人権の尊重を前提とした法整備が行われたはずだ。にもかかわらず、社会の根幹たる法の機能不全の可能性を内包させた、社会秩序を支える要因たる「法への信頼」を一気に崩しかねない危険な仕組みを何故残しているのか?日本の司法・警察の法制史を少し調べてみたいと思う。

同じ著者による虚偽自白を生む構造の心理的分析の研究論文とのこと。本格的に学びたい人向けのようなので、今度機会があれば読んでみたいと思っている。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク