江戸時代の捨子たち~歴史・社会背景・捨子観の変化・幕府の政策など

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1)古代・中世の捨子

捨子の歴史は古い。人類史においていつ捨子が始まったのか定かではないが、各地の神話や伝承にも捨子のエピソードが語られることから、おそらく有史以来、嬰児遺棄の習俗は行われていたと考えられている。エジプト王はイスラエル人に男子が産まれたらそれを川に捨てるよう命じていたと旧約聖書はいい、ローマの建国者ロムルスとレムスは生まれてすぐに母に捨てられたとプルタルコスは語る。日本の国生み神話も産まれた子ヒルコを捨てることから始まる。

日本では古代から中世にかけて子を捨てることに対して罪悪感は薄かった、と考えられている。特に障害児は前世の因縁を理由として「鬼子」と呼ばれ捨てられることが多かった。一方で障害児は「福子」として家に福をもたらすとして大事に育てられたという習俗もあり、穢と聖の二面性を持つ存在であった。他、双子の片方も捨てられることが多かったという。また、困窮を理由とした捨子――これが殆どであったと思われるが――は、勿論親としての苦悩はあったにしても罪とは考えられていなかった。中世、説話などで自身が生き残るために子を捨てる女性を称賛する話が見られる。

『古代・中世は、事情があれば捨子もやむを得ないものとして、あまり詮索されることもなかったが、それは同時にその子が犬に食われようが、盗賊に八つ裂きにされようが、子そのものの運命にはさほどの同情も集まらないという事実の側面でもあった。なぜならそれはその子や親の前世の因縁であり、人知の及ばぬ宿命であると考えられていたからである。』(立浪P431)

近世に入っても、捨子に対する運命論的な観念が主流であった。松尾芭蕉が貞享元年(1684)八月から翌年四月にかけて江戸から伊賀上野へと旅をし、富士川のほとりで泣いている捨子を目にして詠んだ句がある。芭蕉は泣き叫ぶ捨子を憐れに思いつつも橋から食べ物を投げ落とし『いかにぞや汝、父に憎まれたるか、母に疎まれたるか、父は汝を憎むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け』という現代人にしてみれば酷薄に見える言葉を残して「猿を聞く人捨子の秋の風いかに」と詠むだけで見捨てて立ち去った。芭蕉が特別酷薄だったのではなく、当時は捨子が泣き叫んでいるのはごくごく日常的な風景であった。

2)一七世紀の人口増大と家族構造の変化

芭蕉が捨子を見捨てた十七世紀末は嬰児遺棄が急増、捨子が顕在化して社会問題となっていた時期でもある。その背景として十七世紀の人口増加と家族構造の変化がある。

十七世紀、日本は爆発的な人口増加を見せた。1600年時点での日本列島の人口は1,200万人~1,500万人(推定)であったが、日本初の全国的な人口調査となった享保六年(1721)の子午改めの数値26,065,400人に調査から除外された武士・被差別層・幼児を足した推計値は約3,128万人と一世紀あまりで二~二・六倍の伸びを見せている。

人口増加を生み出したのは内戦の終結、社会資本の整備、都市化、食糧生産の安定、医療技術の発展による死亡率の改善、市場経済の展開などがあるが、最大の要因としては大開墾時代と呼ばれた新田開発ブームを背景とした家族形態の変化である。近世以前の農業経営は多数の隷属農民を抱えた大規模家族による粗放的経営であったが、市場経済の浸透によって大規模経営をする必要が無くなり、隷属農民や傍系家族がそれぞれ世帯を持って小規模独立自営農民化していく傾向が見られた。同時期、都市でもそれまでの譜代奉公から自立して年季奉公など一定期間契約で働く働き方に移行している。平均五人程度の直系家族からなる世帯を中心に労働力を集中投下することで成立した小規模独立自営農民の登場によってこれまで未婚であった人々が結婚し子供を産み育てるようになり、持続的人口成長が起きる。

人口増加と経済成長を支える経営主体としての自営農民であったが、一方で家族構成の小規模化はそれまで親族や下人などを使って分担していた育児の負担を大きく増やすことにもなった。間引きなどによって出産抑制していたものの、福祉政策などない庶民の生活は景気動向などに左右されやすく、突然の生活水準の低下や離婚など様々な要因によって捨子という選択肢を取る親は増えていった。統計などがあるわけではないのであくまで推定だが、十七世紀末までには捨子はかなり増加していたと考えられ、村や都市の文字通り至る所に不要となった子供たちが捨てられ社会問題化していた。

3)捨子対策としての生類憐みの令

生類憐みの令」は”御犬様”のイメージばかりが先行するが、犬愛護令はあくまで諸政策の一つに過ぎず全体としては重要ではない。鉄砲管理・鷹狩禁止・犬愛護令・捨子捨牛馬禁止・酒類製造禁止・鳥獣類保護などの一連の法令からなる「生類憐みの令」の中心の政策はその社会問題化していた捨子救済にある。

貞享四年(1684)一月、「生類憐みの令」の最初の法令が出されるが、その第一条は捨子の養育を命じるものであった。元禄三年(1690)には単独の捨子禁止令が出され、捨子禁止と罰則の強化、発見時の届け出と村や捨てられた場所の管理者による養育の義務化、養育者への給付等支援などが定められ、その後も罰則強化(死刑適用)・妊婦登録義務化など矢継ぎ早に捨子関連法令が出され、幕府の最優先課題として捨子対策が次々と打たれていく。各藩でも幕法に基づいて捨子禁止令が出され、捨子取締りはやがて地域の人々の結婚・出産・誕生・就職・死亡など人の出入りを徹底的に管理する人口管理政策へと発展していくことになる。

特に生活が不安定な都市下層民が主に嬰児遺棄の当事者であったとされているが、捨子厳罰化と拾い主の養育義務化などによる一連の法令は、そもそもの嬰児遺棄の要因が多くは生活の困窮や不安定化、家族・人間関係の紐帯の弱さなど外部環境の変化にあった点でその実効性について疑問が大きく、根本的解決策には結びつかなかった。江戸時代を通じて捨子は減ることは無かったことから、都市を中心に捨子養子制度が発展する。捨子が見つかると奉行所に届け出を行うが、奉行所は町方で養育するよう命じるのみだったので、町方で養子先を探して持参金を持たせて引き取らせることで対応した。

捨子養子制度を悪用して、里親として捨子を引き取りつつ、養育費だけを受け取ってその子を殺したり、さらに里子に出したりする例も少なからず見られるようになり、その取次を行う周旋人も職業として成立するようになった。事実上の人身売買である。また、捨子の厳罰化によって、『監視の目がきびしくなると、人目につかぬところに捨てるようになり、養育者を期待しての捨子が困難になる。捨子を罪悪視する感覚は、たしかに強まったであろうが、反面で、捨子は、事実上の子殺しに近よっていく。』(塚本P225)

綱吉死後「生類憐みの令」の法令の多くが撤回される中で捨子禁令は徳川幕府の基本政策として引き継がれていった。江戸時代を通じて幕府の政策として行われた一連の捨子取締りは、確かに捨子を社会問題として捉え、また嬰児遺棄に対する罪悪感を人々の間に芽生えさせたという成果はありつつも、むしろさらなる捨子を生むことになり、さらには非人等被差別階層への弾圧にも使われて身分制強化に繋がるなど、負の側面の方が大きかった。

4)捨子観の変化

十七世紀に成立した相互監視制度である「五人組」が地域で捨子防止の責任を負っていたから、捨子が出ないように育児に際して相互扶助が行われている。五人組は全体としては確実な年貢徴収などを目的として十七世紀半ばに創設されていったものだが例えば加賀藩では十七世紀末に捨子対策を目的として創設されており、捨子や間引きが起きないような管理も五人組制度の重要な役割の一つだった。それでも共同体で育てる、他人の子を育てることには限界があり、特に飢饉など生活環境の激変によって捨子が出ることは避けられなかった。また、離婚なども頻繁であったから、女手一つで奉公しながら子供を育てることの困難さなども問題としてのしかかっていた。特に幕末になると社会に余裕が無くなって小家族の脆さが露呈し、階層間格差が拡大して村落共同体が弱体化し捨子が増加したという。

沢山美果子著「江戸の捨て子たち その肖像」に紹介されたエピソードの一つ、天保八年(1837)、天保の大飢饉の真っただ中、津山城下(岡山県津山市)の有力者の屋敷の前に棄てられていた生後一歳の女児に添えられた手紙にはこうあったという。

『世のことわさに、子を捨る藪はあれと身を捨るやふはなきと伝侍りて なさけなき浮世のために子を捨て我身を立てる親の心そ』(沢山P67)

「子を捨る藪はあれと身を捨るやふはなき」は当時の諺で「子を棄つる藪はあれど身を棄つる藪はなし」という『「困窮すれば最愛の子でも藪に捨てるけれども、自分の身を捨てることは出来ない」という、多くは貧しいために我が子を手放した親が、自分のふがいなさを責めて言う諺であり俗語であった』(P68)。この場合の棄てるとは元々は子供を奉公や養子に出すという意味だったが、この時期には文字通り捨てるという意味で流布されていたという。それに続けて『「無情な世間を渡るために、子を捨ててでも、我が身を立てざるを得ない親の心をお察しください」』(P67)と罪悪感が芽生えていることを書き記しており、近世を通じて捨子に対する観念の変化が見られている。

同じく十九世紀半ば、江戸時代後半に入ると間引きを悪とする観念も主に国学者・儒学者・仏教者などを中心に芽生えており、出産・婚姻観の大きな変化が起きていた。この変化は草の根レベルでの啓蒙活動として進んでいたが、やがて近代国家の成立の過程で国家による管理化という方向へと収斂していく。

5)近代以降の捨子と「母性」

明治になると、捨子は棄児と呼ばれるようになるが、引き続き社会問題として存在していた。沢山前掲書によると、明治期に棄児数の統計が始まり、明治二十年(1887)ごろをピークにして二十世紀初頭から下がり始め、第一次大戦後には三分の一前後にまで減少している。この理由として沢山は第一に妻の離婚請求権の制限など明治の「家」制度の確立、第二に子供中心主義の近代家族モデルの登場の二点が挙げられ、共同体での養育を否定し実の母による養育をするべきという規範が産まれたという点を指摘しているが、「東京の下層社会」などを読むと、同時期にスラム化した都市下層民の間では捨子やもらい子が日常的であったこともまた見て取れる。「近代家族モデル」を規範として受け入れたのはまず上流階級であったことから、捨子の減少にそれほどの影響があったかはよくわからない。近代の捨子に関する背景については別途論考が必要であろう。

「近代家族モデル」の基本として強い規範意識をもたらした『自己犠牲と献身を厭わない母親の愛情』(立浪P448)としての「母性」は『ヨーロッパにおいて、資本主義の発達により、生産労働から解放され、家事や育児に専念できるようになった中産階級の女性たちの登場によって初めてもたらされたものであり、「近代」の産物なのである。それが明治以降日本にも輸入され、「良妻賢母」をモットーとする戦前女子教育の現場に根を下ろしたのであった。』(立浪P448)

家族が子どもの養育に責任を持ち、母が子へ無償の愛を施すべきという新しい規範は恐らく近代家族の中で嬰児遺棄への大きな歯止めとなっただろうが、その一方、強すぎる規範がジレンマとして多くの人々を苦しめ、引き裂くことになったのもまた歴史が語る通り。子供養育の責任を共同体から母へと集中させることで成立した近代的「母性」概念に代わる「子供」保護のための普遍的な人権概念の導入は第二次大戦後のことであり、その浸透は果たして充分かどうか。

江戸時代を通して捨子という習俗を克服することは出来なかった。近代においても、道徳観の転換はあったが、捨子と、その子供たちの取引をはじめとする人身売買の横行は歯止めが効かなかった。現代においても様々な福祉政策が実行され「赤ちゃんポスト」など様々な取り組みがなされているが、それでも捨子は生まれ続けている。

参考書籍

江戸時代の捨子たちの様子を、特に岡山県の記録を中心に丁寧に描いた一冊。ただ捨子の背景史については概論だけなので同書が参考にしている書籍をいくつか当たる必要がある。

参考にした所収論文
立浪澄子『近世捨子史考――加賀藩の事例を中心に』
金津日出美『「子返し・子まびき」論と婚姻規範』

同書所収の上記二論文が江戸時代の捨子や間引きの歴史について詳しい。

十七世紀当時の捨子急増となった背景としての人口増加や家族構造の変化についてはこちらに簡潔にまとまっている。

綱吉の生類憐みの令について総合的に解きほぐした決定版といえばこれ。長く絶版だったが2013年に講談社学術文庫入り。この本についてはまた改めて。

「文明としての江戸システム」とあわせて十七世紀の江戸日本の政治・社会についての的確なまとめになっている一冊。

以前も何度か紹介した近代日本スラム街の様子について描いた一冊。より詳しくは同時代のルポルタージュなどもあわせて読む方が良いとは思う。

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