専制君主としての徳川綱吉と生類憐みの令

徳川綱吉というと「生類憐みの令」によって人々を苦しめ、牧野成貞・柳沢吉保ら側用人の専横を許した暗君というのが一般的なイメージで、そのイメージへのカウンターとして動物愛護の慈愛に満ちた明君という説と、マザーコンプレックス・動物への偏愛による異常人格者という説などいずれにしても極端な人間像が近代以降の綱吉観であった。

これらの通説に対してその政策や生い立ちから、将軍権力の強化の過程で専制君主として君臨し当時の社会情勢を踏まえた総合的な施策として「生類憐みの令」を位置づけたのが塚本学氏の「生類をめぐる政治」である。83年に出版されて、多くの研究者によって綱吉の諸政策の研究は補強され、現在ではほぼ主流となっている。2013年に講談社学術文庫から改訂再販された。ここでは塚本学著「生類をめぐる政治 元禄のフォークロア(講談社学術文庫)」同「人物叢書 徳川綱吉」を中心にいくつかの関連書から総合的な政策としての「生類憐みの令」、専制君主としての徳川綱吉像について簡単にまとめ。

「生類憐みの令」は犬愛護令のイメージが強いが「生類憐みの令」とは綱吉親政下で打ち出された包括的な政策体系のことで、犬愛護令のほか、捨子捨牛馬禁止令、病人保護令、鳥獣保護令、鉄砲統制令、鷹狩停止令、飲酒造酒統制令など複数の法令からなり、主要政策は捨子捨牛馬禁止令や鉄砲統制令であって、犬愛護令はあくまで諸政策の一つに過ぎない。

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(1)捨子捨牛馬禁止令・病人保護令

綱吉は一連の「生類憐みの令」において最初に嬰児・牛馬・病人の遺棄を禁止した。幾度も法令を発してその徹底と厳罰化を進めており、綱吉にとって何より最重要の政策であったとされている。生類とは人を含む概念で、主体としての人は『生産年齢にある男性を中心』(塚本「生類をめぐる政治」P226)としており、憐みをかけられる対象としての人は「病人・乳幼児・入牢者」などを指す。

捨子捨牛馬禁止令は子供、病人、牛、馬の遺棄を禁じているが、一括して語られる『乳幼児も牛馬も、基本的には個々の家族経営のなかで養育さるべきものになっていた点では共通点』(塚本「生類をめぐる政治」P227)があり、個別の経営体としての家に対して乳幼児や牛馬の管理責任を持たせ、困難な場合に『血縁ないし地縁集団としての一類・五人組・村に養育の責務分担を命じ、それも困難な際に支配者が「恩恵」をたれる』(塚本「生類をめぐる政治」P227)という支配体制を取った。

十七世紀の人口増加と新田開発ラッシュによって従来、馬が放牧されていた山野も耕地として開発されていくことになり、放牧地の減少によって馬飼育が高コスト化、同時に小農経営の一般化によって病牛馬など市場で買い手がつかない牛馬を養えなくなって捨馬となる場合が少なくなく、十七世紀後半までに馬の頭数は減少傾向が見られた。一方で、武士にとっても馬は必需品であったが武士も藩も馬を養うことはできず、農民からの徴発や飼育委託に頼らざるを得なかった。さらに江戸幕府は街道の整備を果たし、その輸送手段としての馬の育成を街道各村に求めた。馬の減少、各農家での馬の育成困難化に対して馬の需要は高まる一方となり、その継続的な育成と管理のための捨牛馬禁止であった。

捨子については先日の記事「江戸時代の捨子たち~歴史・社会背景・捨子観の変化・幕府の政策など」に書いた通りで、人口増と家族単位の小規模化、生活の困窮などの諸要因から捨子の数は著しく増えており、その保護責任が親や五人組・村落共同体に対して求められた。病人も遺棄されることが多かったが、これに対しても同様である。これらは犬愛護令よりもはるかに厳しい罰則が設けられ、全国にその施行が徹底された。

(2)鉄砲統制令・鷹狩停止令・鳥獣保護令

前将軍徳川家綱(綱吉の兄)の鉄砲統制令「鉄砲改め」を全国に拡大して、百姓所持の鉄砲の管理統制を行った。これは百姓たちが所持している鉄砲を村の管理下に収めて所持・使用を許されたものだけに登録された鉄砲を渡すもので、貞享四年(1687)、以降推し進められた。

武井弘一「鉄砲を手放さなかった百姓たち」によると、許可された鉄砲は三つに大別される。第一に、自衛のための「用心鉄砲」。盗賊人以外の殺傷に使うことは禁止される。獣害に対して実弾を使わず音だけで威嚇する「威し筒」。猟師にのみ狩猟用として実弾使用が許される「猟師筒」となる。

『家綱政権の鉄砲改めによって百姓から”武器としての鉄砲”が没収されたが、村に残された鉄砲は次の綱吉政権でどうなったのかといえば、獣を駆除する”農具としての鉄砲”と狩猟を目的とする”猟具としての鉄砲”に分けられた』(武井P74)

この鉄砲統制令は鳥獣類などに対する生類憐みを大義名分として百姓から武力としての鉄砲を奪う政策であると同時に、地方領主の力を殺ぐ政策でもあった。大名たちは所領の有力農民などに鉄砲を持たせることで統治機構の一環に取り込み、村々を庇護・服属させる役割を担わせていたが、この政策は武器としての鉄砲の統制・武力行使の権限を幕府以外に認めないとするもので、将軍権力強化の政策の一環としてとらえられる。

ただし、この鉄砲統制令は実運用において現実離れした政策だった。というのも、耕地開発は拡大の一途を辿ったことで、それまでの動物たちの生存領域は次々と脅かされており、獣たちは食料を求めて田畑へと襲来、獣害は増える一方でありながら、その獣たちと対抗する銃は実弾の使用を禁じられていたため、威嚇射撃だけでは太刀打ちできず百姓たちの生活は常に脅かされ、綱吉政権への怨嗟が募ることとなった。

鉄砲統制令と連動して断行されたのが鷹狩停止である。鷹は古くから権威の象徴であり、鷹を使った鳥獣類の狩猟「鷹狩」の習慣は武士の間で一般的なものだった。また鷹は贈答品としての役割も担い、上級武士の生活に欠かせない役割を担っていた。一方で鷹は飼うには非常にコストがかかる生き物でもある。各大名とも専門の鷹匠を複数雇い、鷹場を各地に整備・維持し、鷹の餌は犬肉が用いられており、その餌としての犬を大量に養育する必要もある。それでも徳川家、朝廷、大名の間で鷹を送り合うことで密接な主従・外交関係が形成され、大名は富としての鷹支配を通じて地方支配体制を築いていた。

鷹は鉄砲とともに地方領主の支配力の源泉であり、将軍権力の強化を目指す綱吉にとって、鷹の支配権は大名にではなく幕府に帰されるべきものだった。綱吉は生類憐みを掲げて鳥獣保護政策を打ち出し、鷹の育成制度も縮小を進めていく。元禄六年(1693)、鷹場は閉鎖され幕府も大名も鷹の飼育を止め、鷹関係の部門も全廃、鷹狩が停止された。これによって鉄砲と鷹という地方領主の支配権力の源泉となる体制は突き崩されることとなった。鷹狩の復活は吉宗の代になる。

(3)犬愛護令

犬愛護令はこれら諸政策と密接に関連している。

犬愛護令の背景として第一に、当時東アジア地域で広く見られた食犬習俗がある。当時の日本でも犬を食すことは珍しいことでは無かった。ただ、食犬で問題になっていたのは野良犬だけでなく飼い犬を飼主に無断で殺害し食すことが少なからず見られたことだ。都市下層民が困窮して殺して喰うことが多かったが、特に問題となったのが当時横行した「かぶき者」と呼ばれる者たちによる、権威への反抗を示す意図で武士の飼い犬を襲って食すことが見られた点であった。彼ら権威に反抗する「かぶき者」の取り締まりは江戸幕府草創以来の課題で、綱吉は特に彼らを忌み嫌っていた。

第二に、上記の通り鷹の餌として犬肉が使われ食肉用の犬飼育が一般的であった。鷹餌犬の飼育は大名から支配下の村落に委託されており、一部の能犬が猟犬・番犬となるが、ほとんどは餌として飼われる。ここで問題になるのが飼育されながら食肉に適さない犬の処分である。計画的に繁殖をコントロール出来るわけではないからどうしても自然繁殖の結果増えすぎてしまう。多くは売却・殺処分され百姓たちの食卓に並んでいたが、養いきれず捨てられた犬が野犬化して畑を荒らすことも多々見られた。鷹狩を停止するということはこの鷹餌用に飼われた犬をどうするかという問題が浮上することになる。

第三に、都市の野犬の問題があった。中世以来都市には野犬がつきものだったが、江戸時代の急速な大都市化は多数の野犬の横行を生んだ。一面では野犬は都市のゴミ処理機能を有してもいたが、大量のゴミという豊富なエサによって大繁殖し、人との争いもまた深刻な問題となっていた。特に捨て子たちは捨てられても拾われるのは幸運な者で、多くは野犬のエサとなって命を落としていた。また狂犬病の問題もあった。そのような中で犬嫌悪の気風が都市住人の間では芽生えてもいた。

第四に、犬は鷹の餌であると同時に鷹狩や狩猟にも使われる猟犬の役割も担っていた。特に戦国末期から江戸初期にかけて輸入された唐犬(グレイハウンドの一種)を猟犬として飼うことが大名の間で流行り、鷹狩・狩猟だけでなく民衆を威圧する役割も担わされており、襲われてその犠牲になる人々が少なからずいたという。また、村落の有力者も番犬として犬を飼い、犬が獣害に力を発揮することで権力を誇示する機能を有していた。犬は民衆にとっては畏怖の対象であると同時に嫌悪・忌避の対象でもあった。

このような背景で貞享四年(1687)、捨子捨牛馬禁止令と同時に江戸町中に犬保護の指示が出されたのを皮切りに野犬(「無主犬」)の保護、行方不明の飼い犬は捜索すること、犬の飼い主登録などが定められ、元禄六年(1693)、鷹狩停止とともに犬収容施設の建設が開始。四谷、大久保、中野などに設けられた犬収容施設には野犬(「無主犬」)が多数収容された。その一方で元禄七年(1694)戌年に出された複数の犬愛護令によって傷ついた犬を放置したものは処罰、傷ついた犬がいたらその町の落度とし、犬の喧嘩仲裁が命じられるなどした。さらにエスカレートして犬を傷つけた者が死罪となり、犬愛護令は極端な厳罰主義に彩られ始める。これは文治主義の綱吉政権によるかぶき者弾圧の口実として犬愛護令が使われたものだが、その思想としては捨子捨牛馬禁令と通じる生類への慈悲という観念がある。

『綱吉政権は、カブキモノ風の廃絶の徹底に、任侠の風にかえるに慈愛の心をひろげる道をとった。身近な小動物として、虐待対象ともなりやすかった犬に対する姿勢において、とくに慈愛の心の発動を求めたことも、決して奇体なものとはいえない。
ただ、江戸の町に横行した多数の犬は、町民生活とのトラブルをも生んでいた。カブキモノ風の行動の反面に、野犬公害もまた、江戸町政の、したがって幕政の問題だったはずである。カブキモノ抑圧の発展として、人民の精神教化を意図した権力も、犬の「精神」を動かそうとするわけにはいかない。犬を排除するか、犬の保護管理を徹底するかの選択にあたって、ひとびとに慈愛の心をかかげる以上、後者の道しかない』(塚本「生類をめぐる政治」P189)

かくして慈愛の名のもとに犬を傷つけた者は死罪という極端な法令が出されることになる。これは犬に限らない。捨子も捨て牛馬も鳥獣殺傷も死罪であり、要するに生類への慈悲を持たず殺生を行うものは悉く死罪に処するという冗談のような恐怖政治が確立された。

生類憐みの令の思想

生類憐みの政治の背景には綱吉の思想と信仰がある。儒学と仏教とは双方対立することが多いが綱吉はその二つを共存させていた。儒学に傾倒していた彼は何より「仁」を重んじ、仏教徒として「殺生」を忌避した。『ヒトは、仁心を持ち得るものであり、すべてのひとをそのように導くのが君主の任務であるというのが綱吉の理解した儒学の教え』(塚本「徳川綱吉」P160)であった。『綱吉は、意志ある存在としての人民を統御し保護するのを将軍の任としていた。意志あるゆえに教化可能な対象であり、これを仁心に導くための努力が傾けられた』(塚本「徳川綱吉」P160)。人民一人一人の思想統制まで考慮した日本最初の君主であったかもしれない。

『生類憐みの政策は、ひとをふくむ一切の生類が権力によって保護さるべきものだという考え方と、もう一面ではひとびとに生類の憐みを命ずるという考え方の二面をもっていた。政権にとっては、生類憐みの志をひとびとがもつことで世は安定し、人民は安らかな生活ができるというわけで、両面は矛盾しないはずのものであった。』(塚本「生類をめぐる政治」P280)

その高い理想ゆえに、現実とのギャップの中で苛烈極まる手段を取り、また、将軍権力が強化されていく過程と相まって啓蒙専制君主的な絶対者として君臨した。ゆえに綱吉は暗君ではないし、かといって名君でもなく、高い教養と判断力を持つがゆえに凡庸でもなく、偏執的な傾向は無きにしもあらずではあるが、異常人格でもない。ただ、同時代の文化や社会を反映させた政策を苛烈に実行して失敗と成功を繰り返し、その極端な政策から人々の怨嗟を買い、その後の歴史に少なからず影響を与えた(近年、荻原重秀の起用など経済政策は再評価の兆しもある)専制君主であった、というのが妥当なところなのだろう。塚本も同時代のルイ14世や康熙帝などを引き合いに出しているが、強力な権力を持った君主としてのメンタリティは彼らと近いものがあったのかもしれない。

参考書籍

生類をめぐる政治――元禄のフォークロア (講談社学術文庫)
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徳川綱吉 (人物叢書)
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