長篠の戦いでの「三段撃ち」は後世の創作

歴史上名高い長篠の戦いは天正三年(1575)五月二十一日、三河の長篠城外で織田徳川連合軍が武田勝頼軍を撃破した戦いで、通説では織田徳川連合軍が『鉄砲隊三千を三段に分け、千挺ずつの一斉射撃を行うことで、精強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した』(藤本「長篠の戦い (歴史新書y)」P5)戦国時代の革命的出来事として知られている。しかし、これは後世の創作であることが明らかになっている。

まぁ、長篠の戦いでの三千挺三交代連続一斉射撃が虚構であるということは散々多くの研究者が論じ、wikipediaでも詳述されているようにほぼ周知のことであり、今さらドヤ顔で記事に書くのもかなり憚られることではあるので、要点だけまとめつつ、実際の長篠の戦いの経過について史料を踏まえて書かれた二冊の本について軽く紹介する程度の記事。参考書籍はこの長篠の戦いの通説を古くから批判していた歴史研究者藤本正行氏の二冊「信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)」「長篠の戦い (歴史新書y)」。

公式記録である「信長公記」を始め同時代の記録には長篠の戦いで鉄砲隊三千を三段に分け、千挺ずつの一斉射撃を行ったということは書かれていない。単に鉄砲を千挺ぐらい(正確な数字ではない)用意し、奉行五人に任せたとあるだけだ。この説の初出は江戸初期の儒医小瀬甫庵の「甫庵信長記」で、ここで「三千挺を入替へ入替へ打たせければ~」との記述がみられているという。全体的に事実誤認が多いフィクションが中心の一冊だそうで史料的信頼度は低い。ただドラマチックな設定だけに以降江戸時代から現代まで三段打ちに様々な脚色がされて残っていった。決定的だったのが明治三十六年(1903)陸軍参謀本部発行「日本戦史」で、同書長篠役の項目でこの三段打ちを採用したことで、以後政府の公式戦史を前提として様々な作品で三段打ちが取り上げられることになった。また戦場となった地名も信長公記では「あるみ原」であったものが同書では設楽原と書かれ、これも広まることになった。

火縄銃を使った交替射撃は火縄銃の構造を考えると非効率的で現実的な戦法とは言えないこと、そもそも騎馬に乗っての戦闘自体が日本では行われていなかったことから騎馬で突撃を敢行してくる武田騎馬部隊というもの自体が存在を疑われていること、複数の版がある信長公記の古いものでは千挺ぐらい、との記載がありこれも正確な数字ではないこと、など様々な批判点が通説については挙げられている。大量の鉄砲が導入された戦争ではあったものの、勝敗は新戦術によってではなく、信長の増援前に武田軍が長篠城を落とせず、酒井忠次の別働隊が長篠城を包囲する武田軍を撃退し、数で劣る武田軍を本隊と別働隊とで包囲する体制に持ち込んでいたこと、織田徳川連合軍本隊が強固な防衛陣地を組んでいたこと、にもかかわらず武田勝頼が判断を見誤って織田徳川軍本隊に挑んでしまったことなど、開戦前に決していた。

藤本氏は長篠の戦いの意義が新戦術による軍事革命ではなく『鉄砲の普及と、大量動員による大土木工事とが、野戦の展開を左右するようになった戦国時代末期を象徴する戦い――それが長篠合戦だったのである。』と総括している。長篠の戦いで行われたような強固な陣地構築重視で攻めた方が負けるという戦術を秀吉は以後よく使うようになり、家康と秀吉の対戦となった小牧長久手の戦いも両者の強固な防衛線構築が長篠の戦いに通じるものと位置付けられている。

要点だけ簡単にまとめただけなので、ここで参考にした以下の二冊を読むと、おそらく思い描かれる疑問は大体氷解するのではないかと思います。どちらも丁寧に史料を解きほぐして当信長の戦争の推移を描いており、とても面白い。

信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)
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「信長の戦争」では「桶狭間」「美濃攻め」「姉川合戦」「長嶋一向一揆」「長篠の戦い」「石山本願寺攻め」「本能寺の変」という信長を代表する戦争をそれぞれ史料を元に描きだし、「長篠の戦い」ではタイトル通り「長篠の戦い」の推移について丸々一冊論じてあります。もちろん、「長篠の戦い」の具体的な経過については諸説あり、未だ論争になっているようで、同書でも他の研究者の説を論じているので、より深く知りたい方や、この説に納得いかない方はさらに同書で論じられている他の研究書を読むとより理解が深まるのではないかと思います。

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