如何にして富士山は日本の象徴となったか~老宗教家「食行身禄」の自死

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序章 修行者食行身禄

世界文化遺産にも登録され、さらなる注目を集める富士山は文字通り「日本」を象徴する山となっているが、歴史上、いかにして富士山は日本のシンボルとなってきたのか?

富士信仰拡大の契機として十八世紀の富士修行者食行身禄(じきぎょう・みろく:1671-1733)の入定(修行として山中で断食死すること)があった。彼の劇的な死が人々を熱狂的に富士山へと向かわせ、民間信仰である冨士講を勃興させることになる。そして、人々の間に広がった富士山への熱狂的な崇拝観念が、近代、「日本人のアイデンティティ」へと昇華されていく。食行身禄の死を取り巻く様々なエピソードを横軸に、富士山を取り巻く中世から近代までの信仰・文化・政治そして近代登山の誕生とナショナリズムの台頭までの流れを縦軸にして富士山の文化宗教史を大まかに描いてみる、という記事。

食行身禄こと伊藤伊兵衛は、寛文十一年(1671)、伊勢国に生まれた。三人兄弟の三番目で一度養子に出されて再度実家に戻されたあと、十三歳で叔父とともに江戸に出て、薬屋とも呉服商ともいわれるが奉公人として働き始め、ほどなくして商売の才を発揮して財をなしたとされている。十七歳で富士信仰に目覚め富士行者月行に師事、食行の名を与えられ、やがて山岳修行者は清貧であるべきと考え、すべての財産を捨てて信仰の道へと進んだ。ただ、財産を捨てて信仰の道に入るという構図は洋の東西を問わず名を残した宗教者の多くに共通してみられるエピソードでもあり、この若き日の様子は伝承の域を出ない。

身禄が傾倒した富士信仰の歴史を少し振り返っておこう。

第一章 富士信仰の中世史

古代から中世にかけて、富士山は噴火を繰り返し周辺に住む人々にとっては恐ろしい火山であった。記録に残る富士山噴火の最初の例は天応元年(781)で、延暦十九年(800)と延暦二十一年(802)にも続いて噴火があり、貞観六年(864)の噴火では富士山北麓の?(せん)の海が埋め立てられ、精進湖と西湖が誕生する。人々は怒り狂う富士山が鎮まってくれるよう自然神として祀り始める。浅間(アサマ)は火山を意味する言葉だが、これらの噴火を受けて富士山麓各地に浅間神社が建てられる。現在の富士山本宮浅間大社も貞観の噴火の後、勧請された。

十二世紀、富士山の噴火が小康状態になって、修験者たちが山岳修行の場として富士山に登拝しはじめる。記録に名前が残る限りにおいて日本史上最初に富士山に実際に登った人物が末代上人という行者で、「本朝世紀」久安五年(1149)の条にその名が初めて見られ、生涯に登頂すること数百度だったといい、山頂に大日寺、山中に村山興法寺という寺院を建て、多くの修験道者が彼に続いた。鎌倉時代末期の文保年間(1317~19)にtrong>頼尊という修験者によって富士行が創始される。以後、室町時代の十四世紀から十五世紀にかけて、富士山は富士山頂の管理権を独占した村山興法寺を中心として仏教修行の場となっていった。

近世富士信仰の開祖となったのが、戦国時代末期の永禄三年(1560)に登場した修験者藤原(長谷川)角行(1541-1646)である。度々富士山に登り、修行者でありながら徳川家康に気に入られて租税免除の許しを受けていたといい、関ヶ原の戦いでも家康のために戦勝祈願を行うなど、影響力を行使した。一方、村山興法寺を中心とした村山修験道は後ろ盾であった今川氏の滅亡後に衰退、家康は武田氏の庇護下にあった富士山本宮浅間大社に富士山頂の管理権を与え、富士信仰は大きな岐路にあった。

角行は旧来の村山修験道の衰退を受けて、巡礼などを組み合わせた、後の富士講へと繋がる新しい修行スタイルを編み出した。修行者だけでなく庶民の修行登山も奨励して支持を広げていく。角行後、四世月珀の弟弟子が身禄の師月行で、富士行は五世月心とその子六世光清の呪術的修行を重視する本来的な意味での修験道である光清派と、月行とその弟子食行身禄の社会変革運動的な「世直し」を重視する身禄派とに分派する。江戸時代初期までの富士信仰は、一部の修行者を除いてさほど広がってはいなかった。

第二章 食行身禄の革命的思想

修行の道に入ってからの身禄は清貧を重視していたとはいえ、非常に貧しい生活であったという。巣鴨に居を構え、貧しいとはいえ、妻と三人の娘がいたが、油を売って糊口を凌ぎつつ、奉公に出た娘たちに生活を支えられて、十数名の弟子たちと富士山に登るという生活を送っていた。後世付け加えられた奇蹟的な逸話が語られるが、素の身禄は貧しく大した学もなく、ただの気難しい男であった。

彼が天啓を享けるのは享保七年(1722)正月十七日、五二歳の誕生日のことである。瞑想中彼は「食行身禄菩薩」という言葉を聞いて感涙し自身を食行身禄と名乗ると、その教義を文書にまとめはじめる。

中世以降多くの信仰を集めた弥勒信仰は弥勒菩薩が入滅後五十六億七千万年して現世へと下生して人々を救済するという一種のユートピア思想だが、身禄はこの弥勒信仰を否定する。すなわち、弥勒菩薩の救済に頼らず、それぞれ借り物であるところの体を天に返す日に備えて、身を禄にして各々が身に付けた職を精一杯働き抜くことで、男女ともに「京のししい殿」へと天は導いてくれるという。プロテスタンティズム的な天職観念とも近い勤労奨励思想である。

特徴的なのが男女平等・四民平等の思想であった。富士信仰において富士山は仙元大菩薩という神格であったが、身禄はこれを「ちちはは様」という男女一対の神として捉えた。古来から富士山は男性か女性かというのは信仰上の議論としてあり、両性を備えた神格されていた。ここから身禄は男女平等という思想を導き出す。修験道において富士山はもちろん、霊山はいずれも女人禁制が大原則であったが、享保十六年(1731)、身禄は板を削って富士山登山口に女人登拝解禁の高札を掲げ、センセーションを巻き起こした。彼はいう。『女とて善を勤めば善なり、男とて悪をなさば悪也』『男とて女とてなんのへだたりあらん。同じ人間也』(「富士講の歴史」P165)

さらに思索を進めて、彼は士農工商という身分制の否定と四民平等へとたどり着く。『人間、貴賤の隔てなく我身より貴きもの外になし』(「富士講の歴史」P538)。士農工商の四民いずれに生まれようとも懈怠なく勤めることがなければたちまち貧民に落ちてしまう。四民の外に置かれた、その自身の体の貴さを知らぬ人非人のことを悲しまないべきではない、そう弟子に語っている。それに留まらず、『いうことは何にてもかくしおかず、ずつといわせ』と庶民の発言の自由を要望し、『「おふりかわり」と称して、いまに世の中は庶民の世の中に変わることを予言し、それが身禄の御代であるのかと思わせる言もある』(「富士講の歴史」P167)。

四民平等思想は江戸時代で特徴的な思想というわけではない。ただ、それを唱えた思想家たちはいずれも身禄以後、十八世紀末に登場する。杉田玄白(1733-1817)は著書「形影夜話」で『古も今も何所の国にても人間と言ふものは、上天子より下万民に至るまで、男女の外別種なし』と語り、司馬江漢(1747-1818)は著書「和蘭天説」で『天ヨリ是ヲ定ムレバ同ジ人ナリ』という。(いずれも源「徳川思想小史」P122)十八世紀末は日本思想史における第一次啓蒙時代に位置づけられるが、身禄が彼らに直接の影響を及ぼしたかどうかは定かでないにしろ、彼に始まる富士講の民衆運動はあきらかに日本の啓蒙時代を下支えしている。

無学で貧しい老宗教家が突如として先駆的な革命思想家へと変貌した。その要因として二人の政治家について語る必要がある。一人は徳川吉宗、時の第八代将軍である。もう一人が徳川宗春、吉宗のライバルとして目された尾張徳川家の当主である。吉宗が主導した「享保の改革」と、そのカウンターとして登場した徳川宗春の政治思想が身禄を理解する鍵になる。何故なら、身禄は徳川宗春の著書を読み、彼の思想に心酔したからだ。

第三章 徳川吉宗の享保の改革

享保元年(1716)、徳川吉宗が将軍に就いたときの日本は転換点を迎えていた。十七世紀の大開発時代が終わり耕地面積は頭打ちとなり、人口も十七世紀の百年で二・五倍と急増したあと、十八世紀初頭から幕末までほぼ3200万人前後で横ばいに転じる。森林資源は枯渇して各地に禿山が見られ始め、元禄バブルを最後に経済成長の鈍化とともに幕府財政は急速に悪化し、「米価安の諸色高」とよばれる米の供給過剰と米以外の産品の供給不足による物価の乱高下で庶民生活は混乱、これに度重なる飢饉と疫病など大規模災害が追い打ちをかける。さらに幕政は短命の六代家宣、幼少の七代家継の弱い将軍職の下、譜代門閥と綱吉以降に台頭した新興知識人とに二分され政争に明け暮れている。吉宗が託されたのは課題山積する低成長時代の日本の舵取りであった。

吉宗はこの課題に対して「大きな政府」というと若干の語弊があるだろう、「強い幕府」という方針で臨んだ。大石学は(1)将軍権力の確立(2)首都改造と都市政策(3)首都圏の再編(5)国家支配の強化という四つに分類している。まず新興知識人層が拠っていた側用人制度を廃止、紀伊時代の家臣団を側近として大規模に登用、自身の権力基盤とすると、情報収集・監査機関としての御庭番制度、庶民からの意見や直訴の窓口としての目安箱を設置、鷹狩りを再開して将軍権力の確立を図る。次に町奉行として大岡忠相を登用して首都機能を強化し、商人の業種別組合を作らせて物価統制を図った。また、国家機能の強化として「公事方御定書」など判例法典の編纂をおこない法の支配を進め司法制度を確立、全国人口調査を行い、国民教育の振興、年貢徴収・増徴政策を展開、庶民救済の施策を次々と打った。

幕府を、将軍を頂点とする効率的な官僚機構に再編し、国家機能の強化と公共政策の重視により支配を日本全国あまねく行きわたらせた。徹底したデフレ政策と、倹約の推進・奢侈の禁止による緊縮財政政策、増税に次ぐ増税と新田開発、税収安定化政策によって幕府財政を黒字化した。享保の改革は大成功を収め、後々、幕政改革の模範となった。

しかし、庶民にとって吉宗の政治は非常に息苦しいものであった。享保の改革で辣腕を振るった勘定奉行神尾春央の「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」との言に象徴されるような苛烈な徴税、無理な新田開発による水害など二次災害、物価の乱高下や慢性的な生活必需品の不足、流通システムの不全が被害を拡大させた享保の大飢饉などによって、庶民の間には吉宗の政治に対する不満が鬱積していた。

享保の改革は『法と官僚による国家支配のシステム』(大石「吉宗と享保の改革」P337)という、後の明治政府へと繋がる『国家支配の近代化への起点』(大石「吉宗と享保の改革」P337)として非常に重要な歴史的意義を持つが、その出発点として、そもそも幕藩体制が構造的に抱えていた石高制という問題への抜本的改革を行えなかった、むしろその維持を目的としていたという点において、必然的に国民負担の増大を招来するものでもあった。

では、幕府が直面していた諸問題に対する対策は吉宗の「強い幕府」という方針しかなかったのだろうか?まったく同時期に、もう一つの解を実践してみせたのが尾張藩主徳川宗春であった。

第四章 徳川宗春の政治思想と吉宗との政争

享保十五年(1730)、御三家のひとつ尾張徳川家の家督を継いだのが徳川宗春(1696-1764)である。藩主となった宗春は自身の政策をまとめた著書「温治政要」を著した。それは吉宗の政治を批判し、山積する諸問題のもう一つの解となるものであった。「小さな政府」的な規制緩和と市場経済の重視という、現代でいうところのリバタリアン的政策群である。

「仁」の重要性を説き、その上でまずは第三条で「司法の健全化」と当時としては余りにも斬新な「死刑制度の廃止」を唱える。

『刑罰については、いったんあやまって後は、どのように悔いても取り返しがつかないことであるので、よく吟味したうえで何べんも念を入れ、慎重にしなければならない。たとえば、千万人のうちに一人誤って刑しても、天理に背き、第一国持大名の恥である。』(大石「規制緩和に挑んだ「名君」徳川宗春の生涯」P124)

江戸時代の刑罰が領地からの追放と打首・火刑・斬首等何種類にも細分化された死刑を中心として成立していたことを考えればその斬新さがわかるだろう。宗春はその治世の間一人も死刑を執行しなかったという。

次に、吉宗が法典を編纂したことを述べたが、宗春は法令の多さを批判し、法令が多いのはよくないことだという。

『法令が多すぎると、人の心も積極性が失われ、狭くなりいじけ、道を歩くときにも後先をみるようになり、いつも愚痴ばかり言い、自然と忠義の心も薄くならないともいえない。したがって、法令の内容をよく考え、人の難儀や差し障りになることや瑣末な種類の法令は取りやめるようにしたいものである。』(大石「規制緩和に挑んだ「名君」徳川宗春の生涯」P130)

また別の法度で宗春は『国に法令多きは恥辱の基』と述べ、前述の勘定奉行神尾春央は 『法ハ人間よりも重ク、法の次ハ人』と語っているように当時法の支配の強化を進めていた吉宗と真っ向から対立した。

また倹約・緊縮政策を批判して『やたらと省くばかりでは、慈悲の心は薄くなり、知らないうちにむごく不仁な政治となり、人々がたいへん痛み苦しみ、省略がかえって無益の出費を招くことがある。』といい、災害対策を重視して防災の備えの不備を注意し『たとえ千金を溶かした物でも、軽い人間一人の命には代えられない。これらのことは、みな上に立つ者のわきまえがなく、決断がないことからおこるものである。』と人命尊重の重要性を述べる。

この「温治政要」は藩士に配られ、この政策に基づいて尾張藩で次々と政策が実行された。吉宗の奢侈禁止政策に反抗するように華美と派手を推進して、吉宗が禁止した芝居や相撲の興行も許可、名古屋城下は異例の活況を見せ、文化が興隆して、消費が拡大し、名古屋はわずか数年で江戸・大阪・京都の三都に次ぐ規模にまで人口・経済が急成長、日本第四の都市としての地位を確立し、後の大都市名古屋の基礎を築いた。

だが、絶対権力の確立を図る吉宗は自身を批判してはばからない宗春への反撃を開始する。享保十七年(1732)閏五月、「温治政要」を禁書としたのを皮切りに、同九月には宗春に幕府が定めた倹約を行っていないなどの詰問の使者を遣わせる。これに対して宗春は、将軍は御三家と同格だとして突っぱねる。この主張は宗春にも理があるのだが、将軍職を頂点とした権力の再編を目指す吉宗の方針と真っ向から対立する観念でもあった。さらに吉宗の詰問に『倹約とは、他の大名がおこなっているように、重税をとって庶民を苦しめることではない。』と痛烈な返答を送り、両者の対立は先鋭化の一途を辿った。

しかし、消費拡大と規制緩和の政策を推し進める宗春のネックが藩財政の赤字であった。就任前に一万三千両の黒字であった藩財政は就任翌年の享保十六年(1731)には二万七千両の赤字に転落、以後赤字基調が続いていた。一方で名古屋城下は好況に沸いており、財政赤字の拡大に経済成長による税収増が追いつけるかどうかが問題である。これを吉宗は見逃さない。吉宗は財政赤字を理由に尾張藩の重臣を次々と説得、宗春包囲網を密かに築く。元文三年(1738)六月九日、宗春が江戸に滞在していた隙を突いて、吉宗に寝返った重臣たちが主導して尾張藩評定所名で藩政を宗春以前に戻すという触れを出した。事実上のクーデターである。宗春は失脚し、以後死ぬまで軟禁生活を余儀なくされた。さらに彼が謹慎を解かれるのは天保十年(1839)、死後半世紀以上経過してのことであり、名誉回復は幕府滅亡後のことになる。

幕府権力の大幅な縮小と規制緩和、経済自由化、消費拡大による民生の活性化という、もう一つの解は潰えたが、宗春の改革は庶民の間で理想化されて語られることになる。幕府の強権や悪政に対するプロテストのアイコンとして徳川宗春の名は様々な幕府批判の書物で繰り返し登場、失脚後百年あまり、江戸幕府の滅亡まで歴代将軍・幕閣は宗春の名を常に意識させられていく。

出版直後の「温治政要」を身禄も読み、熱狂する。そして、吉宗政権への抗議として、彼に死を決意させた。その死は巨大な民衆のうねりとなって日本を覆うことになる。

第五章 食行身禄の入定と富士講の誕生

享保十六年(1731)、富士登山から尾張に立ち寄った身禄は安喜という人物の家で「温治政要」を読んだと記録に残されている。そして宗春の思想に心酔した。享保十七年に彼が書いた文書「御添え書の巻」には宗春公が書いている通り云々という表現が繰り返し使われている。彼は享保十七年、火災に遭って焼け出され、その被災の間もおかずに書き始めた「御添え書の巻」で武家政治批判を展開、そして死を決したと宣言する。

『天子天日(天皇・将軍)を初めとして、おもてむきのみちばかり結構にみせて、心の内には知りおれども悪にばかり金銀をつかいすて、上へ立つ者ばかり良きように致し、下の者は少しのことにも改め(逮捕・取調べ)、とが(罪)におとし、役にも立たぬ法度(法令)ばかり厳しくして、白米をも高値にして、金銀をも世に通用いたさぬようにいたし(中略)六月十七日を名日にして、とそつ天へ三国の万ごうの峰の鏡に被遣参り候』

天皇・将軍の様々な悪政に抗議するため六月十七日に富士山に入り、食を断って入定すると宣言、そして実際に富士山の人穴で弟子一人を供の者としてその死を記録させ、六十三年の生涯を閉じた。

この死は吉宗政権への不満が鬱積していた庶民の間で熱狂をもって迎えられた。

『江戸に近い宗教的な山の中でも特別に霊験があると考えられた富士山で断食自殺をする、という行為の宣伝効果をどれほど身禄が計算できていたか、むしろそのような計算を度外視して抗議の自殺を幕府に対してしてみせたその心情、その勇気が、米価の暴騰、大飢饉という危機的経済状況に苦しめられていた、江戸庶民の異様なまでの同情を買うこととなったのである。』(上垣外「富士山-聖と美の山」P148)

身禄の死後、ごく少数の弟子たちがそれぞれ自ら立ち上がって身禄の教えを広め、それぞれ信仰集団を形成しはじめる。富士講の誕生である。十数人でしかなかった身禄派は瞬く間に勢力を拡大する。しかも彼らが唱えるのは身禄の教え通りの男女・四民平等と救済、いわば革命思想である。

富士講という名の記録上の初登場は寛政七年(1795)、『近年富士講と唱』える者たちを弾圧する旨の町触れである。安永年間の禁令の再確認という体裁であることから、すでに無視できない勢力になっていたと考えられている。これに先立って寛政元年、よりによって幕府御庭番を務めていた武士が身禄の教えを訴えたいと老中に直訴を敢行、すでに庶民だけでなく武士にまで信徒が広がっていた。

遡って明和二年(1765)、身禄の直弟子であった高田藤四郎が、老人や女性、子供など富士山に直接登れない人のために疑似的な富士山を作って登らせてはどうかと思いつく。庭師であった彼は、安永八年(1779)、戸塚村(新宿区高田)に富士山を模したモニュメントを建造した。富士塚の誕生である。以後江戸を中心に関東周辺や関西にも建てられる富士塚の第一号であった。この高田富士塚は戦後まで残されていたが、昭和三十九年、早稲田大学が新校舎を拡張する際に富士塚の敷地を買い上げて取り壊し、貴重な民俗遺産は失われている。

以後文化文政期までに江戸八百八講と呼ばれて江戸のすべての町に富士講が登場、1840年ごろの肥前平戸藩主松浦静山は身禄派が『国々に満ちて党を結び、衆を集て数十万に及ぶ』(上垣外P148)と書いており、かなりの勢力になっていたことがわかる。そして松浦は『其徒の身禄を尊重すること、一向宗の親鸞を敬ふが如く、身命をも押しまざれば、法の為に定死するも多かりと』(上垣外P149)とも書いており、弾圧されても弾圧されても彼らは布教を続け、そして信徒は拡大の一途をたどり、庶民は富士山へと登るべく講を開いて旅費を蓄えていた。

十八世紀、度重なる飢饉や災害、苛政によって「世直し」の機運は民衆の間に非常に強くエネルギーとして蓄えられていた。一揆や打ちこわしなどにも「世直し」という心理は強く働いていたとされる。富士講はその「世直し」に一つの形を与えて勢力を拡大、富士山に登るという行為がすなわち救済を求める宗教的行為であると同時に幕府権力への抵抗をも意味した。ゆえに日々の暮らしに苦しむ庶民は、救済と抵抗の象徴としての富士山へと向かうことを夢見るようになっていた。

第六章 江戸絵画の中の富士山と日本型華夷思想

十八世紀後半、富士講の拡大と同時期に、絵画として富士山が多く描かれるようになる。南画の代表者池大雅(1723~76)は朝鮮通信使の随員でもあった画家金有声に山水画の技法で富士山を描く手法について相談し「富士十二景図」(1760頃)を描いた。山水画家木村探元(1679-1767)の「富嶽雲烟図」(1756)、長沢蘆雪(1754-99)の「富士越鶴図」、日本に西洋画を持ちこんだ司馬江漢は「駿州柏原富士図」(1812)など富士山を好んで描いた。この南画、山水画、西洋画などの技法を踏まえて登場するのが葛飾北斎(1760-1849)で、名高い「富嶽三十六景」(1831-1835)を出す。北斎に対抗意識を燃やした歌川広重は「富嶽三十六景」に対して「東海道五十三次」(1833-34)、続いて「不二三十六景」(1852)「冨士三十六景」(1858)の連作を刊行した。

これらは富士講の広がりによる人々の富士山への崇拝・憧憬の意識の誕生と無関係では無いだろう。富士山のその姿を多くの人々が求め、それに応えて絵師たちも富士山の絵を次々と世に送り出した。丁度浮世絵技術の発達と浸透の時期と重なり富士山が多く描かれることになる。富士山は反権力的なシンボルでもあり、「世直し」に代表されるような社会のあるべき姿のシンボルでもあり、また、日本とそれ以外とを分かつシンボルにもなりつつあった。

海外の人々が富士山を目にするのは、鎌倉時代の留学僧たちを除くと江戸時代の朝鮮通信使が最初である。それ以前は政治の中心は京都であったから、富士山まで足を延ばすことは無かった。文禄慶長の役後の国交正常化交渉の過程で対馬藩の尽力により朝鮮通信使が江戸へ来訪、以後江戸時代を通じて慣例として行われることとなった。彼らは東海道を通って富士山を横目に江戸へと到着する。その過程で多くの外交官や随員が富士山を漢詩に読み、絵画として描き、あるいは記録に残した。その多くが富士山の美しさを褒め称えており、儒学者を初めとする日本の知識人たちの間にも富士山が中国・朝鮮の山々に比肩する美しい山であるという意識が芽生えつつあった。

食行身禄も富士山を三国一という表現で歌に詠んでおり、知識人たちだけでなく、庶民の間にも富士山が諸外国にも劣らぬ名山であるという意識が広がっていた。また竹谷靭負によると、北斎の「富嶽百景」には蝦夷、朝鮮、琉球など富士山が見えるはずのない周辺国から見た富士山という作品群があり、当時知識人の間で広がっていた『日本型華夷思想のシンボル』(「富士山を知る事典」P530)としての富士山という観念を反映させた作品であったとされている。

知識人の間に広がっていた、明国滅亡後の東アジア地域の新たな国際秩序の模索として十七世紀から十八世紀にかけて理論的に構築された日本型華夷思想のシンボルとしての富士山という観念と、民衆の間に富士講を通して広がっていた世直し・救済・反幕府権力のシンボルとしての富士山という観念とが浮世絵というメディアを通して交錯していく、まさにその過程で革命が起きた。

第七章 赫夜姫から女神木花開耶姫への交替と明治維新

明治維新は富士信仰の在り様を大きく変えた。明治元年(1868)の神仏分離令によって仏教施設・オブジェを破壊する廃仏毀釈運動が日本中を覆う。以後神道国教化を巡る紆余曲折の後、中央集権国家の建設と歩を同じくして国家神道が完成、天皇を頂点とした諸宗教という体制へと再編されていく。

富士山でも幕末、仏教・修験道関連の施設・オブジェは悉く破壊、仏教色は一掃される。廃仏毀釈運動は江戸時代を通じて形成された神社優位の体制が背景にあるが、富士山においては、富士山に祀られる女神の変更が象徴的である。富士山の神格は男女両性として捉えられていたことはすでに述べたが、修験道が最盛期を迎えていた十四世紀頃から江戸時代前中期の十八世紀半ばまで富士山に祀られていたのが大日如来と赫夜姫(カグヤヒメ)であった。平安時代の竹取物語をモチーフにした女神は等身大の民衆の姿を映したものだった。

『富士縁起にみる比奈赫夜姫は、平安文学にみる超然とした「かぐやひめ」とはまったく異なり、一人の民衆としての人身時代を経験する。人見としての赫夜姫は、苦悩し、逃げ隠れ、嘘をもって男をだまし、男にしたがう。それは、現世で苦悩を負わざるをえない民衆の生き様そのものである。』(「富士山を知る事典」P262-263)

等身大の民衆を引き写した人身御供としての女神赫夜姫は、十八世紀に富士山から追放される。

江戸幕府は寛文五年(1665)の「諸社禰宜神主法度」以降、神社統制を強化していくが、その過程で台頭したのが「唯一神道」を唱え後に国家神道の成立に強い影響を与える吉田神道であった。富士山では仏教と共存する「両部神道」が主流であったが徐々に吉田神道が影響力を高め、十八世紀半ばごろから富士山の諸神社に支配力を行使するようになる。その吉田神道の影響下で記紀神話に基づく女神木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)が赫夜姫に代わる新たな富士山の女神として、十八世紀半ばごろから富士山の神社に次々と祀られていき、幕末までに赫夜姫は富士山から姿を消す。富士山の神格としての『木花開耶姫の全面的な展開は維新前後以降のこと』(P265)だという。

民衆の女神赫夜姫から、記紀神話を背景とした木花開耶姫への祭神の交替はそのまま修験道・民間信仰に対する神道の優越であり、この人知れず起きた女神の交替劇が、後の富士山での廃仏毀釈運動と、その後の富士信仰再編の伏線となっていた。

神仏分離政策と廃仏毀釈運動によって富士山の仏教信仰の痕跡は全て排除され、仏教由来の名称は全て変更、神仏習合の山から神の山へと富士山は生まれ変わることになる。それを主導したのが明治六年に富士宮浅間神社の大宮司に就任した平田篤胤を信奉する宍野半で、宍野は破壊の限りを尽くしたあと、明治十五年(1882)富士講を結集して新たに教派神道の一派として神道扶桑教という新興宗教を組織する。しかし、身禄色を取り除いた富士信仰は人を惹きつけることは出来ず、宍野の死とともに衰退した。

富士講は教派神道の一派としての再生を余儀なくされ扶桑教の他、新たに丸山教、実行教など諸派が誕生していくが、急速に神政一致の中央集権化を進める明治国家に従属させられていくことで、世直し運動という本質から乖離して民衆を惹きつける求心力を喪失していった。

維新後、民衆のプロテストの象徴という役割が急速に失われていく過程で、あらたにナショナリズムの象徴としての富士山という存在へと集約されていくことになる。

第八章 日本のシンボルとしての富士山の誕生

廃仏毀釈運動と富士講の衰退という世俗化のプロセスを経て、日本という近代国民国家の象徴として富士山は位置づけられることになった。そこには近代登山の誕生が大きく影響している。

幕末、イギリス公使オールコックは幕府の反対を押し切って富士山への登山を敢行した。幕府としては庶民、特に下層階級の人々が多く登る富士山の実情を見せたくなかったのだとされているが、登山を終えてオールコックは他の日本人巡礼登山者の悪臭や糞尿に悩まされたといいつつも、スイスのユングフラウと比較して富士山の美しさを称賛している。オールコックが富士登山を望んだのは、当時、欧州で上流階級の人々を中心に近代的な登山がブームとなっていたからであった。

オールコックに続いて幕末から明治維新後にかけて外国人たちが富士山を初めとした日本各地の山々に登山を行い、欧州のアルピニズムが日本にも紹介されると、文明開化を進める日本の上流階級・知識人を中心とした日本人たちがこぞって登山を行い始めた。

日本の近代登山の始まりは明治三十八年(1905)、小島烏水らによる日本山岳会の創設からである。日本での近代登山は『「近代国家」を支える一つの文化制度・風俗習慣として定着していった』(桑島「崇高の美学」P164)。日本へ欧州の近代登山思想を紹介し、登山普及の立役者となったのが「日本風景論」を著した志賀重昴である。志賀は日本風景の特性を瀟洒、美、跌宕(てつとう)の三つに分類し、近代国家としての日本固有のアイデンティティとしての山岳を知らしめた。そして富士山を『「名山」中の最「名山」』(志賀「日本風景論」P94)に位置づけ、『世界地図の中で富士山が中心にあるといった発想を展開する』(「富士山を知る事典」P528)。『「日本風景論」は日清戦争勃発の年に出版され、日露戦争を経て第一次世界大戦に至る時期、つまり日本のナショナリズムの高揚期に日本礼賛の書物として読み継がれてきた。』(小泉「登山の誕生」P144)

日本中に地元の地名と富士の名を冠した山を作る「ところ富士」(見立て富士、ふるさと富士)が見られるようになり、海外移民の間でも各地の山に富士の名が付けられる。現代では地域おこしの一環であるが、かつてはナショナリズムの発露であった。河東碧悟桐は『処富士の無きは、土地の恥辱であるとさへ考えられる。』(「富士山を知る事典」P528)と記している。また、尋常小学校唱歌「富士山」では「外国人もあふぐなり わがくに人もほこるなり」と海外から敬意をもたれる日本の象徴として歌われ、『昭和のはじめに発行された大人向けの雑誌「富士」の創刊号でも「日本精神の象徴として万国に仰がれる富士」と謳われている』(「富士山を知る事典」P532)

近代化のプロセスは湧きあがる民衆のエネルギーを国民国家がナショナリズムへと抱合していく過程である。近代登山の始まりとナショナリズムの台頭による富士山の地位の高まりが、日本のアイデンティティとしての富士山を形作っていった。

一方で、江戸時代に隆盛を誇った富士講はさらに衰退の一途を辿る。鉄道を初めとする交通網の飛躍的発達によって、富士山を訪れることは特別なものでも、積立を行う必要もなくなり、また新聞や雑誌の発達でメディアを通じて富士山を見ることが出来る。全盛期とはくらぶべくもない規模で、現代でもひっそりと富士講は続いているが、大多数の人々にとっては忘れられた信仰であろう。あるいは神社の一角にひっそりと立つ富士塚を見た、という程度だろうか。

富士山はいかにして日本のシンボルとなったか、その始まりに、ある無名の老人の死と、沸騰する民衆のエネルギーがあった。

参考書籍

富士山を知る事典
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富士学会による富士山の自然・環境・文化・信仰・歴史・社会全般を理解する事典。図書館で借りたが、ほぼどこも禁帯出でいくつか図書館を探して一箇所だけ貸出可のところを見つけて借りた。参考にしたのは同事典収録の以下の論文。
・堀内眞「富士登拝の歴史」
・若林淳之「富士山と仏教信仰」
・伊藤昌光「富士山と浅間信仰」
・時枝務「山岳宗教としての富士山」
・堀内眞「江戸の富士講」
・植松章八「富士信仰にみる赫夜姫」
・山口桂三郎「絵画に描かれた富士―北斎と広重を中心として―」
・松沼延幸「浮世絵と富士山」
・竹谷靭負「日本人のアイデンティティ・富士山」

富士山―聖と美の山 (中公新書)
上垣外 憲一
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富士山の宗教文化史をコンパクトに通観する良新書。この記事の論旨もこの本に近いが、特に食行身禄の周辺に傾注して書いたので、この本を補完する内容になっているのではないかと思う。

富士講の歴史―江戸庶民の山岳信仰
岩科 小一郎
名著出版
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富士講の歴史を総覧する専門書。幅広いが、研究者以外は読むには深すぎるかもしれない、って僕も素人ですので結構読み飛ばした。食行身禄についてはほぼこの本で網羅できる。身禄が生涯に書いた文書も全て収録されている。

徳川思想小史 (中公新書 (312))
源 了円
中央公論新社
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第二章の第六パラグラフの日本の啓蒙思想のところはこの本を参照している。古い本だけど、とりあえず江戸思想史はこれを入門にするのがよかろうと思う。

吉宗と享保の改革 (教養の日本史)
大石 学
東京堂出版
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規制緩和に挑んだ「名君」―徳川宗春の生涯
大石 学
小学館
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リバタリアン的な政策がブームで、それにのって過去の、例えば田沼意次とか荻原重秀の再評価の機運があるけど、意外と徳川宗春は注目されていない。とりあえずこの本は宗春の思想、生涯、吉宗の政策などほぼ網羅してあるので、興味がある人は読んでみると良いかも。

近世の飢饉 (日本歴史叢書)
菊池 勇夫
吉川弘文館
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徳川社会のゆらぎ (全集 日本の歴史 11)
倉地 克直
小学館
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登山の誕生―人はなぜ山に登るようになったのか (中公新書)
小泉 武栄
中央公論新社
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この本については以前書評を書きました。→「「登山の誕生―人はなぜ山に登るようになったのか」小泉 武栄 著」近代登山とナショナリズムについてはこの本と次の「崇高の美学」を参照。

崇高の美学 (講談社選書メチエ)
桑島 秀樹
講談社
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修験道 (講談社学術文庫)
宮家 準
講談社
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国家神道と日本人 (岩波新書)
島薗 進
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国家神道の成立については概ねこの本、あといくつか宗教史・神道史関連の本も参照した。

追記(2013/7/30)
この記事は上記の既存の富士講関連の書籍を元に構成したものですが、twitterで富士講研究者の大谷正幸氏から、食行身禄の思想については近年の研究で上記の内容には疑問が呈されて大きく認識が変わりつつある旨ご教示いただきました。大谷氏の論文と著書もあわせて紹介しておきます。
CiNii 論文 -  富士行者・食行身禄は本当に「ミロク」だったのか
・大谷正幸研究成果リポジトリ
「富士講中興の祖・食行身禄伝 中雁丸豊宗『冨士山烏帽子岩身禄之由来記』を読む」<

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