『「うちら」の世界』についての一私見

「うちら」の世界 – 24時間残念営業

がっつり長文の考察に引用で返す無礼をお許しいただきたいのだけど、フランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィルが1840年に書いた文章ですが、要するにこういうことではないかと思います。

『専制がこの世界に生まれることがあるとすれば、それはどのような特徴の下に生じるかを想像してみよう。私の目に浮かぶのは、数えきれないほど多くの似通って平等な人々が矮小で俗っぽい快楽を胸いっぱいに思い描き、これを得ようと休みなく動きまわる光景である。誰もが自分にひきこもり、他のすべての人々の運命にはほとんど関わりをもたない。彼にとっては子供たちと特別の友人だけが人類のすべてである。残りの同胞市民はというと、彼はたしかにその側にいるが、彼らを見ることはない。人々と接触しても、その存在を感じない。自分自身の中だけ、自分のためにのみ存在し、家族はまだあるとしても、祖国はもはやないといってよい。
この人々の上には一つの巨大な後見的権力が聳え立ち、それだけが彼らの享楽を保障し、生活の面倒をみる任にあたる。その権力は絶対的で事細かく、几帳面で用意周到、そして穏やかである。人々に成年に達する準備をさせることが目的であったならば、それは父権に似ていたであろう。だが、それは逆に人を決定的に子供のままにとどめることしか求めない。市民が楽しむことしか考えない限り、人が娯楽に興ずることは権力にとって望ましい。権力は市民の幸福のために喜んで働くが、その唯一の代理人、単独の裁定者であろうとする。市民に安全を提供し、その必要を先取りして、これを確保し、娯楽を後押しし、主要な業務を管理し、産業を指導し、相続を規制し、遺産を分割する。市民から考える煩わしさと生きる苦労をすっかり取り払うことができないはずがあるまい。』(トクヴィル「アメリカのデモクラシー〈第2巻(下)〉 (岩波文庫)」P256-257)

子供たちの世界と言うのはどうしても大人と言う後見的権力の影響下にあるので疑似的な、トクヴィルのいう専制権力下の平等的人間関係で社会が構成されざるを得ない、ということでしょうたぶん。インターネットというのはその彼らにとっての「人類のすべて」を容易に大人たちも含めた広い社会に接続することになるのだけど、その差異は無自覚であるだけに気付きにくい。その両者をつなぐのが大人の役割であるはずだけど、インターネットはその中間的権力を排除して直接両者をつなぐし、むしろ子供たちの側も大人の介入を極力排除して「うちら」だけの社会として存立させたいと願うことになる。

じゃぁ、その差異をどのように自覚させるか、が最大の課題になるのだけど、むしろ大人の社会の方もその差異そのものに無自覚であるし、しかも、ほんの小さな、しかし決定的な変更だけで成り立っているから、非常に困難なのだと思います。大人の社会と子供たちのその社会との差異というのは、別に市民社会がとか責任ある自立した個人がとかではなく、「うちら」集団に対する外部の目の存在を意識して成り立っているかいないかという違いでしかない。子供の社会が後見的権力に対する無自覚さによる平等な関係の享受で成り立っているとすると、大人の社会は相互に外部の目を意識しあうことでの複合的関係性によって虚構の後見的権力を生み出している、といえるのではないだろうか。一般的にいうところの「世間体」「世間の目」ですね。

そのような差異の小ささの点で子供の社会と大人の社会、あるいは学歴・教養・収入といった基準によってもまた明確に分かれるものではなく、若者の世界、低学歴の世界というように「われら」と「かれら」とで簡単に分離して考えていいものなのか、という点で疑問は残る。違うように見えて実は類似の社会構造をもっているのではないだろうか。だとすると大人の社会もまた、その規範に無自覚であると言え、ますます似通ってくるようでもある。

興味深い記事だったので一時間ぐらいでメモ的に私見をざっくりまとめただけなので、かなり荒いと思うけど、まぁ大まかなところではこんな感じで考えています、という記事でした。

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