司法制度を形骸化させた刑事訴訟法の成立の歴史

以前、『「自白の心理学」「取調室の心理学」浜田 寿美男 著』の記事で、密室での自白偏重など近代法とは思えない制度を残しているのは何故だろう?という疑問を呈したが、その後現行の刑事訴訟法成立前後の近代的な司法制度が形骸化した経緯について簡単に調べてみたので、大まかにまとめておく。

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刑事訴訟法の近代史

明治政府成立後、近代国家建設と不平等条約解消のため民法刑法典の制定が急務となり、明治六年(1873)、フランスから法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードが招聘される。明治九年(1876)、改定律例によって江戸時代に制度化されていた拷問制度が廃止され、続いて刑法典と治罪法典(刑事訴訟法)の編纂が始められた。

治罪法制定

明治十三年(1880)、ポアソナードによる治罪法草案が元老院と内閣の修正を経て「治罪法」として制定、明治十五年(1882)施行される。この「治罪法」は主に三つの特徴からなっていた。(白取P20)第一に私訴制度で、公訴とあわせて犯罪被害者の損害賠償請求を可能としていた。第二に予審制度で、起訴前予審を禁止し、検察官の関与を排除して起訴後に予審判事が被告人尋問と必要に応じての身柄拘束・証拠収集を行うことで、検察・警察に対し一定の司法的規制が図られた。第三に草案にあった陪審制度の削除で、後に明治憲法起草時に伊藤博文と鋭く対立することになる井上毅が『「陪審裁判を行わせたら新政府が作る新法律の違反者が片端から無罪にされて、新政府の政策遂行は麻痺し、暴動や革命も起きかねない」と太政官を説得して』(沢登P96)、陪審制に替わり上級裁判官による裁判に修正、施行された。

大正刑訴法の制定

大正十一年(1922)、高橋是清内閣の時に大正デモクラシーを背景として新しい刑事訴訟法(「大正刑訴法」)が制定、大正十三年(1924)一月一日より施行される。『予審段階から被告人は弁護人による防御が可能となり』、『弁護人の、公訴提起後の記録閲覧・謄写権、接見制限の禁止、被告人の黙秘権』(白取P21)など人権保護・弁護権保障が定められるとともに、大正十二年(1923)、加藤友三郎内閣の時、治罪法制定時に排除された陪審制度を定めた「陪審法」が制定された。その背景には日本弁護士協会を中心とした運動とあわせて『「陪審制がないのは文明国の体面にかかわる」という右翼官僚の主張が後押し』(沢登P97)したという。

大正陪審制度は四つの特徴

当時の陪審制度は四つの特徴が挙げられる。(白取P22、石田P133-134)
1) 敗訴時には被告は陪審費用を負担すること、陪審判決の場合には控訴できないことなどの条件が付された上で、被告人は陪審裁判を受ける権利を放棄できると定められた
2) 陪審員の資格に納税額の制限と30歳以上の男子であることなどの条件が付されていた
3) 陪審の答申は多数決主義がとられていた
4) 陪審の決定は判決ではなく拘束力のない答申であった

陪審制の導入自体は大きな前進であったが、明治憲法体制と言う限界から上記のような致命的と言って良い欠点を抱えていた。それでも施行されていた昭和三年から昭和十七年にかけての陪審裁判の無罪率は16.7%(旧刑訴法の大正十三年から昭和十五年の無罪率は2.5%)と、制度としては不完全ながら推定無罪の観点からは少なからず有効に機能していたとされている。ちなみに平成十七年度の全国地裁の否認事件の無罪率(全部無罪・一部無罪合計)は2.21%、全部無罪に限ると0.08%である。(石松P24)

陪審制度の停止と形骸化

しかし、大正十四年(1925)、関東大震災後の混乱とロシア革命の余波による共産主義運動の台頭などの対策として「治安維持法」が制定、昭和三年(1928)の同法規制強化、昭和十六年(1941)の全面改正による戦時体制の成立という検察官への権限集中がなされていく過程で大正刑訴法と陪審法は次第に形骸化を余儀なくされ、昭和十八年(1943)、陪審法は「今次ノ戦争終了後再施行スルモノ」(白取P22)として停止された。

戦後、GHQによって民主化政策の一環として刑事司法改革が進められる。戦前の治安維持法体制下の刑事司法制度について、占領軍総司令部民政局法規課長マロイ・E・ラウエルはレポートでこう評価した。

『日本では、個人の権利の最も重大な侵害は、種々の警察機関、とくに特別高等警察および憲兵隊の何ら制限されない行動並びに検察官(検事)の行動を通じて行われた。あらゆる態様の侵害が、警察および検事により、一般の法律の実施に際し、とりわけ思想統制法の実施に際して、行われた。訴追されることなくして何ヶ月も何年間も監禁されることは、国民にとって異例のことではなく、しかもその期間中、被疑者からの自白を強要する企てがなされたのである。』(白取P24)

刑事訴訟法の誕生

日本国憲法の施行日にあたる昭和二十二年(1947)五月三日にあわせてまず「応急措置法(日本国憲法施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律)」が、続いて昭和二十三年(1948)七月十日に「新刑事訴訟法(刑事訴訟法を改正する法律)」が施行されて、以後幾度かの改正を重ねつつ現在に至ることになるが、この成立に際しての議論の紆余曲折が、日本の司法の遅れに大きく影響を与えている。

48年改正法の特徴は以下の通り(白取P25)
1) 捜査の適正化のための令状主義・強制処分法定主義の導入、弁護人依頼権の保障・強化
2) 起訴状一本主義と訴因制度、交互尋問などにみられる英米型当事者主義の採用
3) 適正な事実認定のための自白法則、伝聞法則など証拠能力制度の採用
4) 控訴審の事後審化と不利益再審の廃止
5) 秘密・糺問の予審制度廃止、強制捜査権限の検察・警察への集中
6) 陪審制採用見送り

まず「戦争終了後再施行」とされていた陪審制度についてはGHQの方針で統治政策に支障を来たす懸念から採用が見送られた。そして、刑事訴訟法制定に際しての議論では検察側が予審制度の廃止を強く主張した。予審権限は大正刑訴法では判事にあったが、戦時刑事特別法では検察が掌握、強制処分権限を担い強権をふるう源泉となっていた。主張としては裁判所が証拠収集から裁判までを行う職権主義の予審制度では公判の形骸化の恐れがあり、予審制度を廃止して検察・警察に捜査と証拠収集を任せ裁判官の予断を排除し(起訴状一本主義)、検察官が証拠を公判に提出、弁護人がそれに反論して当事者が対等に弁論を闘わせる(公判中心主義)ことで、当事者主義の司法制度が確立される、というものだ。

戦後の刑事訴訟法の問題

司法原則としては筋が通った議論で、この考えに基づいて法案も整備されることになるが、日本の場合、これが司法の健全化ではなく検察警察の権限集中と司法制度の形骸化を招くことになる。第一に陪審制度の不採用という前提である。通常裁判の審理過程は事実認定、法令の適用、刑の量定の三段階に分けられ、英米を初めとする諸外国では捜査過程が警察、訴追と公判活動が検察、事実認定が陪審員、法令の適用と刑の量定が裁判官に分担・相互に牽制するプロセスとなっているが、日本の場合、捜査・訴追・公判活動が検察警察が一体となり、事実認定以降裁判官の職責となる。

第二に予審制度は予断排除の原則と糺問的手続きの否定から諸外国でも廃止の傾向だが、当時の大正刑訴法の場合、検察・警察に対する司法的規制という側面が強かった。治罪法、大正刑訴法とも予審判事の権限として『召喚状、勾引状、勾留状、検証および物件差押え等』を定めていたが、『現行法は、予審を全面的に廃止したにもかかわらず、これまでの法典構成を踏襲』(白取P6)、裁判官による令状発行によって捜査機関がこれら強制処分を行うものとした(令状主義、強制処分法定主義)。

しかし、これらは裁判官と検察・警察の関係が対等の場合にのみ機能するもので、検察・警察が優位になることで容易に形骸化する。裁判所の裁判官人事は検察・警察を束ねる内閣の指名および任命により(裁判所法第三十九条、第四十条)、行政機関からの一定の圧力を余儀なくされ、また検察から裁判官へと進む判検交流制度が第二次大戦直後から人材難を背景として慣習として始まっていたことで両者の癒着は当初から強かったため、予審制度の排除と陪審制の見送りは自ずと検察・警察権の強化へと繋がった。ほどなくして、強制処分時の令状発行も司法審査が充分に機能しなくなることで濫用傾向が強まり、「令状主義の形骸化」が進み、旧予審判事の権限は実質的に検察・警察が握ることとなった。さらに、一部の学説では『刑事訴訟法に規定されている強制処分は法定の令状主義に従うが、写真撮影や立法化以前の盗聴のような新しいタイプの強制処分については、端的に規定がないことになるから、直接に強制処分法定主義は及ばない』(白取P83)として、強制捜査に関して柔軟な法運用が可能との解釈もある。

刑事訴訟法立案担当者の一人であった法学者の故・団藤重光は後年こう述懐しているという。

『「新刑訴法起草当時、私を含めて日本側委員は英米刑訴法の内容を今から思うと信じられないほど知らなかった。そのため、アメリカ側のオプラー委員長がしきりに予審制度を残すようにと勧めてくれて『あなた方は予審という言葉がお嫌いのようだから、予調としてはどうか』とまで言ってくれたのに、旧予審は悪いものと思い込んで拒否してしまった」「しかし今になって、予備審問は令状主義と一体の制度で人身保護上大きな役割を持っており、憲法もこの種の制度を予定していたことに気付いた。予備審問を設けておくべきだった」(『刑事裁判と人権』公法研究三十五号、昭和四十八年)』(沢登P100-101)

検察側が一枚も二枚も上手だったということか、巧みに正統派の法原則を主張しつつそれをカモフラージュにして検察警察側が実質的に戦時体制下に握っていた強力な権限の温存に成功したというのが現在の刑事訴訟法成立時の駆け引きであった、ということのようだ。

このようにして捜査権を独占した検察・警察に対する監視・牽制が有効に機能しないことで、司法制度の形骸化が戦後から現代に到るまで進行し、自白偏重と非公開の取調べによる数々の冤罪事件や代用監獄などの人権侵害問題などを生み出し続ける温床となっている。抜本的な司法制度改革の必要性が戦後一貫して訴えられ、国際社会からの批判も繰り返し行われてきたものの、部分的な改正に留まり、半世紀以上遅々として進んでいない。

現状の検察警察機構は、自由民主主義体制と言う体裁、現行憲法の諸規定と世論が辛うじて暴走を掣肘しているという状態に過ぎず、必要とあればいくつかのハードルを越えるだけで戦前に近い権力行使が可能なだけの権限を温存している、というのが漠然とながら見えてきたと思う。

参考書籍
・白取祐司「刑事訴訟法 第3版」
・奈良新聞社「司法の犯罪(冤罪)は防げるか―裁判員制度を検証する」(沢登佳人、石田文之祐、石松竹雄各論考)
・浜田寿美男「自白の心理学 (岩波新書)
・浜田寿美男「取調室の心理学 (平凡社新書)
・成田龍一「大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉 (岩波新書)
・坂野潤治「近代日本の国家構想―1871‐1936 (岩波現代文庫)
・中澤俊輔「治安維持法 – なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)
・新藤宗幸「司法官僚―裁判所の権力者たち (岩波新書)

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