日露戦争直後、東京を火の海にした暴動「日比谷焼打ち事件」と大正デモクラシー

承前
以下の三つの記事を前提としてお読みいただくと大きな流れがよりわかると思います。
1920-30年代日本の失業問題と失業対策を断固拒否した財界人の意見まとめ
「明治国家の終焉 1900年体制の崩壊」坂野 潤治 著
「桂太郎 – 外に帝国主義、内に立憲主義」千葉 功 著

過去のいくつかの記事で日露戦争から大正政変へと至る二十世紀初頭の日本の政治経済状況に関して取り上げたが、特に同時代でターニングポイントとなったのが日露戦争終結直後の講和反対・戦争継続を訴えた民衆暴動「日比谷焼打ち事件」である。日露戦争の終結を巡る政府と民衆との対立は後々まで近代の日本が進んでいく方向性を定めたといってよい。いくつかの書籍から同事件前後の流れについて簡単にまとめてみよう。

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1)日露戦争下で鬱積する国民の不満

日露戦争に際して、明治日本は国を挙げて多大な犠牲を払った。動員された将兵約百八万人、戦死傷者約二十万人うち戦死者約八万四千人、費やされた戦費二十億円で、その戦費調達の為に限界を超えて外債を募集し国債を発行し様々な増税を断行し、戦前と終戦時では民衆の税負担は約二倍にまで跳ね上がっていた。民衆は勝利を信じて、また次々と報道される大本営発表に基づく日本軍の活躍に愛国心を燃やして重税と犠牲に堪えていた。

開戦から一年を経て旅順要塞攻略、奉天会戦でのロシア軍撤退、日本海海戦でのバルチック艦隊撃滅と戦局を優位に進めたが、最早戦費が尽き、是が非でも講和が必要であった。米国ルーズベルト大統領の仲介で始められたポーツマスでの会議はロシア優位に進み、朝鮮半島・南樺太の領有や旅順・大連の租借権、満州鉄道の権益などは認められたものの賠償金は一切無しとして条約が締結される。

講和を最優先に考えればやむを得ない譲歩であったが、これに驚いたのが多くの国民であった。破竹の快進撃という大本営発表に基づく主戦論一色の新聞情報しか知らないから、賠償金無しとはどういうことなのか、さらに戦争を継続してロシアを徹底的に痛めつけ、賠償金を確保するべきではないか、賠償金無く戦争が終わったらこれまでの苦労は報われないではないか、そんな意見が国民が大なり小なり共有する怒りとなった。

黒岩比佐子著「日露戦争 ―勝利のあとの誤算」に紹介されている東京朝日新聞に掲載された戦死した兵士の遺族という匿名の人物からの投書が民衆の怒りを端的にあらわしている。

『「国民は政府当局者を信頼して、子を殺し、夫を殺し、親を殺し、且増税に堪え、有らゆる犠牲を供して戦勝の結果を待ちしに、何ぞ図らん大屈辱的講和を為して、国民の犠牲を顧みざらんとは、此上は満韓の野に斃れし亡霊、日本海に沈みし霊魂、大挙十万の軍を作り手、先づ桂首相の愛妾おこいを噛み殺し、次で大屈辱を招きし関係者を攻亡ぼせ」』(P22)

愛妾おこいとは、桂太郎首相の元芸妓の愛人お鯉で、増税に民衆があえぐ中で贅沢な暮らしをしていると主にゴシップ系の新聞から総攻撃されていた。

2)「対外硬(国民主義的対外硬派)」

このような情勢を背景として、特に発言力を持ち活発に活動したのが「対外硬(国民主義的対外硬派)」と呼ばれる勢力である。「対外硬」は明治期の不平等条約改正を巡って軍事力を背景とした強硬な外交によって解決すべきと主張した勢力で自由民権運動前後から諸派が登場し、日清戦争後の列強による三国干渉を契機として、対ロシア強硬論として盛り上がった。

日露戦争前後から対外硬の主流となる流れとして、まず「日本新聞」主筆の陸羯南(くがかつなん)の「日本」グループが中心となって結成された「東亜会」と貴族院議長近衛篤麿(と大陸浪人らからなる「同文会」、そして両者が合併して明治三十一年(1898)に設立された「東亜同文会」がある。同会には犬養毅、徳富蘇峰、池辺三山、星亨などが参加していた。いわゆるアジア主義の流れと大いに重なり合う。

明治三十三年(1900)、北進事変を契機にして、「東亜同文会」の中核メンバーに「玄洋社」や大陸浪人の一派をあわせて結成されたのが「国民同盟会」で近衛を中心に玄洋社の頭山満から中江兆民まで幅広い著名人が会員となっていた。明治三十五年(1902)に「国民同盟会」は解散、その翌年に頭山満、衆議院議員の河野広中らによって「対露同志会」が結成、政府に対ロシア開戦を強く働き掛け、明治三十七年(1904)、日露戦争開戦によって目的を果たしたことで活動停止、戦局が優位に進むと、対露強硬派の七人の帝国大学教授からなる「帝大七博士」と「対露同志会」は講和条約案として賠償金三十億円、樺太・沿海州全土割譲の要求を発表、世論を大いに盛り上げた。

ところが、講和交渉で賠償金が取れないこと、領土は南樺太と朝鮮半島に止まることなどが報じられると、対露同志会、頭山満の弟子にあたる内田良平率いる「黒龍会」、河野広中ら対外硬派の議員や弁護士などによって、賠償金や領土割譲の要求が容れられない場合には戦争継続をすべきと主張する「講和問題同志連合会」が結成、講和条約締結が報じられると条約破棄を訴えて演説会を繰り広げ、多くの支持者が集まった。同会の活動に触発されて東京だけでなく日本各地で講和反対・戦争継続を訴える主張が見られるようになり、桂首相宅に石が投げられるなど日本中が騒然としはじめる。

明治三十八年(1905)九月一日、同会は同五日に日比谷公園で国民大会を開くことを告知、これに対して政府も同会に集会の禁止を通知するが、同会はこれを突っぱねて大会を強行する。かくして、日本近代史上初の行政戒厳令まで敷かれることとなる市民暴動「日比谷焼打ち事件」が勃発する。

3)「日比谷焼打ち事件」

九月五日の朝までに日比谷公園は警察によって封鎖されていたが、黒龍会の内田良平、「講和問題同志連合会」幹部衆議院議員の小川平吉(宮澤喜一元首相の祖父)や同じく衆議院議員の大竹貫一らが群集を煽動してバリケードを突破、開催時間の午後一時までにおよそ三万の人々が集まり(主催者側記録では約十万人)、代表の衆議院議員河野広中が演説に立って「条約破棄・戦争継続」を訴えて気勢をあげた。小川平吉は会場に向かう途中刑事五人に捕まりそうになるが、周囲の群衆に「この国賊を葬れ!」と叫び、群集が刑事らを袋叩きにして事なきを得た。

どのようにして集会が暴動へと展開したのかは未だによくわかっていないという。同日午後一時四〇分頃、別の演説会場として予定されていた京橋区の演劇場新富座(現在の東京都中央区新富)に集まっていた群集に対して、田川誠作京橋警察署長が解散命令を出すが、これに対して群集が投石を行い、弁士の小川平吉が解散の不当を訴えてもみ合いとなった。このとき聴衆として集まっていた横須賀の県議会議員小泉又次郎(小泉純一郎元首相の祖父)が捕縛されて電柱に逆さ吊りにされたという微笑ましいエピソードもある。

午後二時、桂太郎内閣の御用新聞として大本営発表を繰り返していた徳富蘇峰の「国民新聞」社屋周辺に約五千人の群衆が集まり、「非国民新聞」と叫んで投石を開始、これに対して蘇峰の長男を初めとする社員らは次々と日本刀を抜いて群集に切り込み、乱入を防いだ。

同日の二時から三時頃にはすでに暴徒化していたらしく、同二時頃、日比谷公園正門前の内務大臣官邸周辺の群衆が警官隊に投石を開始、これに対して午後三時、防ぎきれなくなった警官隊はついに抜刀して群集に襲い掛かった。これに激昂した人々は午後六時に官邸に火を放ち「万歳」と叫ぶ。火の手が上がったことで歯止めが効かなくなり、五日の夕方ごろから六日までにかけて東京全市の交番の『約八割に当たる二百六十四カ所と、警察署・警察分署九カ所』(黒岩P84)に火が放たれ、さらに市街電車計十五台も炎上、本所・浅草・下谷のキリスト教会十三カ所と御茶ノ水のロシア正教会ニコライ堂にも暴徒が放火しようとした。また、前述の桂太郎首相の愛人お鯉宅も暴徒が取り囲み、お鯉らは間一髪逃走に成功している。

警官隊も抜刀して切りかかったことで、歯止めがきかなくなっていた。様々な目撃証言が、逆上した警官たちが暴徒・見物人・無関係の市民など誰彼かまわず斬りつけて負傷させていることを語っている。取材していた郵便報知新聞社社長矢野龍渓は『警官等は暴行者をも見物人をも見分けず、十把一からげ、玉石混淆、無闇矢鱈に抜剣して人民を追立て斬りまくる』(黒岩P90)と書いている。負傷者のほとんどは主に警察が抜刀して斬りつけたことによるものだ。また、暴動に参加していたか否かを問わず片端から市民が逮捕されていった。

民衆・警官とも暴走して混乱が混乱を呼び、五日のうちに暴動は銀座から東京全土へと拡大、さらに他の都市へと飛び火する勢いとなった。

4)「戒厳令」

九月五日夜、警視総監から東京衛戍総督宛に治安出兵の要請がなされ、二個師団が出動する。当時の法令では治安出動は知事から師団長または旅団長への請求とされていたが、その規定を無視して警察から直接陸軍への請求となっていた。翌六日、枢密院本会議で桂首相は戒厳令の施行を主張する。

明治国家における戒厳令は明治十五年(1882)施行された。第一条で「戒厳令は戦事若くは事変に際し兵備を以て全国若くは一地方を警戒するの法とす」(北P9)と定め、戦時下において地方行政・司法を軍の統制下に置き市民の自由や権利を制限することが出来るとされていた。ここで重要なのは戦時下に限定されているということだ。これは近代法であれば当然のことで戒厳令によって軍は諸権利を侵害することができ、容易に暴走してしまう。ゆえに戦時に限定されるもので、欧州の近代法を倣って制定された明治の戒厳令も同様であった。

戦時に限定された戒厳を平時にも実施しようというのが桂太郎の主張である。法律用語では前者を真正戒厳、後者を行政戒厳と呼ぶ。枢密院本会議でも枢密院顧問官の間から「日比谷焼打ち事件」に対する行政戒厳の施行に対して戒厳令ではなく治安出兵に留めるべきとして異論が続出する。秩父事件など過去の同程度の暴動でも全て治安出兵として扱われていたし、暴動状態を戦時下と認定するのはさすがに無理があるし、そもそも戒厳令法は平時の戒厳自体を想定していないから、その異論は当然説得力があった。

そこで桂は戒厳令法によらず戒厳令と同様の効果を及ぼす方法として、大日本帝国憲法第八条「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」と定められた緊急勅令に基づいて、あくまで一時的な緊急立法として行政戒厳の実施を唱えた。閣僚と枢密院顧問官らの間で議論の後、桂首相が意見を押し通す形で決定、天皇に奏上され緊急勅令に基づいて即日施行された。日本近代史上初の行政戒厳である。

もともと民衆は桂内閣への反感から政府の手先としての警察を含めて怒りと憎悪を持っていた反面、日露戦争で活躍した軍に対しては信頼が篤かったし、また軍も民衆への発砲は慎重に控えていたので、軍が展開すると次第に暴動は沈静化していった。暴動の鎮圧という面では充分に行政戒厳を敷かずとも治安出兵で足りた。桂首相の狙いは行政戒厳を敷くことでの反政府的な主張を行う新聞や、主に社会主義活動家・団体の弾圧にあった。九月七日から九日にかけて軍事力を背景に桂内閣批判の急先鋒であった東京朝日を始め次々と新聞に対して発行停止が命じられる。

日露戦争時、新聞各紙が揃って戦争賛美の論調の中、幸徳秋水らの「平民新聞」だけは一貫して非戦を訴え明治三十八年(1905)一月に政府の弾圧で廃刊となっていたが、その後も後継誌「直言」を発行して一貫して戦争終結を訴え、ポーツマス条約締結で講和反対運動が盛り上がると政府批判に与せず、しかし、日比谷焼打ち事件と戒厳令施行に対しては政府に猛省を促す社説を書いた。これに対し政府は無期発行停止処分と言う政府批判を繰り返す他紙とは比較にならない最も重い処分を科し、平民社メンバーが逮捕されたり、厳重な監視が付けられた。戒厳令に便乗して社会主義者の弾圧を始めている。

暴動は数日で鎮圧されたが戒厳令は十一月二十九日まで続けられ、その間多くの新聞が発行停止に追い込まれ、結社や集会が禁止され、理由なく市民が逮捕されたり、家屋・建物への立ち入り・無断の捜索など大きく権利が侵害されることとなった。そして、後世に及ぼした最大の問題は、これが先例となったことだった。以降、関東大震災、二・二六事件などでたびたび行政戒厳が施行されるが、その手続きはこの日比谷焼打ち事件での行政戒厳の手法を踏襲して戒厳令法によらず緊急勅令に基づいて軍が司法・行政全般に強権を発動することとなった。

5)日比谷焼打ち事件が生んだ大正デモクラシー

九月五日に日比谷公園に集まった人々は、講和反対に賛成する中小商工業者や知識人、軍人・軍属、軍人遺族等からなる「旦那衆」と、人足、車夫、職工、商人など都市で雑業に携わる「雑業層」からなっていた。逮捕者の多くは後者の雑業層出身者からなっており、暴徒化したのが主に日露戦争の影響を直接的に受けた都市下層の人びとであったことがわかっている。両者が一体となっての運動と言うよりは、それぞれ集会と騒擾という別の活動であり、講和反対の国民大会開催を契機として、前者が講和反対・戦争継続という政治スローガンに賛同して集まり、後者が日露戦争や政府の諸政策による日々の困窮から来る政府への不満から集まっていた。

結局、帝都騒擾に関して暴徒化した雑業層の人びと、「講和問題同志連合会」の主要メンバー、さらには無関係なはずの社会主義者たちなど二千名以上が検挙され三七七人が起訴されたが、直接的に暴動を扇動した首謀者はいずれも証拠不十分でみつからず、うやむやになっていった。様々な目撃証言から騒擾事に各地に現われては暴動を煽る複数の人物がいたようなのだが、正体は不明のままだったという。一説には黒龍会の内田良平の配下の者達ともいわれるが定かではない。

結局条約破棄が望めないことがわかると、「講和問題同志連合会」は解散、新たにメンバーは「国民倶楽部」を設立する。その設立趣意書で打ち出されたのが「内に立憲主義、外に帝国主義」というものだった。

『抑輓近列国競争の局勢を支配する二大潮流あり。此に順ふものは興り此に逆ふものは衰ふ。二大潮流とは他なし、其一は即ち立憲主義にして、其二は即ち帝国主義なり。而して此二主義は併行れて相悖るものに非ず、即ち内立憲主義を取り、外帝国主義を行ひ、表裏相依り相須ちて始めて方今の大勢に応ずべし。顧ふに此二主義は国民的自覚に発して国民的自信に立ち、国民的活動に依りて大成するものなり。』(黒岩P235)

この「内に立憲主義、外に帝国主義」がその後の近代日本の思想・政治・社会を大きく規定する国民的目標となる。民主主義・自由主義と国権主義・対外侵略・排外主義とが「国民」の名の下に結合して、藩閥や圧制への批判の主体としての「国民」、膨張主義的な軍部・国権拡大を支持する主体としての「国民」とが矛盾なく登場し、大正デモクラシーを実現させるのとまったく同時期に植民地の拡大と同化政策とが推し進められ、普通選挙制度と治安維持法とが同時に成立することに繋がっていく。

対外硬が苛烈に批判した桂太郎は翌明治三十九年(1906)に内閣総辞職で政友会の西園寺公望に政権を譲り、以後交互に政権交代を行う「桂園時代」へと突入するが、日露戦争気を含め三度に渡る首相在任中の事跡はまさに自身に対する批判として向けられた「内に立憲主義、外に帝国主義」の実践者としての様相であった。ゆえに、日比谷焼打ち事件以来の大規模民衆暴動となった大正二年(1913)二月の騒擾事件(大正政変)によって第三次桂内閣が総辞職を余儀なくされ、桂が新党結成を呼び掛けたとき、桂の下に集まったのは河野広中ら対外硬の主要メンバーたちであった。桂新党「立憲同志会」が後に民政党となり、大正デモクラシー時の二大政党の一翼を担うことになる。

この「内に立憲主義、外に帝国主義」をスローガンとした対外硬派の流れを汲み1920年代にかけて吉野作造・新渡戸稲造らの民本主義、幸徳秋水・山川均らの社会主義、橘孝三郎・北一輝らの国粋主義という三つの流れが登場し、それぞれが対立しあるいは補完しあうことで近代日本の思想・社会運動を形作ることになる。また、日比谷焼打ち事件の主体となった旦那層と雑業層も廃税運動、米騒動など以後の様々な市民運動や騒擾事件の主体として、強く影響を及ぼしていく。

『日露戦争後の都市民衆騒擾をきっかけに、民本主義の潮流として台頭した大正デモクラシーは、第一次世界大戦とロシア革命、米騒動により加速し、「改造」の動きを生み出した。雑業層や旦那衆、労働者・農民、あるいは女性、被差別部落や植民地の人びとが、それぞれの立場からアイデンティティを掲げ、社会変革を訴えた。また、こうした各階層の主張は「日本人」や「国民」と重ねられてもいた。そして、この動きによって、普通選挙法と治安維持法による一九二五年体制が創出される。』(成田P237)

排外主義・膨張主義の主張が市民の結社活動を活性化し、やがてデモクラシーと個人の尊重と軍部の台頭と国権の強化とをパラレルに巻き起こしつつ、「国民」「日本人」という観念を強化して、やがて抑圧の時代へとひた走っていく。侵略と自由の奇妙な共存を唱えた人々やその後継者たちは、やがて戦争か自由かという二者択一を突きつけられたとき、自由を捨てて戦争を選ばざるを得なくなっていた。

栄光の時代があって暗黒の時代があったのではない。栄光の時代を成立させていた土台が同時に暗黒の時代を準備していたのである。

参考書籍

日露戦争 ―勝利のあとの誤算
黒岩 比佐子
文藝春秋
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「日比谷焼打ち事件」の流れをかなり詳細に描いたとても面白い一冊で、この記事でも大部分(主に、2)、3))は本書の記載に基づいている。しかし、残念ながらどうやら絶版のよう。

大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉 (岩波新書)
成田 龍一
岩波書店
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日比谷焼打ち事件を端緒に大正デモクラシーの終焉と昭和恐慌下の社会についてまでを描く、シリーズ日本近現代史の第四巻。このシリーズはいずれの巻も新書サイズにコンパクトにおさめつつ要点を押さえて質が高いのでおすすめ。

戒厳 その歴史とシステム (朝日選書)
北 博昭
朝日新聞出版
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近代日本における戒厳令の成立や法構成、また現代の有事法制との関係などについて詳述した戒厳について理解するためのコンパクトな一冊。別の機会に本の紹介記事を書くつもり。

明治国家の終焉 1900年体制の崩壊 (ちくま学芸文庫 ハ 32-1)
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紹介記事→「「明治国家の終焉 1900年体制の崩壊」坂野 潤治 著

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紹介記事→「「桂太郎 – 外に帝国主義、内に立憲主義」千葉 功 著

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社会背景理解のための日本経済史通史のおすすめの一冊。

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