「モンゴル帝国と長いその後 (興亡の世界史)」杉山 正明 著

1206年、騎馬遊牧民の小集団の部族長であったテムジンはモンゴル高原の騎馬遊牧民を統合してチンギス・カンと名乗り、東西に文字通り怒涛の進軍を開始。その子、孫に至るまでのおよそ半世紀をかけて次々と周辺諸国を併呑し、ユーラシア大陸の大半を版図とする史上空前の大帝国モンゴル帝国が登場する。

本書ではモンゴル帝国の成立をもって、一三世紀から一五世紀にかけてのユーラシアとアフリカとが緩やかに繋がり一つのシステムとして動き始める「アフロ・ユーラシア世界」の誕生の契機と位置づけ、さらに一九世紀・二〇世紀初頭まで続くロマノフ朝ロシア帝国、ムガル朝インド帝国、清朝中国(ダイチン・グルン)、オスマン帝国など多数の世界帝国をモンゴル帝国は胚胎することになるが、モンゴル帝国の興亡から「帝国史」を俯瞰する。世界史の画期としてのモンゴル帝国を描く非常にスケールの大きな一冊だ。

モンゴル軍の強さはどこにあったのか?著者は、モンゴル兵は個々人として見れば他国の兵と大差ないという。モンゴル軍の強さは兵個人の強さにでは無く、その軍事制度と、作戦指揮にある。

チンギス・カンは統一モンゴルの制度をかつての匈奴の軍制に倣いつつ、ピラミッド型の組織を形成した。中央にチンギス・カン、右翼に三人の息子、左翼に三人の弟が配され、その有力王侯六人の下に計二四個の軍事単位が展開する。これらは九五個の千人隊から構成され、匈奴の兵制と同じく十進法で十人隊、百人隊などが存在した。これらは軍事単位であると同時に生活共同体でもあり、武器や糧食は自給自足で集め、各部族とモンゴルと両方に二重の帰属意識を持っていた。当時の諸国の軍は、常備軍は珍しく、傭兵や民兵・ごろつきなどからなり、忠誠心はさほど高くなく統率がとれていないのが当たり前であったから、統率力・組織力で格段の差があった。

次に、モンゴル軍というと、騎馬軍団が次々と力でねじ伏せるという印象が強いが、むしろモンゴル軍の特徴は「戦わない軍隊」であったという。

『外征に先立ち、チンギスとその周辺は、自軍にたいしては、徹底した準備と意思統一、敵方については、これまた徹底した調査と調略工作をおこなった。いずれも、たいてい二年をそれにかけた。できれば、戦うまえに、敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向けた。モンゴル遠征軍は、おおむねことが済んだあとを、ただ行進すればよかった。』(P126)

勝算が無ければ戦わないし、少しでも劣勢になれば潔く撤退した。逆に、敗北するときは概ね準備不足や想定外の事態に陥った時であった。これは騎馬遊牧民同士の争いが、主に談合や調停が中心であったことの延長で外征に適用したものであるらしい。また、敵でも降伏すれば積極的に引き入れ、国や集団ごと吸収した。仲間となれば民族や敵だったことなど関係なく全て「イル」(仲間)として扱われ、この習慣が社会と組織の多様性を担保することになった。

チンギス・カン死後も、これらのピラミッド型の軍制や、根回し・情報戦を重視する作戦指揮は子や孫に受け継がれ、破竹の快進撃を支える土台になった。

『モンゴルによる「あらたな世界」の出現・形成は、二段階にわかれた。まずは、一三世紀はじめの創始者チンギス・カンから半世紀ほどで、ユーラシアの多くをまとめあげ、すでにこの時点で人類史上において最大の陸上版図をもつ「大モンゴル国」、いわゆるモンゴル帝国が出現する。ついで、第五代カアンのクビライ以降、宗主国たる「大元ウルス」(正確には「ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス」、すなわち大元大モンゴル国)が国家として海上に進出し、インド洋上ルートによる交流・交易を把握しつつ、陸海を通じたシステム化をおしすすめる。その結果、複数の同族ウルスによる世界連邦と化したモンゴルを中心に、「ユーラシア交流圏」ないしは「アフロ・ユーラシア交流圏」というべき状況が明確にたちあらわれてくる』(P31)

その後、オスマン家やロマノフ家はいずれもモンゴル帝国の支配下で代理人として頭角を現し、やがて自立化してモンゴル帝国が分裂・衰退した後に帝国を建設した。中央アジアを席巻したティムールはチンギス・カンの末裔を妻とし、チンギス・カン一族の末流を王にして実権を握りティムール朝を創始、ティムールから数えて11代目のバーブルはティムール帝国の分裂を経てインドにムガル朝を創始、ムガルとはモンゴルのことだ。中国は明朝を経て、大清国の支配下となるが、ヌルハチの子ホンタイジは「クリルタイ」を開きモンゴルの後継として自らを位置づけ「ボグド・セチェン・カアン(聖なる賢明なカアン(皇帝))」と称し、国号を「ダイチン・グルン」とした。

モンゴル帝国以後も一七世紀ごろまでは旧支配地域でチンギス・カンの王族というのは非常に強い権威を持っていて、ティムールやイワン雷帝などを初めとして、その一族を王位につけてその権威で貴族たちを従属させ、自身が実権を握るという、あたかも日本の天皇と武家政権の関係を彷彿とさせるような手法が各地で取られていたらしい。

ところで、チンギス・カンかハンかという表記の問題についても少し紹介しておく。丁度「カ」と「ハ」の間の発音で、日本語で表記するのが非常に困難であり、しかも、時代によって音が「カ」に近づいたり「ハ」に近づいたり振れることになる。ただし、十三世紀当時は比較的カに近い音だという。

また、カンとカアン(カガン)も違う。遊牧民の人間集団は「ウルス」と呼ばれ、その「ウルス」の指導者が「カン」となる。一方「カアン」は五世紀の柔然や北魏で使われ始め、モンゴル帝国では第二代オゴデイが「カアン」と名乗り、帝国を構成する他のウルスの首長が「カン」と名乗った。ゆえに『一人のカアンのもと、複数のカンが率いる二重構造の多元複合体』(P32)がモンゴル帝国であった。

以上のように、世界史の中のモンゴル帝国の姿が非常に面白く描かれていて、読み応えがある一冊となっている。

ただ、現代まで通じる帝国史を描こうとするあまり、ちょっと無理がある面も。例えば、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家の台頭とモンゴル帝国の誕生とを同時代として描くのは流石に牽強付会である。確かにハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位についたのは1273年なのだけど、それは特にモンゴルと関係ないし、実際に帝位を独占して台頭という言葉にふさわしい地位を築けたのは一五世紀~一六世紀のことだ。あと名前が挙げられている対モンゴルの第六回十字軍を主導した神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世はホーエンシュタウフェン家なので、ハプスブルク家の台頭とは関係ない。また、ホーエンツォレルン家も確かにモンゴル帝国末期と同時期に選帝侯となっているが、ホーエンツォレルン家はほぼ名ばかりの貴族で実権は無く、その台頭は三十年戦争後の一七世紀から一八世紀にかけてのことだ。

まぁ、あまりダイナミックにスケールを大きくしたことで、少し大雑把になっているのだと思うが(というか「スケールを大きくさせすぎて専門外分野の記述が大雑把」問題は文明史本あるある過ぎて慣れっこではあるのだが)、そのあたりや俗流地政学っぽい分析に基づく帝国論に目をつむって、モンゴルに注視すれば、非常に面白くて知的好奇心に溢れた良い内容になっていると思う。

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