「カラス事件」歴史を変えた18世紀フランスのある老人の冤罪死

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1)カラス事件

十八世紀フランス、欧州諸国の刑事司法制度の近代化を推し進めるきっかけとなった冤罪事件がある。近代法制史に名高い「カラス事件」である。

1761年10月13日、フランス南西部ラングドック地方の主要都市トゥールーズの商業地域フィラチエ大通り沿いで服飾品の商店を営む新教徒(ユグノー)のカラス家で事件は起きた。当主のジャン・カラスは当時63歳、当時としては老人と言って良い年齢の男性である。妻アンヌ=ローズ(年齢については9歳下、15歳下、18歳下など諸説ある)との間に29歳のマルク=アントワーヌ、28歳のピエール、25歳のルイ、22歳のドナの四人の息子と19歳のロジーヌ、18歳のナネットの二人の娘がいた。このうち、三男ルイはカトリックに改宗して家を出て家族とは疎遠になっており、四男ドナは徒弟奉公で別居中、二人の娘は事件当日、田舎の知人宅に行っていた。他、お手伝いのジャンヌ・ヴィギエールという旧教徒(カトリック)の45歳の中年女性が住み込みで働く。

その日、カラス家の遠縁でゴベール・ラヴェスという20歳の青年がカラス家を訪れていた。彼はボルドーで航海術を学んでトゥールーズに帰ったのでカラス家に夕食に招かれていた。住居兼店舗のカラス家は一階が店舗で二階が住居にあたる。カラス夫妻、長男マルク=アントワーヌ、次男ピエール、ゴベール・ラヴェスが食卓を囲み、ジャンヌ・ヴィギエールが給仕をする。食事が済むとマルクは中座して一階へと降りていった。夜九時半ごろ、夜も深まりゴベールがそろそろ帰宅しようと席を立ち、次男ピエールと階段を下りると、店へのドアが半開きになっている。不思議に思った二人はドアを開けて店を覗きこみ、思わず大声を上げた。長男マルク=アントワーヌが店から倉庫に通じる扉に紐をくくりつけて、首を吊っていたのである。

何事かとカラス夫妻も階下に降りてきて、急ぎ医者を呼びに行かせるが、マルクはすでに息絶えていた。見るからに自殺であったが、当時、自殺は大罪である。自殺者は財産が没収され遺体は市中引き回しの上で埋葬も許されない。どうやら後の証言によると、このときジャン・カラスは動転して深く考えないまま、息子の名誉を重んじて他殺を装おうと紐をほどいたらしい。

カラス家での夜半の大騒ぎに周囲はすぐに人だかりができ、市参事ダヴィッド・ド・ボードリグが判事を伴って現場に到着、よく調べもせずにカラス家にいた五人を逮捕する。トゥールーズ市参事は領主から裁判権を委任され警察と裁判の両方の責任者を兼ねた八人の役人で構成される役職である。ボードリグ市参事は一報を受けたときから新教徒による他殺という固定観念があったらしく、カラス家の人びとによる殺人という思い込みを前提とした恣意的な捜査・取調べが繰り返されることになる。

2)カラス事件の背景としての十八世紀フランス

当時のフランスに深く影を落としていたのが1756年から1762年まで行われた「七年戦争」である。フリードリヒ二世率いる新興国プロイセンに奪われたシュレジエン地方の奪還を悲願としたオーストリア(ハプスブルク君主国)の「女帝」マリア・テレジアは長年の敵であったフランスと結び(外交革命)戦端を開く。欧州ではプロイセン対オーストリア・ロシア同盟、新大陸ではプロイセンと結んだイギリス対フランスという構図(フレンチ・インディアン戦争)となるが、イギリスがフランスを終始圧倒して1760年までに戦闘は終了、最終的にフランスは海外植民地のほぼ全てを喪失することになる。この戦争は庶民の生活を直撃した。戦費調達の為重税が課され、海外との商取引は停滞し、物価が上昇、失業者が増加し、生活苦から浮浪者化した農民が街にあふれだす。

第二に社会的流動性の拡大がある。フランスは1730年代から持続的な経済成長の時代を迎えていた。貿易総額は1715-1789で約五倍となり、産業革命に先立つプロト工業化が始まり、農業生産が増大、人口は決定的な拡大期に入り十八世紀初頭に2100万人だった人口は十八世紀半ばには2500万人に急増していた。一方で経済成長と人口拡大は地域的不均衡を創出する。急成長を遂げたのはフランス西部から大西洋岸の農村工業の発展が見られる地域で、それ以外は成長から取り残されていた。トゥールーズもその取り残された都市の一つであった。そして、急激な経済成長と人口拡大は社会的結合関係の流動化を生む。絶対王政を支えた社団が弛緩し、村落共同体が衰退し、家族が共同体から独立した閉鎖的関係に変容する。流動化する社会の中で、人々は社会的地位上昇への希望を抱きながら、国家体制・身分制度はその変化について行けず、閉塞感だけが増す。

このような中で目に付くようになるのが少数派の排除・迫害である。それは旧教徒による新教徒の迫害として現れ始めた。ブルボン朝は苛烈な宗教戦争の果てに国教を旧教としつつナントの王令で新教徒の権利を認めるかたちで誕生したが、支配体制が確立されると徐々に新教徒の弾圧を強め、1685年、ルイ14世はナントの王令を撤回、新教徒に対し改宗を迫った。しかし、この弾圧もルイ14世死後は徐々に形骸化し、支配層は概ね宗教的寛容な姿勢へと変わりつつあった。とはいえ、社会的少数派であり差別的扱いを受けていたことに変わりは無い。

「七年戦争」に宗教戦争色は全く見られないが、その対立構図を教派で見ればイギリス・プロイセンの新教勢力とフランス・オーストリアの旧教勢力ということになる。そして庶民はそう見た。崩れ去る共同体の紐帯、希望の無い閉塞感、重税と物価上昇、日々の生活の困窮が、今フランスを脅かす新教国という外敵と少数派としての新教徒に対する敵意に転換される。

事件の翌年から遡って200年前の1562年、トゥールーズでは旧教徒による新教徒虐殺事件が起きていた。そしてカラス事件が起きたとき、トゥールーズの旧教徒たちはその虐殺から二百周年を祝う式典を準備する真っ最中であり、新教徒に対する迫害と偏見が急速に盛り上がっていた。同時期、カラス事件と前後するように新教徒に対する冤罪事件が次々と起きている。

地方都市では宗教的迫害と少数派差別が熱を帯びる一方、パリをはじめとした大都市では特にブルジョワ層を中心に啓蒙主義の波が流行し始めていた。人権を重視し、宗教的狂信と無知を敵視して、文化人が文筆活動を行う。「世論」の誕生は十八世紀半ば、丁度七年戦争の終わりごろのことだともいわれる。

当時のフランスが抱えた様々な問題が「カラス事件」に少なからぬ影響を及ぼしながら事態を大きく動かしていく。

3)恣意的な取調べ

当時のフランスの刑事訴訟手続きに特徴的なのが「モニトワール(証言命令書)」とよばれる文書の布告であった。

モニトワールとは『重要事件の情報収集のため、世俗裁判所の要請にもとづき、教会裁判所が布告し、司祭が各教区教会の日曜ミサのときに「これこれの事実について知っている者は証言せよ」と破門の脅かしでもって命ずるもの』(石井P7)で、本件でも10月17日に布告されたが、予断に満ちた、当時の法制上も非常に問題がある布告となっていた。以下、九項目からなるカラス事件のモニトワールを石井三記著「18世紀フランスの法と正義」より引用する。

1 長男マルク=アントワーヌ・カラス氏が、彼がそのなかで教育をうけてきたいわゆる改革派宗教を捨てたこと、彼が聖なる公同の使徒的ローマ教会(宗教改革後のカトリック教会)の儀式に出席したこと、彼が悔悛の秘蹟に出たこと、そして彼がこの10月13日(事件発生の日)以後に異端公式法規の宣言を行うにちがいなかったことを伝聞その他により知っているような者すべて、またマルク=アントワーヌ・カラスから彼の決意を打ち明けられた者すべて(は証言せよ)。

2 この宗旨変更の理由で、マルク=アントワーヌ・マルク氏が彼の家のなかで脅され、いじめられ、悪意ある目で見られていたこと、彼を脅していた人物が彼に異端公式放棄の宣言を行いでもすれば自分が処刑人になるぞ、といったことを伝聞その他により知っているような者すべて。

3 異端を信ずると評判されている婦人(カラスの妻)がその夫に同じような脅しをそそのかし、彼女自身マルク=アントワーヌ・カラスを脅していたことを伝聞その他により知っている者すべて。

4 今月13日の朝、ドラード教区のある家で謀議がなされ、そこでマルク=アントワーヌ・カラスの死が決定または勧告されたことを伝聞その他により知っている者、同じ朝にいく人かの人物がその家に出入りするのをみたような者すべて。

5 同じ日の10月13日、宵の口から10時ごろまでに、この忌まわしい謀議が執行され、マルク=アントワーヌ・カラスはひざまずかせられ、不意にまらは力づくにより、綱で絞め殺されまたは吊し首にされ、その綱にはふたつの輪があってひとつは絞め殺すため、もうひとつは台にくくりつけるためのもので、これによってマルク=アントワーヌ・カラスは絞め殺され、吊しまたはねじりにより死なされたことを伝聞その他により知っている者すべて。

6 「人殺し!」と叫ぶ声につづいて、「ああ!神様、私があなたに何をしたんですか。おゆるし下さい。」同じ声は訴えるように「ああ!神様、ああ!神様!」というのを聞いた者すべて。

7 マルク=アントワーヌ・カラスから彼を悲しませメランコリーにさせていた、彼の家で受けていた心の不安を伝えられたような者すべて。

8 13日夕刻、当市の若者(ゴベール・ラヴェス)がボルドーから到着し、田舎にいた両親のもとへ行くための馬が見つからないので、ある家(カラス家)で夕食に寄ることにし、この行為(マルク殺害)に立ち会い、同意しまたは加わったことを知っている者すべて。

9 このもっとも憎むべき犯行の主犯者、共犯者、幇助者、支持者がだれか、を伝聞その他により知っている者すべて。

(石井三記「18世紀フランスの法と正義」P60-64)

はなから自殺の可能性は排除され、改宗しようと悩む青年が狂信的な新教徒一家の共謀によって殺害された、という思い込みだけで構成されたストーリーである。しかも、当時の刑事法でもモニトワールでは一切の関係者の実名を書くことは禁止されているにも関わらず、容疑者名は隠しつつ被害者の名前を出して容易に推測が可能な内容となっていた。後にこのモニトワールの違法性が問題となる。現代日本でも取調べ段階で容疑者の自供や背景などがリークされて報道され、社会に一定のストーリーに基づいた心証を与えることが日常的に行われているが、それと同様の働きをモニトワールが果たしていた。

11月8日、まだ訴訟が終わっていないにも関わらずマルク=アントワーヌの埋葬が許可され、彼はカトリック教会で改宗者として埋葬されることになった。自身の息子を謀殺した狂信的新教徒のカラス一家という世論が形成されていく。また、モニトワールを受けてあやふやな証言者が集まるがいずれも根拠のない伝聞や推測でしかなかった。

以降、取調べ過程で自供を促すためジャン・カラスに対する拷問が繰り返されたが、彼が殺害を認めることはなかったし、また、カラス一家がマルク=アントワーヌを殺害した証拠も見つからなかった。容疑者の一人ゴベール・ラヴェスの父ダヴィド・ラヴェスは弁護士で、そのつてで有能な弁護士がつけられたが、被告人尋問で弁護人の助けが認められないなど当時の司法制度の限界もあって困難を極めた。

4)ジャン・カラスの処刑

11月18日、トゥールーズ市役所で最終被告人尋問が行われる。検事の求刑はカラス夫妻と次男ピエールを絞殺刑とする厳しいものであった。裁判長は筆頭市参事のド・ルション、他ボードリグ、シラク、ポワイエの三人の市参事と判事補のカルボネル、ラバ、フォルリュップの三人の計七人の多数決で一審判決が下される。カルボネルは報告判事という立場で取調べとは別に関係者全員の話を聞いており、それらを総合した結果被害者は自殺でカラス一家は無罪と確信していた。しかし、無罪を主張したのは判事補カルボネルただ一人で、だが、求刑通り死刑とするには決定的に証拠が足りず、結果、カラス一家の夫妻と次男三人を拷問にかけ、他の二人をそれに立ち会わせることと決まった。乏しい証拠を補うためには何としても自供が必要であった。

十八世紀フランスの司法制度における普通裁判所は原則三審制、重罪事件は二審制からなっている。第一審としてプレヴォ裁判所、ヴィコント裁判所などと呼ばれる下級裁判所、第二審がバイイ裁判所、セネシャル裁判所と呼ばれる上級裁判所、第三審がパルルマン法院・高等法院からなる地方最高裁判所である。パルルマン法院は各地方に14カ所、高等法院は4カ所設置されている。ただし、「正しい裁きをなす人」としての国王がその上に君臨しており国王国務会議が最高機関として存在する。また、第一審と第二審の中間的な存在として都市裁判所があり、トゥールーズ市役所は都市裁判所にあたる。この場合、トゥールーズ市役所の上はラングドック地方を統括する最高裁トゥールーズ・パルルマン法院であった。

判決が出次第、検事側、被告側ともに第一審を不服としてトゥールーズ・パルルマン法院に控訴、被告の身柄が市役所内拘置所から法院へ移送される。12月5日、法院は市役所の判決を、被告を他の被告の拷問に立ち会わせることを決定する権利は下級裁判所には無いとして破棄、同事件の取調べを法院が継続するとした。

法院への控訴に際して新たに優秀な弁護士であったシュードル弁護士が被告側弁護士につき、新教徒への偏見、一審の手続き上の瑕疵、自殺の可能性、また他殺とした場合の状況の不自然さなどを論じた訴訟趣意書を作成して提出する。しかし、トゥールーズ・パルルマン法院で事件を担当することになった判事や裁判官はいずれも思い込みや新教徒に対する偏見を強く持っていた人物たちであった。当時のトゥールーズ・パルルマン法院に関するデータとして死刑判決の急激な増加が指摘されている。1740-49の間の死刑判決数26に対し、1760-69は89と著しく厳罰化傾向が強まっていた。

1762年3月9日、まずジャン・カラス被告に対し財産没収の上で死刑、かつ死刑執行に先立って犯行と共犯者の自白を引き出すための拷問実施、他の被告に対してはカラス被告の自白に基づいて判断する、という判決が下された。3月10日、身柄はトゥールーズ市役所に引き渡され、拷問が科された上で、死刑が執行される。ジャン・カラスは刑場まで連行される間最後まで無実を叫びつづけた。処刑に立ち会い悔悛を薦める神父に対し、ジャン・カラスはこういったという。

『わたしはもう既にいいましたが、無実で死んで行くのです。わたしは自分を憐みはしません。無実だったイエス・キリストはもっとひどい苦しみを受けて、わたしのために死んだのです。わたしは自分の生命を惜しみはしません。この命が終われば、永遠の幸福がわたしを導くだろうと期待しているからです。わたしは自分の妻や息子が可哀そうだと思います。それからまたラヴェス氏の御子息も。夕食に招いて喜ばせてあげようと思ったのに。彼のことを考えると、わたしの心残りの気持ちは強まります。』(小林善彦論文「カラス事件 十八世紀フランスにおける異端と寛容の問題」)

最期の瞬間まで無実を訴え続けたジャン・カラスの姿に神父は「われわれの殉教者たちも、こうして死んだのだ」と語ったという。また、聴衆の一人はその処刑の様子をこうかきとめた。「カラスはその最後の瞬間まで絶えず自己の無実を主張し、神をその証人とした」

そして同時に死刑判決を下した裁判官やボードリグを初めとする捜査関係者たちを大いに動揺させることになった。ただの老人であり、拷問に堪え切れるものではなく、すぐに自白すると思っていたのに、最後まで無実を訴え続けたのだ。その痛ましい姿は一気にトゥールーズの世論をカラス一家無実へと大きく転換させて、恣意的な取調をおこなった市役所や有罪判決を下した法院への批判となって向かいそうな雰囲気ですらある。

3月18日、法院は次男ピエールを終身追放刑、他の被告を全員釈放するという判決を下した。しかし、そうなるとこの判決はジャン・カラス氏を有罪とした前の判決と大いに矛盾する。老人のジャン・カラス氏が一人で29歳の青年を絞殺できないであろうことは衆目の一致するところだったからである。有罪判決は共犯者の存在が前提となっていたのに、共犯者がいなければ、そもそもの判決が揺らぐ。これらの批判を封殺するために彼らは策をめぐらした。

追放刑となったピエールはトゥールーズの門から出されるやいなや密かに聖職者が拉致して教会に軟禁、カラス夫人と召使のジャンヌ、二人の娘もそれぞれ修道院に軟禁、ゴベール・ラヴェスはカトリックへの改宗を余儀なくされた後、トゥールーズを脱出してパリに逃れ、四男ドナも機を見てフランスから脱出しスイスのジュネーヴへと亡命する。三男ルイはカトリックであったことから区別されることはなかった。

当時日常的におきていた多くの冤罪事件同様、悲しい事件だった、と過去形で語られるだけの、歴史の闇に消えるかに見えたが、この事件は国王自ら裁断を下さねばならないほどにフランス全土を揺るがすことになる。

5)ヴォルテールのカラス事件再審運動

ヴォルテール(1694-1778)といえば、代表的な啓蒙主義思想家の一人として名高い。劇作家として名を成したが名門貴族との口論から一方的に断罪されたことでフランスの閉鎖的な身分差に嫌気がさしイギリスに亡命、以後次々と著作を発表して啓蒙専制君主フリードリヒ二世に誘われてプロイセン宮廷に滞在し、様々な啓蒙思想家や文化人、貴族との人脈を築いて、名声を不動のものとしていった。そのヴォルテールが晩年力を注いだのが反宗教運動であった。宗教的狂信を殊更敵視して啓蒙主義的立場から批判する。カラス事件が起きたとき、ヴォルテールはスイスのジュネーヴに屋敷を構え、サロンを築いていた。

ヴォルテールが人づてにフランスの地方都市で起きたカラス事件のことを聞いた時、最初、新教徒の狂信による殺人と思った。興味を抱いて情報を集めるうちにむしろ、旧教徒の狂信が冤罪を生んだ事件であると確信するに至る。彼がカラス事件を知ったのは1762年3月下旬、カラス一家の無実の確信は4月のことだ。ジュネーヴに亡命してきたドナ・カラスとの面会が決定的だったらしい。『父親のおだやかな人柄を聞き、また密かにドナの人となりを観察し、まだあどけない顔立ちを見て、彼はドナの手をとりカラスの潔白を信じ涙を流したと伝えられている』(ヴォルテール「寛容論」解説P238)

ヴォルテールはジャン・カラスの名誉回復運動を始める決意をする。まずは弁護士や銀行家などからなる秘密委員会を組織、カラス夫人に密かに手紙を送って夫の潔癖を訴える夫人の手紙を受け取ると62年6月、これを「カラス未亡人の手紙の抜粋」として公表して世論を喚起、さらに夫人がパリに上れるよう手配を整える。ヴォルテールが話題にした事件の当事者ということで注目を集めさせた。7月、次男ピエールが軟禁先の教会を脱出、ジュネーヴへと逃亡してくると彼と面会して庇護を加え、まだ軟禁されている二人の娘の解放のためにフランス政府に働きかけて、12月娘二人は自由の身となってパリへと到着する。

カラス一家の救出・保護と同時進行で彼はジュネーヴからフランス政府の有力者へ次々と手紙を送る。熱意のこもった手紙に七年戦争の英雄リシュリュー元帥、寵姫ポンパドゥール夫人、宰相ショワズール公爵らが動かされ、同事件について国王の説得を行う旨約束をしてくる。さらに啓蒙君主として知られたプロイセンのフリードリヒ二世、ロシアのエカテリーナ二世にも手紙を送り、理解と協力を求めた。超人的な人脈と戦略であっという間にフランスの国政にカラス事件を主要議題としてねじ込んでいく。

国政を動かすための決め手として重視したのが「世論」の喚起であった。カラス夫人の手紙の公表に続いてヴォルテールが執筆してピエールとドナの兄弟の名による関連資料を公開、裁判の不正を訴える。さらにカラス事件と類似の各国の冤罪事件を読み物として「エリザベス・カニングとカラス家の物語」と題して1762年8月に刊行された。世論は一気にカラス事件に盛り上がる。寄付金が次々とヴォルテールの元に集まり、その中には英国シャーロット王妃やカンタベリー大司教などからのもあったという。

次にヴォルテールは開明的な超一流弁護士からなる再審請求チームを編成、トゥールーズ・パルルマン法院の誤審を指摘する文書を公刊して実務レベルでも次々と手を打っていく。その弁護士の一人ピエール・マリエットは国王国務会議のメンバーでもあった。さらに国王国務会議を主催する大法官ギョーム・ラモワニョンにも働きかけを行う。

1763年3月7日、ついにカラス事件が国王国務会議で議題に挙げられ、トゥールーズ・パルルマン法院に対し裁判資料の送付が命じられる。しかし、法院は司法権の独立を盾に教会を味方につけて抵抗を示し、法外な金額を裁判調書書き写し費用と称してカラス夫人に請求、仕事の遅延を図ろうとする。結局同年8月に渋々法院は資料を提出し再審査が始まった。1764年6月4日、国王直属の宮廷訴願審査官法廷で原判決の破棄が決定、このメンバーには後に財務総監としてフランス革命前夜の財政改革を断行するテュルゴーもいた。そして、1765年3月9日、同法廷は全員一致でジャン・カラス及び被告全員の無罪判決を下し、国王ルイ15世からカラス一家に三万六千リーブルが下賜され、ジャン・カラスの名誉は回復された。

6)その後

カラス事件は単に冤罪が覆ったというだけに留まらず、フランス社会の根幹を大きく揺るがし、さらに欧州全土に司法制度改革の波を起こす契機となる。

カラス事件を皮切りに、以後ヴォルテールは冤罪事件の救済活動に打ち込み、様々な事件で無実の罪に着せられた人々の名誉回復を成し遂げていく。ヴォルテールを中心とした運動は恣意的な自白重視の裁判制度、拷問や残酷な死刑制度に対する問題意識を醸成し、それは欧州全土に広がっていった。

1765年にカラス事件について刊行した「寛容論」の第一章でヴォルテールはこう述べている。

『罪もないのに一家の父親が誤謬、偏見、さては狂信の手に委ねられるというのであれば、被告には自分の気力のほかには弁護の手立てがないというのであれば、その生命を手中に握る人たちが被告を打首にするのに冒す危険といえば思い違いの危険だけだというのであれば、この裁判官たちが判決で人命をあやめ、それが間違いであってもなんら罰せられないというのであれば、そのとき世論は立ち上がらねばならない。市民の生命を見守るために設けられた法廷に対して、何人も自己の生命が安全でないのを知って、あらゆる声が一体となり罪のつぐないを要求するのである。』(ヴォルテール「寛容論」P9)

1764年、イタリアの弁護士チェーザレ・ベッカリーアは「カラス事件」を契機としてフランスで盛り上がる司法制度改革運動に影響を受けて「犯罪と刑罰」という書籍を刊行する。社会契約論やモンテスキューの三権分立論を前提として死刑廃止、拷問禁止、司法権の分立、そして「罪刑法定主義」を理論化した同書は大ベストセラーとなって、同書の理論を踏まえた刑事訴訟法典がロシア、オーストリア、プロイセンなど各国で次々と制定され、近代法の基礎として現代まで受け継がれていくことになる。同書のベストセラー化に一役買ったのがやはりヴォルテールで、彼が注釈書を刊行したことで、品切れ状態になったという。

諸外国を横目に、司法改革運動の発信地であったフランスでは司法改革は遅々として進まなかった。何度も何度も冤罪事件はおき、拷問が繰り返され、死刑判決は増える一方であった。カラス事件の再審を決定したギョーム・ラモワニョンによる拷問全廃止・推定無罪などを定めた司法改革案が出されるのは諸外国に大きく遅れて1788年5月のことである。しかし同案は高等法院の激しい抵抗にあって頓挫、司法制度改革案は特権階級への課税を定めた財政・税制改革案など一連の国政改革案の一環で、これらを審議するため、ついに175年ぶりに全国三部会の開催が決定されることになった・・・そして、革命が始まる。

この事件の経緯で目立つのは当時60代後半のヴォルテールの超人的な活動である。偉大な活動であると同時に、この過程が浮き彫りにするのは圧倒的な格差でもある。市井の老人がどれほどあがいても決して避けることの出来なかった悲劇の運命を、ヴォルテールは文字通り国と社会を突き動かすことで鮮やかに覆して見せる。普通の人ジャン・カラスと著名人ヴォルテールとの間には、決して埋めることの出来ない巨大な力の格差があったのであり、その対比こそがアンシァン・レジームを象徴しているのだ。どれほど願い、どれほど努力しようとも人は決してヴォルテールになれない、あるいはその力のほんの一部すらも獲得できない絶望こそが、フランス革命前夜の閉塞感の姿である。

参考書籍・サイト
ヴォルテール著「寛容論 (中公文庫)
石井 三記 著「18世紀フランスの法と正義
勝田 有恒 他編著「概説 西洋法制史
福井 憲彦 編「フランス史 (新版世界各国史)
君塚 直隆 著「近代ヨーロッパ国際政治史 (有斐閣コンパクト)
柴田 三千雄 著「フランス革命 (岩波現代文庫)
T.C.W.ブラニング 著「フランス革命 (ヨーロッパ史入門)
ベッカリーア著「犯罪と刑罰 (岩波文庫)
小林 善彦 論文「カラス事件 : 十八世紀フランスにおける異端と寛容の問題」(学習院大学研究年報1963年)
小林 善彦 論文「ヴォルテールとカラス事件」(学習院大学研究年報1963年)

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