「犯罪と刑罰」チェザーレ・ベッカリーア 著

イタリア・ミラノの法律家チェザーレ・ベッカリーア(1738-1794)が1764年に著した「犯罪と刑罰」は法制史において近代刑事司法思想の先駆として位置づけられることが多い。それは第一に、19世紀に「罪刑法定主義」として整理される元となる思想を打ち出したこと、第二に死刑や拷問の廃止を、それまでも宗教的立場から訴える人は多数いたが、宗教的ではなく法理論として初めて論じたこと、第三に司法権の独立を唱えたことなどが理由として挙げられる。

ただし、これはベッカリーアの思想がそのまま近代法の法理論となったということではない。「犯罪と刑罰」は十八世紀の欧州で大ベストセラーとなり、啓蒙主義の隆盛ともあいまって、諸国で同書の理論に基づいた刑事司法制度や関連法が次々と制定されるが、十九世紀に入るとそれらは概ね廃止・後退して、死刑制度や拷問、あるいは糺問的な司法制度が復活する。十九~二十世紀にかけての各種法理論の論争と発展の過程でもう一度「罪刑法定主義」「罪刑均衡」「死刑・拷問の廃止」「司法権の独立」などが理論化され、第二次大戦後にようやくスタンダードとして定着する。世界人権宣言はその結実である。結論は同じでも、ベッカリーアの理論はあくまで十八世紀の啓蒙主義的な見解に留まっている。とはいえ、現代の刑事法に関する議論の先駆としての価値は少しも損なわれるものではない。

ベッカリーアが近代法にどの程度影響を与えたかについては「ベッカリーア解釈」「ベッカリーア神話」などと呼ばれて専門家の間でもかなり議論があるようなので、興味がある人は各種論文を参照すると面白いと思う。少なくともベッカリーアが『世俗的で人道的な法治国家刑法を創造』(ヴォルフガング・ナウケ論文)したというような見解については過剰な評価として否定されているようだ。

ベッカリーアは『人類を規制する道徳と政治の原理』のみなもととして啓示、自然法、社会契約を挙げ、『宗教と道徳の考察をきりはなして、たんじゅんに社会契約』(P14)によって検討する必要があるとして、社会契約論に基づいた政治と宗教の分離を刑法理論に持ち込んだ。その上で、法律を『自由人どうしの間の自由な契約』(P19)とし、『多数の人間の活動を「最大多数の最大幸福」という唯一最高の目的に導くことを知っている者』(P20)を立法者のあるべき姿と考えた。

「最大多数の最大幸福」はジェレミー・ベンサムが1776年に唱えて功利主義の定式として語られることになるが、石井三記によると、スコットランド啓蒙主義思想家ハチソンがまず1725年に「美と徳についてのわれわれの観念の探求」で唱え、この著書が1749年にフランス語訳されて百科全書派に影響を与え、百科全書派の思想がイタリアでベッカリーアが属していた啓蒙思想グループ「こぶしアカデミー」の議論で語られたことで「犯罪と刑罰」に入り、「犯罪と刑罰」が1765年にフランス語訳され、同仏訳本が1767年に英訳されてベンサムの目に入り、功利主義の基本思想として語られることになったという経緯を辿ったとされる。

その上で、ベッカリーアはホッブズ的闘争状態の社会観に基づいて社会契約論的立場から刑罰権の根拠を導き出す。

『拘束されず孤立していた人間が、たがいに結合しあったその条件が法律を作った。たえまない戦いの状態に疲れ、保持して行くことが不確実になったむなしい自由の享受に疲れた人間は、じぶんの自由の一部分をさし出して残った自由を確保することを考えたのである。この各人の自由の分け前の総和が一国の主権をかたちづくる。そして主権者とは、とりもなおさず、合法的にこれらの自由の供託を受け、その管理をおおせつかった者にほかならない。』(P25)

ただし供託だけでは充分では無く、常にその残された自由も侵害される危険性がある。それは理論では無く感情的な衝動のようなもので、その侵害しようとする力を掣肘して、感性に作用する契機として刑罰は位置づけられる。供託した自由を取り戻し、あるいは他者の領有する自由を欲する欲望や感情と公共の利益とを均衡させるためには、さし出させる自由は必要最小限のものでなければならない。

『この自由の小さな割り前の総和が刑罰権の基礎である。この基礎を逸脱する刑罰権の行使は、すべて濫用であり、不正である。それは事実上の権力ではあっても、法にもとづいた権利ではない。
個々人の自由の公けの供託を保護するのに必要な限度をこすやいなや、その刑罰は不正であり悪となる。主権者が臣民に残した自由が大きければ大きいほど、そしてすべての人の権利と安全とが神聖不可侵なものとなればなるほど、刑罰は正しいものとなるのである。』(P26-27)

以上のような原理から導き出されるのが、第一に『法律だけがおのおのの犯罪に対する刑罰を規定することができる』(P28)ということ、すなわち、『法律で規定されていないどんな刑罰をも科すことはできない』(P28)という原則である。これが後にフォイエルバッハらによって定式化される「罪刑法定主義」の源となる理論である。

第二に、「司法権の独立」である。

『ある犯罪が犯されたとき、そこには二つの当事者がある。すなわち第一に社会契約が犯されたと主張する主権者、第二に侵害を否認する被告がこれである。そこでこの両者の間にあってこの争いに裁定を下す第三者が必要になってくる。この第三者が司法官である。彼はただ純すいに犯罪があったかなかったかを宣告すべきで、その判定にともなって世論を動かそうとするようなことがあってはならない。』(P28-29)

第三に拷問や死刑などの残虐な刑罰の廃止である。これを主張する根拠としてベッカリーアは功利主義的な観点から論じる。

『およそ一つの刑罰がその効果をあげるためには、犯罪者がその刑罰によって受ける損失が、彼が犯罪によって得た利得をこえれば十分なのである。このばあい、処罰の確実さと、犯罪者が犯罪から得た利得が刑罰を受けることによって消失することとが、利得をこえる損失の部分に参入されなければならない。』(P86)

この前提でベッカリーアは『人間がじぶんの行動を規制するのは、彼が知らない苦痛によってではなく、彼が知っている苦痛の反復的経験によってである』(P87)という。すなわち、残酷な刑罰は『刑罰がざんぎゃくであればあるだけ、犯人は刑罰をのがれようと』(P87)して多くの犯罪を繰り返すことになり、それに対して刑罰はより残酷性を増していくことになる。一方で人間の想像力には限界があるから残酷な刑罰が犯罪の抑止力として機能するには限界がある。一方で凶暴な犯罪と釣り合いが取れる残酷な刑罰にも限界がある。『刑罰の目的と刑罰から人々が受ける印象との間に同じ関係を保とうとするなら、刑罰のきびしさは緩和されねばならない。』(P89)

同様の理路から死刑廃止論が打ち出される。ベッカリーアは社会契約論的視点からそもそも国家に個々人の生命を奪う権利は無いと考える。国家が社会契約に基づいて個人の自由の一部分の供託を受けているとすると、『どうして各人のさし出した最小の自由の割前の中に、生命の自由――あらゆる財産の中でもっとも大きな財産である生命の自由もふくまれるという解釈ができるのだろう?』(P90)と述べ、あわせて当時自殺が大罪で禁じられていたことからも、『人間がみずからを殺す権利がないのなら、その権利を他人に――たとえそれが社会にであったとしても――ゆずり渡すことはできないはずだ』(P91)という。

このベッカリーアの死刑廃止論は法理論における死刑廃止論の嚆矢として以後多くの議論を呼んだ。

19世紀に入り、イマニュエル・カントは社会契約論的功利主義のベッカリーアの論に対して、『すべて詭弁であり、法的には誤った解釈である』(ジャン・マリ・カルバス「死刑制度の歴史」P105『人倫の形而上学法論」の孫引き)として、死刑制度存続論を展開した。カントは『同害報復の法理』こそが司法の原理であって、その原理に基づいて、『もし犯人が人を殺害したのであれば、彼は死なねばならない。この際には正義を満足させるに足るどんな代替物もない。(中略)もし犯罪者に対して法を通じて死刑が執行されなければ、犯罪とその償いとのあいだにいかなる均等性も存在しない。』(カルバスP104-105)という。カントにとっては、『国家に帰属する刑罰権の基礎は、違法行為それぞれに対して一つの刑罰を科すことを義務付ける理性法』(カルバスP104)であり、『社会的有用性や個人の更生といった考慮によるのではな』(カルバスP104)く、『その応報的価値のみによ』(カルバスP104)って正当化される。

また、ベンサムは功利主義的立場から死刑制度を支持し、ドイツの哲学者フィヒテはベッカリーアを支持してカントに反論を行った。ただし、共通の認識として残酷な刑罰についてはいずれも反対の立場である。以後、死刑制度の是非については現代に到るまで様々な議論が展開されることになる。

また拷問についても簡潔に引用しておこう。

『なん人も、裁判官の判決があるまでは、有罪とみなされることはできない。社会がある市民からその公的保護をうばうことは、その市民が彼にこの保護を与えている社会契約を侵害したという宣告を受けたのち、はじめて可能になるのだ。それなのに被告が有罪であるか、無罪であるかがまだうたがわしいときに、彼に一種の刑罰(拷問)を加える権能を、裁判官に与える法律は、暴力の法でなくてなんだろう?』(P60)

『ある人間にみずからの告発者になれと要求すること、まるで真実が不幸な人間の筋肉やせんいの中にやどっているとでもいうように、せめ苦によって被告から真実をしぼり出そうとすることは、言語道断な、ばかげたことだ。』(P61)

この拷問という悪弊の原因を、ベッカリーアは自白偏重の取調べにあるとする。

『被告人を有罪にするための基本的な要件として、被告人の自白を要求するという習慣は、ほうぼうの裁判所で見られることだが、これもまたほとんどにかよった起源(引用者注:前段で拷問の起源が「汚辱を清める」という宗教的儀式に求められることを指摘している)から出ていると見てさしつかえないと思う。ざんげ場という神秘の法廷ではつみ人の告白が秘蹟の欠くことのできない要件であるというところからこの習慣は出て来ているようだ。』(P72)

ベッカリーアの論は多岐に渡るが、一つだけ「未決拘留」について引用しておこう。

『拘禁は、訴追をうけたある市民が有罪かどうかの判決を受けるまでの間、その身柄を確保しておくための手段にすぎないのであって、ほんらい、なさけない、ざんこくな手法なのだから、その期間はできるだけ短く、またできるだけそのきびしさを緩和してやるようにつとめなければならない。逮捕された市民は、審理の手続きに必要な期間以上留置されるべきではない。また先に逮捕された者から裁判に廻すべきだ。
拘禁中の被告人の身柄の拘束は、彼が逃亡し、証拠を隠滅することをさまたげるのに必要な程度をこえてはならない。審理そのものがまた、遅滞なくこぼれ最小の期間内に終わらなければならない。むとんちゃくにのんびりとかまえている裁判官と苦しみもだえている被告――なんとおそろしい対照だろう。』(P109~110)

大学で法律学を学び、26歳にして「犯罪と刑罰」を著したベッカリーアは本書が大ベストセラーとなったことで一躍司法制度の第一人者として認められることとなった。28歳で本書に感銘を受けたロシアの啓蒙専制君主エカチェリーナ2世から法典編纂・司法改革の顧問として招聘されるが、前年のパリ旅行で身体を壊していたこともあってさすがに気候の良いミラノから北国ロシアへ赴くのは無理と判断してこれを固辞すると、1769年にミラノ大学の官房学(公共経済学)教授に就任、1771年ミラノ経済評議会メンバーに就任して20年間行政官僚として福祉・行政改革に辣腕を振るい、1791年、神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世によってロンバルディアの刑事立法改革委員会の総責任者に任命され、死刑廃止や拷問の禁止などを盛り込んだ司法改革案を作成した。その後、1794年に死去する。

十八世紀末に本書を始めとして、ヴォルテールら啓蒙主義者による司法改革運動が隆盛を迎え、プロイセンを皮切りに各国で啓蒙主義的な法典が編纂、フランスでもナポレオン法典で拷問の禁止などが盛り込まれたが、一方で十九世紀に入ると啓蒙主義時代に導入された法典は多くが廃されて、再び死刑制度や拷問はより強化された国民国家の影響下で復活する。ギロチンも電気椅子も残酷でない「人道的な」死刑制度として登場したことを思い起こせば良い。「死刑廃止派」のロベスピエールは次々と政敵を人道的処刑装置送りにした。侵略と人種差別、二つの大戦、全体主義とジェノサイドといった血塗られた歴史を経て、二百年もの時間をかけて法理論としてベッカリーアが主張した各種の論は再構成される。

先駆ではあるが概ね古い理論として認識されている、250年前の26歳の法律家が当時の社会への批判として書いた論考が、批判として少なからぬ説得力を持って読めてしまう現代日本社会の刑事司法制度の在り様は、やはり恥ずべきものだと思う。ヴォルテールは「恥ずべきものは打ち壊せ!」と言ったが、現代世界で、近代以前の啓蒙主義の批判が通用してしまうというのは、やはり残念にもほどがある。というのがこの古典を読んでの素朴な感想。

参考書籍・論文
石井 三記 著「18世紀フランスの法と正義
ジャン=マリ・カルバス 著「死刑制度の歴史 (文庫クセジュ)
ロイ・ポーター 著「啓蒙主義 (ヨーロッパ史入門)
勝田 有恒 他編著「概説 西洋法制史
ヴォルフガング・ナウケ論文「ベッカリーア : 刑法を批判し,強化する者
松井 富美男 論文「カントの正義論 : アリストテレス、ホッブス、ベッカリーアとの比較を通して

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