西叶神社・東叶神社と浦賀の渡し

浦賀駅から歩くとほどなくして海が内陸に深く切り込んだ地形を目にすることが出来る。浦賀港が設けられ、湾を挟んで東側が東浦賀、西側が西浦賀である。両岸に対になるように建てられているのが西叶神社と東叶神社だ。

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西叶神社の歴史

西叶神社

西叶神社は社伝によると養和元年(1181)、源頼朝の腹心として有名な僧侶文覚が石清水八幡宮より勧請して創建したと伝わる。また、「新編相模国風土記稿」(天保十二年(1841)成立)には文治二年(1186)、源頼朝が源氏再興の大願成就を祝して叶大明神と命名して創建したともいい、創建の確かな時期や由来についてはよくわからない。可能な範囲で吾妻鏡に目を通してみたが、この神社の創建の記録は見当たらなかった。ただ、治承年間以降平家打倒祈願だったり大願成就祝いだったりと色々理由をつけての支配体制確立に向けた神社・寺院建設ラッシュなので、特に浦賀は軍事・交通上の要衝でもあり、その一環で作られた可能性は大いにあると思う。

江戸時代までの西叶神社については、横須賀市史ほか郷土史関係の書籍をあたってみたがよくわからなかった。しかし、創建以降、港町として栄えた浦賀の鎮守として人々に親しまれたようだ。

当神社で神奈川県指定無形民俗文化財に認定されているのが毎年九月に近くの為朝神社の氏子によって踊られる「虎踊り」という民俗芸能だという。これは享保五年(1720)、遠国奉行所の一つ伊豆奉行所が浦賀に移転した際にあわせて伝えられたもので、歌舞伎や唐人踊りを組み合わせて、近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材とした珍しい踊りだとされている。

「アリャアリャ、ありがたや、叶明神の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆もいさんでカッピキュー」(西叶神社境内の案内板より「虎踊り」の一節)

西叶神社拝殿

西叶神社拝殿

天保八年(1837)の浦賀の大火で社殿が焼失、現在の社殿はその後天保十三年(1842)に再建したもので、再建費用はおよそ三千両であったと言われ、当時の浦賀の繁栄がうかがえる。社殿の彫刻は、後に千倉後藤流を開いた江戸後期の名工後藤利兵衛橘義光(初代後藤義光)の手による精緻かつ優美なもので、後藤利兵衛の代表作の一つに挙げられている。

浦賀の渡し

浦賀の渡し

浦賀の渡し(愛宕丸)

西浦賀と東浦賀をつなぐのが「浦賀の渡し」だ。いつごろから渡船が開業したのかは定かではないが、各種記録から、享保七年(1722)時点では渡船が無いと明記されているが、十一年後の享保十八年(1733)には渡船の運行・修繕に関する村々の取り決めの記録が現存することから、その間ではないかとされている。公営交通としての歴史としては、大正六年(1917)に浦賀町営となり、昭和十八年(1943)、浦賀町が横須賀市に合併されたことにより市営となり、昭和二十四年(1949)以降民間委託されて現在に至る。通称「浦賀海道」、全国的にも珍しい海上交通の市道である(「市道2073号」)。現在運航しているのは平成十年建造の「愛宕丸」で、片道大人150円、所要時間は三分ほどで対岸まで渡ることが出来る。

西浦賀から渡船で東浦賀に渡り、数分歩くと東叶神社が見えてくる。

東叶神社

東叶神社

東叶神社拝殿

東叶神社拝殿

東叶神社の歴史

この神社の創建についても資料によって食い違いが見られるのでよくわからない。「神奈川県の歴史散歩」P256によると、『西叶神社を、1644(正保元)年にここに勧請してまつったという』とあり、これは横須賀市の観光案内ページから「新編相模国風土記稿」の記述であることがわかるが、同ページでは元禄五年(1692)に浦賀村が東西に分かれたときに『西浦賀村の叶神社を遷して祀り、西の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだ』との説も紹介されている。「新横須賀市史 資料編 近現代I」にも同様の記載があり、横須賀市の公式な歴史としては浦賀村東西分立時の創建ということのようだ。また、社伝では西叶神社同様に文覚が養和元年(1181)に石清水八幡宮から勧請したことになっており、また、境内には源頼朝が手ずから植えたという言い伝えが残るソテツがあり、その歴史は謎が多い。

東叶神社からの眺め

明治までは耀真山永神寺という真言宗醍醐寺派三宝院に属する修験寺院で、裏山の明神山山頂では火渡り修行など修験道の修行が行われ、常時四人の料理人が常駐する三浦半島一帯で本山格の寺格をもった著名な修験道の寺院であったという。修験道の寺院であると同時に叶明神を祀る神仏習合の典型的な寺院であったようだ。江戸時代には西叶神社を本宮、永神寺の叶明神を若宮と呼び、祭礼は両宮持ち回りで行われていた。明治になって神仏分離令によって耀真山永神寺は廃され神社として独立、東叶神社となった。

産霊坂

産霊坂(明神山山頂へ)

奥の院

奥の院

浦賀城址の歴史

現在奥の院が設けられている裏山の明神山は、戦国時代には小田原北条氏の水軍が根拠とした浦賀城址である。浦賀城は相模三浦氏によって十五世紀末から十六世紀初頭にかけて築かれた水軍の城で相模三浦氏が後北条氏によって滅ぼされた後は、北条水軍の本拠地三崎城の支城となり、対里見水軍の防衛拠点として重視された。浦賀城を任されたのが「浦賀定海賊衆」で、北条綱成旗下の「玉縄衆」に組み入れられ、弘治二年(1556)の里見水軍との海戦以降は、北条氏の水軍の拠点として栄えた。天正十八年(1590)の後北条氏滅亡とともに廃城となる。

勝海舟断食の碑

勝海舟断食の碑

万延元年(1860)、日米修好通商条約批准のために使節団と、その護衛として軍艦奉行木村摂津守率いる咸臨丸があわせて米国に派遣されることとなり、その咸臨丸の艦長に任じられることとなった勝海舟が、出航を前にしてこの山頂で断食修行を行ったと伝わっている。海舟が断食修行を行ったのがいつか具体的な日程はわかっていないが、東叶神社のホームページによると、『断食修行の可能な期間は、咸臨丸改装工事中の安政6年(1859)11月下旬から、翌万延元年(1860)1月、咸臨丸品川出港前までの、比較的に時間にゆとりのある約1ヵ月半の間のことであったろう』とされている。

現地には勝海舟断食の跡の碑のほか、断食修行に使用した法衣が奉納保存されている。

アニメ「たまゆら」シリーズと西叶神社・東叶神社

最近、西叶神社・東叶神社と浦賀の渡しを有名にしたのが、2013年7月~9月末まで放映されたアニメ「たまゆら ~もあぐれっしぶ~」の七話で作中で描かれたことで、多くのファンの「聖地巡礼」の場にもなっている。僕もこの神社のことを知ったのは同作でのことだった。渡船場には同作のポスターが掲示され、神社にはファンによる絵馬が多く奉納されており、地域活性化に大きく貢献しているようだ。

たまゆら絵馬

たまゆら絵馬

創建以来様々なかたちで歴史の舞台となり、地域住民に愛され続けてきた神社であることが、現地を歩き、歴史を調べてみることで浮き彫りになってきた。

参考書籍・サイト
・神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会編「神奈川県の歴史散歩 (上) (歴史散歩 (14))
・横須賀市編纂・発行「新横須賀市史 資料編 近現代I
・横須賀市編纂・発行「新横須賀市史 別編 文化遺産
・横須賀市編纂・発行「新横須賀市史 別編 民俗
叶神社公式ホームページ(西叶神社)
叶神社ホームページ(東叶神社)
浦賀城 埋もれた古城
浦賀の歴史とふれあう散策ルート|横須賀市
10.東叶神社|横須賀市
12.渡船|横須賀市
たまゆら ~もあぐれっしぶ~

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