若き米国人女性宣教師マーガレット・バラが見た幕末日本

神奈川県の歴史について色々調べている過程で、図書館で幕末に日本を訪れた女性宣教師の手紙をまとめた本を見掛け、読んでみたら結構面白かったので軽く紹介してみる。まぁ、20年以上前の本で絶版のようだし、amazon見てもランキング115万位でレビューも無し、google検索結果も約 1,950 件(うち関係するのは三ページ目までで、しかもほぼ全てネット書店)、著者マーガレット・T・K・バラについての日本語wikipediaページも無し、と殆ど注目されていないものなので興味がある方は図書館なり古書店なりで探してみてください。まぁ版元の有隣堂も神奈川ローカルの出版社なので、他の地域で手に入るかは不明ですが。

著者のマーガレット・テイト・キンニア・バラ(1840-1909)が夫で同じくプロテスタント宣教師のジェイムズ・ハミルトン・バラとともにアメリカから船旅で日本を訪れたのは1861年11月、21歳のときのこと。夫ジェイムズは後に日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」を設立し、やはり日本人初のプロテスタント信者となる矢野隆山に洗礼を与えた。夫妻は開港直後の横浜村からほど近い外国人居留地の一角となった寺院成仏寺に、後にヘボン式ローマ字の創始者でお馴染みのヘボン博士や、後に明治学院大学へと発展する私塾を開く宣教師サミュエル・ブラウンたちとともに住み、宣教師らしい宗教的使命感と、20代前半という若さゆえの旺盛な好奇心で当時の日本の様子を色々手紙に書き記している。手紙は1861年から1866年と明治維新直前の間のものだ。

日本に到着するや否やバラ夫妻は後に洗礼を受ける医師矢野隆山を雇い日本語を習いはじめた。習い始めて一ヵ月目で日本語について彼女は簡単にまとめている。

『日本語のアルファベットは最初とても易しく見えます。たった四八文字ですから「簡単にマスターできる」と思って張り切ってやり始めるのですが、その四八文字を覚えたところで各文字に三つから四つの書体があることを知らされます。女文字の仮名は男文字とはっきり違わなくてはならないし、勉強を進めてゆくと今度は漢字が出てきます。漢字は一つおきくらいに出てきますから日本文を読むには漢字も勉強しなくてはなりません。日本語の本は学問的にも風変わりなものです。日本語のアルファベットは「シラバリー」つまり全部の音節を示す一覧表にすぎませんから、表意文字である漢字を書くことにはつながらないのです。普通用いられている漢字と純粋な日本語との関係は、ほぼラテン語と英語の関係と同じです。仮名で「ヨコハマ」と書くには四音節の文字が必要ですが漢字ではたった二文字です。それで「浜辺を横切る」という意味がすぐ分かります。』(P64)

『日本の女性は文明開化が進行している国々のなかでは注目すべき存在です。女性のために「ひらがな」(草書体)で書かれた本があります。この文字は日本で考案された四八文字のことでそれぞれの文字にさらに四つから六つの書体があります。「ひらがな」と呼ばれるのは、こまかく角張った「カタカナ」と区別するためです。カタカナはおもに学術的な論文を書くのに用いられます。』(P65)

『日本語の辞書にはたいていその語の仏教的意味が別にのせてあります。でも、これらの借用漢語はどれもその書体と意味だけを取り入れたもので、音声には関係ありませんから、中国語の発音や抑揚には神経を使わなくていいのです。日本語の文語体は「ひろがりすぎた」口語よりずっと簡明です。口語は間投詞や動詞の活用形らしい語があふれ、また言葉に奥ゆかしさを添えはしますが、翻訳することのできない敬語や丁寧語がいっぱいあります。欲求や感情を表す言葉は一般的に単純で素朴なものですが、日本でも同じことで特に女性の言葉がそうです。日本が世の人々をおどろかせ喜ばせたもののなかで、女性が残した書簡文学は特筆に値すると思います。』(P66)

日本語を習い始めて一ヶ月目の21歳とは思えない日本語分析の緻密さには非常に驚かされる。当時の日本を訪れた宣教師たちが抜群の知性を備えたインテリ揃いであったことがよくわかる。また「おはよう」は『オハイオ州と同じ発音』(P71)と書いていてちょっとくすっときたのと、召使の男性に「薪(マキ)」を頼んだら、小さな女の子を連れてきて、何かと思ったらその子の名前が「マキ」だという、マンガのような勘違いエピソードが微笑ましかった。

当時の日本の民衆の生活も色々書いている。

『話は変わりますが、ここでは「ヤオヤ」(八百屋)さんがやってきます。ヘボン博士に食事の野菜や果物を頼まれたときには出て行ってその買い物をします。そうですねえ、先ずはほうれん草、あまりやわらかくないんです。かぶ、かぼちゃ、お芋はアイルランド産のものとさつま芋と両方あります。ナッツ類としては大粒の栗、一種のくるみ、柿、オレンジ、ぶどうなど。いまはこういった冬物ですね。私は欲しいものを選び、わらで編んだ紐に通してある銅貨を支払います。すると八百屋さんは丁寧に頭を下げ、かしこまってお金をささげ持ち、自分のおでこに押しつけてから籠のなかに放りこみます。それから籠を棒の両端にぶら下げて肩にかつぎ、急ぎ足で次の家のほうに行ってしまいます。新鮮な魚もいろいろ手に入ります。アメリカのものと種類は違うようですが、野菜と同じように買えますから、買い物はそれほど苦労しなくてすみます。それでも口にあう牛肉ということになれば横浜まで人をやらなくてはなりません。豚肉もときどき買いますが、マトンは値段が高すぎて宣教師の身ではお目にかかることもまれです。日本人は羊を飼わないで中国から輸入しますから高価になるわけです。』(P61)

『入れ墨は別当つまり馬丁のような庶民がしています。下の階層の人々は裸に近い格好をしていることが多いものですから、首から足のかかとまで入れ墨をしているのをよく見かけます。赤や青の竜、武者絵などが彫られています。これらの模様は走るときには着物のかわりになります。別当などは腰帯だけであとは裸なのですから。』(P92)

『日本人も夢については特異な信仰を持っていて、夢は魂の行動だと考えています。人が眠ると魂はすぐ身体を離れて遊びに出かけるというのです。ですからもし睡眠中に急に起こされたりすると、魂は遠くにいて戻ることができませんから、その人は死んでしまいます。また魂は種子のような、何か丸くて黒っぽい小さな粒だとも考えられています。日本人はけっして頭を北にして寝ないで、いつも東になるように心がけています。旅館などには客の便宜をはかって東西南北の方位を示した図表が貼ってあります。』(P103)

『日本のおおかたの猫には尻尾がありません。大きくてつやつやと肥えていますが怠惰で、ネズミをとって食べる気はないのです。ここのネズミは猫と同じくらい大きいものですから、猫のほうは飛びかかっても無駄だと知ってるのでしょう。ネズミはおかげでしたい放題、とても横暴です。ときどきイタチが出てきて助けてくれなかったら、人間が身体ごとさらわれてしまいそうです。なぜ猫に尻尾がないのかまだ満足な説明を聞いたことがありませんが、白と黒の毛がもじゃもじゃの可愛いプードル犬がなぜ獅子鼻をしているのかというのと同じようなものでしょう。この二つの動物が最も愛玩されています。首に派手なリボンを付けてもらい、体にはエプロンを巻いて着飾っています。』(P105-106)

『若い娘については、平たい鼻とかしいだ眼が気にならなくなってからなら、とてもかわいく見えます。娘たちはきれいな白い歯ときらきらした黒い瞳をしていて、血色が良くいつも快活です。でも、ぞっとするような習慣があって、娘たちは婚約したり結婚したりすると眉毛を剃り落とし歯を黒く染めなければなりません。ですから一度に容色を失ってしまいます。

(中略)

婦人はアメリカと同じように外出するのも人を訪問するのもほとんど自由です。ほんとに、日本では婦人の交際上の自由が広く認められていますよ。食事の世話をして家のなかが片付いたら、婦人はどこへ出かけてもかまいませんし、火鉢を囲んでお茶を飲みながら気のあう人とおしゃべりするのも自由です。』(P124-125)

夫妻に日本語を教えていた矢野隆山は医師であったので日本の医療制度について彼から聴いたことをまとめている。

『医療制度は三つのクラスに分かれています。一つは専属の宮廷医。次は軍医で、一般市民の治療をすることもあります。それから町医者いわゆるドクターで、市民全般を担当します。医者まがいのクラスもあって、これはアメリカと同じです。薬草、蛇、トカゲなどから薬を作り、かならず奇妙な予備治療があります。たとえば皮膚病とか、かかり易くて治りにくい慢性の病気などの場合は、先ず熱いお風呂に入ります。それではかばかしくないときは鍼とかお灸をします。』(P91)

彼女は川崎大師や鎌倉の鶴岡八幡宮、鎌倉大仏などの観光地を訪れたり東海道を馬で散策したりとかなりアクティブに色々な名所を見て回り、それぞれの場所の様子やその場所にまつわる伝承や歴史などを細かく書き留めている。鎌倉大仏の手のひらの上に住職に薦められて乗せてもらった話とかうらやましい。その中の一つ神奈川の法華宗寺院豊顕寺でのお祭りの様子をかなり活き活きと描いている。

『今日はこの寺院のお祭りの日で神奈川一帯は大にぎわいです。寺院には幅一〇フィートほどの切り石の参道が通じていて、その両側に小屋掛けの売店がびっしりと並んでいます。玩具やお人形があふれ、子供が喜びそうなものはなんでもあります。大きな「マツリ」の日とか宗教上の休日に、派手に着飾った老若男女が群れをなしている光景には圧倒されます。「マツリ」を見るまでは日本人の生活は語れないと言われるのももっともです。

(中略)

売店ではいろいろなゲーム用具、玩具、髪飾り、安価で素朴なきれいな櫛、ちりめんの替え襟、帯、下駄、草履、縄、番傘、お祭りの数珠、鉛や真鍮の木の仏像、寺社の模型、家庭用仏壇、経本、お鈴、ローソクなどを売っています。売店の一つからスポンジケーキを焼くいい香りがただよってきます、「カステラ」と呼ばれているものです。そのほかホットケーキのような菓子、煎った木の実などもあり、魚を油で揚げるむかつくような臭いもしています。麦芽糖の飴ん棒をひっぱりあっているおチビさんがいるかと思うと、老婆と孫らしい娘が、木をすりほぐしたような薄っぺらなものを地べたに並べて売っています。これはお湯のなかに落とすと、花や鳥や木や動物の形になって開きます。』(P114-115)

目まぐるしく動く幕末の政情、治安が悪化し流動化する社会の様子についても、彼女は冷静な観察眼で分析している。

文久三年(1863)六月、相次ぐ外国領事館焼打ち事件を受けて外国人の安全保護を名目に幕府は神奈川の居留地に住む外国人を横浜に移すことを求め、これが実行されることになったが、これについて彼女は鋭く幕府の意図を洞察する。

『横浜は運河ですっかりかこまれて本土から切り離されていますから、兵糧攻めにするのも簡単ですし、援軍が来るまえに町を焼き払ってしまうこともできるでしょう。それなのに外国人側では、貿易の自由を制限するのが幕府の目的だろうぐらいにしか考えていないんですよ。』(P150)

元治元年(1864)の手紙より。

『開国以来、革命と反革命とが連続しているように見えます。これらの動乱の根本は、新しい発展の時代のためにはもっと自由な政策が必要だとする人々の側にあるようです。
幕府の保守的な人々は、こういう進歩的な対策は帝国の安定を乱すおそれがあるとして嫌いますから、国全体が北と南に分裂しそうな状況です。北部の将軍にくみする進歩的な大名は、もっと自由に貿易を広げた方が新しい国造りになると考えているようです。これに対して天皇にくみする南部の大名は、外国人を国内に入れることや、将軍側が必要としている新施策に対して反感の目を向けています。天皇政府がすべての外国人は日本から退去するか、さもなければ六月末に外国人を攻撃して一掃するつもりだから、それに備えるかするようにという通告を出していたから、横浜にいる民間人はまったくのパニック状態に陥ってしまいました。ただちに中国にいた軍隊が駆けつけて警備にあたっていますが、まだまだ不安で何が起こるのか心配です。』(P158-159)

『現在はイギリス人が優位に立とうとしています。幕府へのすべての請願は、自分たちを支持している勢力から圧力をかけてもらう必要があります。貿易上の日本の最恵国は港に最も多くの軍艦を停泊させている国だと、わたしは見ています。イギリスは日本に軍隊を駐留させていますから、要求どおりに土地を手に入れています。横浜に目を付けて商人たちと組んだのはイギリスの領事でした。そしてアメリカよりも二年早くここに腰をすえましたから、役人にも顔がきくわけです。

(中略)

アメリカ人は全体としてもっと親しみやすく、対等に付きあえると日本人は認めています。でも東洋にアメリカの占有地はなく軍隊を要請することもできません。軍艦はみな本国の戦争(南北戦争)に必要でしょうから。そんなわけで、私たちはただイギリスに光を奪われてゆくのを甘受しているだけなのです。』(P160-161)

『裏工作をすることと真実を無視することは日本の役人の特性のようですが、信条や国籍を問わず破廉恥な外国人が冷酷非道な行いをしたり、裏切り行為をするのと同じようなものかもしれません。いまはこういう人間が横浜の人口の多くを占めています。こういう日本の政治の転換と動乱は、国民にとっても、この文明の先駆者となる運命にある人々にとってもまさに大きな試練の時です。

(中略)

朝食のときも、昼食会のときも、夕食のときも、食べ物がわりのように聞かされるのは、暗殺、砲撃、地方大名の裏切りなどのことです。それで私たちは外国人だけがこの動乱の原因ではなくて、外国と条約を結ぶ以前から、日本には革命の機運が熟していたという事実に目を開き始めています。私たちは公然と反乱を起こすための格好な口実にされているらしいのです。』(P162-163)

生麦事件や薩英戦争、下関戦争について、軍事力を背景に徳川幕府から賠償金を得た米国も含めた諸列強の政策についてもこう批判する。

『このような時期にこのようなことを強要するのは、自国を向上させてキリスト教国と対等になろうと悪戦苦闘している人々を勇気づけ励ますものだったでしょうか。これらの報復行為を正当化する人たちは、この世に「審判の日」がないとでも思っているようです。いままさに革命の陣痛と戦っている小さな国を圧迫して、その弱みにつけ入るのは、自らの欠点ばかりか卑劣さをも示すものですね。たとえその行為が本国の議会や新聞できびしく告発されないまでも、こうした強欲は許されてはなりません。』(P163-164)

慶応元年(1865)一月の手紙

井伊直弼暗殺以降、何かにつけて「浪人」が現在の政情不安の諸悪の根源のように言われる日本社会の風潮について。

『ご存知のとおり、同時代の出来事を根本から動かしている力がはっきりするのは、いつの場合も年月が経過した後のことです。その時代にあっては表面に出た者が最高責任者と見なされがちですが、本当は官僚機構のほんの一部の力にすぎなかったかもしれませんね。』(P168)

二十代前半の女性である彼女の洞察にはある種の透徹したリアリズムが感じられる。丁度同時期(1870年代)のアメリカで後にプラグマティズムと呼ばれる実証的な思想潮流がプロテスタンティズムの神学を前提として誕生するが、その土壌となるような共通の教養――あるいは時代精神とでも呼ぶようなものかもしれないが――を、彼女も身に着けていたのかもしれない。また、二十世紀になるとラインホールド・ニーバーらのクリスチャン・リアリズムの潮流も生まれてくるし、当時のプロテスタント宣教師たちが持っていた、ある種の客観主義・相対主義的な視点はもっと注目されてしかるべきなのかも、などと思ったりもした。

勿論、こうしたリアリズムの視点と、日本の宗教文化を偶像崇拝として嫌悪し、その啓蒙という宗教的使命感に基づいてキリスト教を布教しようという情熱と、日本の異教的慣習に染まってしまうことの恐れや、それを受け入れつつある自身の倫理観への疑問と苦悩の吐露も多く見られ、「近代」を生きた人々の空気が非常によく伝わってくる書簡集だ。

まぁ、著者も無名だし、何か歴史的事件に関ったわけでもないし、時期も1861年~1866年と明治維新前で終わっているしで今後も注目されることはない史料だと思うが、同時代の日本を訪れた宣教師たちの手紙やメモなどは少なからぬ量が未邦訳のままなのだろうから、貴重ではあると思う。多分、同様のリアリスティックな視点で当時の日本を眺めていた人はたくさんいたのだろうから、それらの未邦訳であろう宣教師関連資料の邦訳は、重要な気はするなぁ。

歴史上時々現れる、激動の渦中で冷静に状況を俯瞰し、それを書き留める観察者の思考の土台となっているものは何か、というのは常々気になっているところだったので、個人的に興味深く読めた。

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