「東京湾」はどこからどこまでか?2つの基準がある

『【東京湾】
関東平野の南に湾入している海湾。狭義には観音崎と富津岬を結んだ線より北の部分を、広義には三浦半島の剣崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北の部分を指す。浦賀水道によって太平洋に通ずる。沿岸の埋立が進んでいる。』(「広辞苑 第六版」)

広辞苑には東京湾の範囲についてこう説明されている。狭義と広義の範囲の違いは歴史的な範囲と行政上の範囲の違いである。

狭義の歴史的な範囲について、「江戸湾」という呼称は明治時代に東京湾という呼称が生まれてから、東京湾という呼称の対比として使われるようになったもので、江戸時代には現在の東京湾にあたる海域は「内海」(または「内湾」)、または江戸を冠して「江戸内海(江戸内湾)」か「江戸前」と呼ばれていた。その「内海」から外の太平洋は「外海」で、その区切りとなるのが三浦半島の走水地域にある観音崎と房総半島の小糸川河口付近(富津洲)にある富津岬を結んだ線であったとされる。(横須賀市編纂・発行「新横須賀市史 通史編 近世」P198-199)

原則、江戸時代の史料には「江戸湾」という記載が見られないため、その呼称は江戸時代には存在していなかったとされているが、ペリー艦隊の公式記録には”Yedo Bay”、”The bay of Yedo”という記述が見られ、また横浜開港後に来日した外国人たちの間でも「江戸湾」という呼称が使われていたことから、この頃から「江戸湾」という呼称が浦賀奉行所の役人など日本人の間でも広まり始めていた可能性もある。(横須賀市編纂・発行「新横須賀市史 通史編 近世」P199)

走水と富津洲の間は東京湾がもっとも狭まる海域で、古代から三浦半島と房総半島とを繋ぐ航路として発展していた。古事記にもヤマトタケルが走水を訪れるなどの東征伝説としてこの航路が登場する。また富津岬周辺は外洋から湾内への潮流と湾内から外洋への潮流が混ざり合う航行上の難所としても知られており、古くから航海の目印になっていた。江戸時代になると、寛永九年(1632)、走水には江戸に向かう廻船の積荷のチェックを行う走水番所が設けられ、文字通り江戸への海の玄関として機能していた(江戸から出る廻船の船改めは三浦半島の三崎口に設けられた三崎番所があたった)。元禄九年(1696)、三崎・走水番所は伊豆下田に統合、享保五年(1720)、下田から浦賀に移転され、開国を迎えることになる。(神崎彰利、大貫英明他編著「県史14 神奈川県の歴史」P170-171、鈴木理生編著「図説 江戸・東京の川と水辺の事典」P35)

広義の行政上の範囲について、水質汚濁防止法は昭和四十五年(1970)公布の、公共用水域の汚濁防止を図る法律で、その施行令で対象となる水域の範囲を明記している。環境省「日本の閉鎖性海域データベース(閉鎖性海域ネット)」の東京湾の項で、『水質汚濁防止法施行令第4条の3第1号に規定する海域(館山市洲埼から三浦市剣埼まで引いた線及び陸岸により囲まれた海域)』と定義されている。

Wikipediaにそれぞれの範囲を明示した海域図がある。ピンク色が狭義、水色が広義の東京湾である。

最近、走水神社から観音崎あたりを歩いたので、その紹介記事の予習用に東京湾について簡単にまとめただけなのでだからどうしたという話ではあるかもだが、この狭義の範囲に基づく位置関係を把握しておくと、東京湾を中心として関東の歴史的位置関係を立体的に見る一つの要因にはなる、はず。

つまり、東海道から鎌倉を抜けて三浦半島と房総半島とを繋ぎ東北へ進む横のルート、太平洋から三浦半島を経由して東京湾内へ入り利根川、荒川などへ入り、そこで河川を遡り奥地へと進む縦のルート、この両者で走水・富津洲地域が基点となっている。さらに湾内の各河口に設けられた湊(港(ミナト)・水門(ミナト))同士が湾内を行き来する斜めのルートもある。現代では、ほぼ縦のルートの太平洋-東京湾-東京港間以外全て陸路で置き換えられているものでもあり、狭義の範囲の基点がなぜその両地域なのか直感的にわからないのではないかと思う。あと関連して中世の江戸湊についても調べてはいるのだが、それはまた別の機会に。

参考書籍・サイト
・新村 出 編「広辞苑 第六版 (普通版)
・横須賀市編纂・発行「新横須賀市史 通史編 近世」
・神崎 彰利、大貫 英明 他編著「神奈川県の歴史 (県史)
・鈴木 理生 編著「図説 江戸・東京の川と水辺の事典
東京湾 – Wikipedia

日本の閉鎖性海域データベース(閉鎖性海域ネット)

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