賢者は歴史に学ぼうとして偏った歴史の類推に執着する

米国の歴史学者アーネスト・メイ(1928-2009)は、1973年の著書「LESSONS OF THE PAST : The Use and Misuse of History in American Foreign Policy(「歴史の教訓 アメリカ外交はどう作られたか」(中央公論社1977年刊、2004年岩波現代文庫より再刊))」で、アメリカの外交において、政策決定者たちはその決断の際に過去の歴史から類推して参考にし、多くの場合その類推は誤用であったということを解き明かしている。それは以下の二つの特徴として現れるという。

1) 外交政策の形成者は、歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じているものの影響をよく受ける。(序文iiiより)
2) 政策形成者は、歴史の中に類推を求める時、自らがまず思いついたことに囚われてしまいがちである。彼らは、歴史の類推例を広範囲にわたって探し出そうとしないし、それ以上にその先例を分析したり、先例の妥当性を検証したり、さらにはなぜそれが政策上の陥穽に陥るのか問いただしたりすることさえしない。(序文viより)

このような例をF・ローズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソンなど40~60年代の米国歴代政権の意思決定過程に見出している。ローズベルトは第二次大戦中に、第一次大戦後のウィルソン外交や対ドイツ処理の宥和政策を、トルーマンは戦後処理から朝鮮戦争・冷戦勃発の過程で1930年代のヒトラー台頭をそれぞれ反面教師として同時代に重ねあわせ、多くの場合、いくつもある政策案の中からより強硬な政策の選択という形で意思決定に少なからぬ影響を及ぼすことになった。

ローズベルトは第一次大戦後の宥和政策によってドイツが再起して第二次大戦へと至ったという歴史認識の元で第二次大戦でも戦後処理で枢軸国を徹底的に再起不能に追い込まねば復活し、みたび世界戦争になると考えていたし、トルーマンはスターリンとヒトラーを重ねあわせてソ連が膨張主義政策に出ていると理解し、スターリニズムとナチズム・ファシズムとを同一視して強硬な政策を打ち出した。しかし、第二次大戦と第一次大戦とを類推すること、ソ連とナチス・ドイツとを類推することの妥当性が特に他の時代と比較検討されたわけではなく、その時代が選ばれたのは単に大統領や閣僚、官僚らの思い込みや固執でしかなかった。

『一般に、過去の例が引用された時には、その事実や意味についてまったく異論をさしはさむ余地がないかのような形で引用され、しかもその引用に当って二つのまったく異なった方法が、区別されることなく用いられてきた。すなわち、ある時は、全体の文脈から論理が次のような形で展開される。「Xが以前に起こった。それゆえにXは再び起こりそうである。」そしてまたある時は、次のような形で論理が展開される。「これこれが人間世界に見られる通常の型である。Xはそのひとつの例である」』(P174-175)

他の時代とも比較していればこうなったかもしれない、もっと良い選択肢があったかもしれない、というのはあくまで結果論でしかない。メイも他の歴史をモデルとして、あるいは歴史に範を求めるに際して適切な時代を比較検討したうえで政策を決定していたとしても、ローズベルトやトルーマンなどの政権での意思決定では、多くの場合、他の要因とも相まって、似た政策が選択されていただろうと否定している。そうではなく、意思決定の際に過去の歴史に類推例を求めるのが必然的現象であるなら、その例の選択に際しても極力思い込みを排して、様々な時代の事件や事例を比較検討の上で、可能な限り現代を類推するのに妥当な歴史の例を選択するようにすべきではないか、ということを論じている。

『人は不安に襲われた時、それも限られた選択肢の中で緊急の決断を下さなければならない時――すなわち危機に直面した時――に、なじみの過去に類推例を求めて不安を除去しようとする。国家も同じように危機的状況下にあって、過去に類推例を求めてそこから”教訓”を得ようとする。そしてその教訓から得た言説によって”脅威”をつくり、自らを一連の行動へと駆り立てていく――。』(P319-320)

近年目立つのは、現代日本社会を第二次大戦前のワイマール共和政下・ナチス政権下のドイツや、昭和初期の日本などとの類推で語る言説だ。確かに類似点は少なくないとしても、果たしてそれが類推例として妥当なのか、むしろ、その類推を繰り返すことによって、他の時代との比較検討の可能性を失わせ、ひいては個人から国家まで意思決定の選択肢を狭める結果になりはしないか、という懸念を歴史好きの一個人としてどうしても抱いてしまう。

ポスト冷戦期に入り、現代社会では全体主義の脅威は常に最悪を想定させるスローガンとして機能してきた。これは洋の東西を問わない。チャウシェスクもミロシェビッチもサダム・フセインもカダフィもアサドもみなヒトラーの再来に模され、セルビアもイラクもあるいはタリバーンも「ナチス」として捉えられ、欧州のナショナリズム運動の勃興は戦間期のファシズム運動を思い起こされ、日本でも政権のパターナリスティックで国権強化の諸政策は昭和初期の軍部台頭に模され、世界中の政治家でヒトラー・スターリン・東条英機でない者を探す方が難しい程度に、世界は空前の「戦前類推ブーム」を迎えている。ちょっと油断すると、何でも戦前を想起して脅威を感じてしまえる程度に、「戦前」とは他のあらゆる時代を差し置いて最も「なじみの過去」であるといえるだろう。

だからこそ、世の中の悪なるものを、不安や恐怖を、1920~40年代への類推でひとまとめにすることの陥穽について、もっと語られてしかるべきだと思うのだ。その時代を現代にあてはめることは、それがよく比較検討された妥当な類推であったとしても、多くの場合、現代の様々な事象を善と悪、敵と味方という価値判断に基づく非妥協的な二項対立構造で分類することになる。「まったく異論をさしはさむ余地がないかのような形で」の単純化は複雑な諸問題を判断する際に不用意に選択肢を狭めることになりはしないか。

敢えて他の国の他の時代と比較することの必要性があるのではないだろうか。例えば現代の日本社会を1850-60年代のドイツと比較してみると何が見えるだろうか。おそらく次々と勃興する市民結社と運動、ナショナリズムへの傾倒と民族という想像の共同体の創出、他者の排除や市民相互の対立、強い国民国家の希求という風景に何らかの共通点があるかもしれない。あるいは、1970年代のアメリカではどうか。福祉国家の行き詰まりが新右翼(ニューライト)と自由至上主義(リバタリアニズム)の結合を生み、信仰回帰運動が反リベラリズムと結び付いて巨大な宗教保守の台頭を促し、強いアメリカを希求するレーガン政権へと至る、その過程に現代日本との一致点が見いだせるかもしれない。あるいはフランスでは?イギリスでは?ロシアでは?中国では?現代の国際情勢は本当に戦間期との類似性が最もあるのか?さらに言えば、時代そのものが似ているかどうかにはさほど意味はなく、個々の事例同士、置かれた状況を踏まえての比較の方がより適切な分析に近づけるだろう。

「戦前」への甘い誘惑から距離を置いて、丁寧に過去を検証してはどうだろうか。

もうひとつ、メイの重要な指摘として、長すぎる機密情報の保護期間がその学術的な検証を妨げる問題がある。機密文書が公開されてから、研究者が自由にそれらの情報を検証して様々な論文や著書を発表するまでに5年から10年かかる。本書当時で米国の機密情報の保護期間は25年、現在の米国法では保護期間10年以下で、例外として25年となっている。機密情報が守られている間それが検証されるわけではないから、実際に政治的決断の客観的な検証は機密情報保護期間プラス5~10年後ということになり、最近成立した日本の「特定秘密の保護に関する法律」では保護期間は30年未満だから、実際に検証されて、過去の実例として判断の参考にできるようになるのはおよそ半世紀後のことだ。

『かくて現存の人の記憶にある事件を分析しようとする歴史家は、おおむね不利な状況におかれ、しかもそうした状況を政府自ら作りだすことによって、ほとんどの役人から見て重要で役立ちそうな事件ですら、それを再構成し解釈するにあたって専門家から援助を得る可能性を、政府は否定してしまっている。』(P272-273)

ちなみにメイは「歴史政策学」という「政策を”時間の流れの中”で考える」学問分野を提唱して、アメリカの政治的決定に歴史学者の見解を反映させることを提案しているのだが、実際のところ、経済学などのように数理モデル化できるわけでもなく、その方法論が確立されているわけでもないので、歴史学者を政治にコミットさせることには個人的には疑問だ。単に歴史学者という肩書の前例主義の官僚が増えるだけでしかないのではないか、と思わないでもない。その一方で、過去の様々な事例を比較検討して、意思決定の際の参考にするために、歴史研究を活用する、というのは、人が決断に際して歴史の類推に依存せざるを得ないのだとするなら、非常に重要なことだと思う。

同書の解説から、メイは後に「政策を”時間の流れの中”で考える」ための公準を以下の五つにまとめているという。

(一) 現に直面する危機に類似した”歴史の先例”を分析し、危機の諸事実に関して”既知のこと”と”未知のこと”とを腑分けして当該争点の位置を明らかにする”争点史の検証”を進めること。
(二) 依拠しようとする先例を取り巻く”歴史的諸前提”――国際関係であれ国内諸条件であれ――の違いを明確にする”諸前提の比較”を進めること。
(三) 依拠している”歴史の類推”例と”現に直面する危機”との相似性と異質性を鮮明にする”類推例の解析”を進めること。
(四) 分析対象である組織――旧ソ連や北朝鮮のような国家であれ、クレムリンや社会保障庁のような官僚機構であれ――の仕組みと政策形成メカニズムを明らかにする”組織の読み解き”を進めること。
(五) 同時に、分析対象となっている人間――政策形成者たちの来歴や性格や世界像――を明らかにする”他者の読み解き”を進めること。(P336)

現代社会が戦前に見えて仕方がない人は、現代の脅威と1930年代の脅威とが類似・同質のものだと思う人は、一度、このようなアプローチで歴史と現代世界とに向かい合ってみてはどうだろうか。きっと、違った「歴史」が見えるはずだ。まぁ、歴史に類推を求めるのが人の哀しき性なのだとしても、現代社会の類推先としての歴史を探し求めてもおそらく望むものは見えず、ただ歴史として捉えていく姿勢でいる方が、実は見えてくることの方が多いと思う。

歴史の教訓―アメリカ外交はどう作られたか (岩波現代文庫)
アーネスト・R. メイ
岩波書店
売り上げランキング: 246,431
スポンサーリンク
スポンサーリンク

フォローする

関連コンテンツ

スポンサーリンク
スポンサーリンク