1590年当時の東京湾(江戸内海)原地形図と江戸湊について

先日書いた東京湾の範囲問題などもろもろ調べている過程で見つけた、1590年当時の東京湾(江戸内海)を中心とした原地形図。鈴木 理生 編著「図説 江戸・東京の川と水辺の事典」より。江戸前島半島の左沿岸、日比谷入江という表記の「江」の字と丁度平行な位置あたりが今の新橋駅、その対岸の高台に愛宕神社がある感じの位置関係ですね。また、古川は現在の渋谷川。

1590年当時の東京湾

色々説明し出すと非常に様々な点に触れることになることもあって、それも今の理解ではなかなか難しいところではあるのだが、図の引用だけで終わらせるのも適切ではないので、簡単に触れると、前回の記事でも説明したように、三浦半島の走水から房総半島の富津洲へと横断航路が古代から発達していたが、それと交差するように、太平洋から東京湾への銃弾航路と、武蔵野台地の各河口に登場した湊(ミナト)同士を繋ぐ航路、さらに湊から河口を上る輸送路が古くから発達していた。

「湊(ミナト)」の語源には、いくつかの解釈があるが、近畿・九州地方の「ヤマト」に対立する概念としての「ミナト」という説、川辺の低地に住み、水上生活を営む人々の総称としての水人(ミナト)を語源とする説などがあるが、その意味するところとしては「川がその支流の水を集めて大河となり、河口から海に流れて散っていく有様を象形した文字」(鈴木P33)で、「水上の人々の會まる所」(鈴木P33)すなわち都市機能そのものを「湊」と呼んだという。

湊を築いたグループは様々だが、八世紀ごろに西日本から関東に渡来してきた安曇氏を首長とした忌部族(または海人部(アマベ)族ともいい、海部族もその一族となる)の末裔が関東に広く分布し、神田明神を祀ったのも安房国の海部族だともいう。中世までに浅草湊、品川湊、江戸湊など十二の湊が栄えて交易や相互の行き帰が行われて経済活動が盛んになっていった。

様々な湊の中で江戸湊について簡単にまとめておくと、江戸湊は地図上の平川河口付近に江戸氏によって作られた湊で、治承四年(1180)八月、源頼朝が軍を率いて武蔵国に侵攻、江戸湊を支配していた江戸重長は荒川流域を支配する畠山氏、入間川流域を支配する河越氏らとともに、平氏側勢力としてこれを迎え撃ち、入間川と古隅田川が合流するデルタ地帯を支配する葛西氏の仲介で頼朝に降伏、後に鎌倉政権の有力御家人として重きをなしていく。江戸湊は鎌倉時代を通して重点的に開発され、鎌倉幕府の経済的基盤の一つとして発展。後に江戸氏は台頭してきた太田道灌によって江戸城を明け渡して世田谷喜多見に落ち延び、喜多見氏として江戸時代を迎えるが、江戸初期に断絶する。その間後北条氏の経済基盤となり、その滅亡後、徳川氏と支配権が移り、江戸湊は日比谷入江の埋立や江戸城の大拡張工事など「江戸の大普請」を経て、平川が外堀の一角となっていく過程で消滅した。

十七世紀末ぐらいまでに、図の日比谷入江や江戸前島半島まで陸続きになっていき、様々な河川は大きく流路が変えられ、上水が整備され、中世的な湊が次々と消滅し、江戸が大都市として急速に確立されていくので、この時代、劇的な変化が訪れたということがわかるのではないだろうか。

様々な見方が出来、色々な発見があり、非常に妄想が捗る地形図なのん。

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