人口動態からみた古代ローマ帝国の社会

古代ローマ帝国を人口から眺めてみよう。あくまで数少ない文献史料と様々な考古学的調査に基づいての暫定的な推定値ではあるが、当時の人口動態とその人口動態を背景とした社会の様子が「古代ローマを知る事典」に概説されている。

まず首都ローマの人口は、イタリア全土を支配下においた紀元前270年頃の時点で約九万人だったが、以後カルタゴを滅ぼし、マケドニアに侵攻し、シリアを制し、ギリシアのアカイア連邦を撃破して地中海の覇権を確立した前130年頃には約三七万五千人に膨れ上がり、血で血を洗う権力闘争の果てにオクタヴィアヌス(アウグストゥス)が即位、アウグストゥスが崩御した西暦14年の時点で約八〇万人の超巨大都市に成長、最盛期となった五賢帝最後のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝時代の西暦164年にはついに100万人となった。西暦164年のローマ帝国総人口は6130万人で、当時の地球総人口三億人の約二〇%がローマに住んでいた。ちなみに西暦156年の漢帝国の総人口が約6000万人と推計されており、当時、両国に全人類の四割が住んでいたことになる。

ローマ市街地の面積も古代都市としては破格の大きさで、最盛期のポンペイが63ヘクタールであったのに対し、アウレリアヌスの市壁(三世紀末建設)に囲まれた市壁内の面積は1386ヘクタール、現代日本の東京都墨田区1375ヘクタールとほぼ同じ広さである。ただし墨田区は人口254,627人(平成26年1月1日現在)と、ローマの四分の一程度である。もちろん城壁内に全て住んでいたわけでは無く城壁外にも居住地域が広がっていたが、市街地からあまり遠すぎても生活できないため、『できるだけ市壁の近くに』(P178)集まっていたと考えられている。上下水道が整備されていたことはよく知られているが、試算によるとコンスタンティヌス帝時代には一日に15~16億リットルの飲料水が毎日供給されていたともいい、これは墨田区の一日あたりの水道供給量の二十倍だという。

超過密都市であったため、ローマは一日中人々が行きかい、騒音がひどかったらしい。ローマでは午前中が就業時間で午前十一時ごろに人ごみのピークを迎え、止むことのない建築・補修工事で馬車や運搬車両が行きかい、鍛冶屋や細工師の作業音や物売り・物乞いたちの声が響き、日没とともに街には酔客が溢れて喧噪に包まれ、深夜には呪術師たちの詠唱や呪術道具の音が人々の眠りを妨げる。「貧乏人にとって都には、もの思う場所も休息する場所もない」と詩人マルティアリスが嘆いている。

人口の過密ゆえの土地不足からローマではアパート形式の集合住宅(インスラ)が多く作られた。集合住宅は高層化し、ローマからほど近い港町オスティアでは高さ十五メートル、三~四階建ての集合住宅などもあった。四世紀のローマでは一戸建て住宅1に対し集合住宅25というから、およそ96%が集合住宅であった。ただし建築技術が現在とは比べ物にならないほど低いから、上層階ほど火災や崩落の危険と常に隣り合わせで、それゆえに低所得者ほど上層階に住んでおり、このような危険から建築物の高さ制限も設けられていた。一方、一握りの富裕層だけが住む一戸建て住宅(ドムス)は集合住宅とは比較にならないほど贅沢な作りで寝室、食堂、客間、書斎など用途ごとに部屋が仕切られ、開放的な玄関広間、天窓と建物中央に設けられた中庭から光を取り入れ、集合住宅地区とは一線を画して都市の喧騒からも自由であった。

現代の大都市にもひけを取らない人口過密都市に暮らすローマの人々はしかし、現代人とは比べ物にならないほどその生涯は短く死と隣り合わせであった。

0歳時点での平均余命は女性25.0歳、男性22.8歳だが、これは非常に高い乳幼児死亡率が背景となっていて、0歳児の約30%が1歳まで生きられず、5歳を迎えられるのは男女ともおよそ50%程度でしかない。無事5歳まで生き延びると、5歳時点での平均余命は女性40.1歳、男性39.0歳となる。60歳以上生きられるのは、わずか10~15%というところだ。ゆえに非常に若い社会でもある。ローマの平均年齢は女性27.3歳、男性26.2歳で、60歳以上は女性7.4%、男性4.8%であった。老人(セネクス)の集まりを意味する「元老院(セナトゥス)」も実は二十代後半から四十代の議員でほぼ占められていたと考えられている。

このような若い社会であることを背景として年長者は尊ばれ強い影響力を持った。貴族層では、一族の最年長者が「家父長(パテル・ファミリアス)」として一族の生殺与奪の権を持ち、全財産を所有、イエに君臨し、元老院に議席をもつ。ただし、政府とイエとが対立しないように、公務の地位が優先された。つまり、家では家父長と子の関係でも、公務にある子は家父長と見なされて、職位の序列が優先する。しかし、老人が尊ばれた一方で、強い家父長制社会の反動で、引退後も権力を行使するような年長者に対する憎悪の念もまた強かった。「六〇歳は橋から(突き落とせ)」ということわざや、棄老伝説も見られ、引退した老人から投票権を取り上げろと叫ぶ現役世代の声も強かった。

強い家父長に率いられたイエが帝国の藩屏として機能していたがゆえに、イエの存続のために結婚は非常に重視された。ローマ法では12歳以上の女性は結婚が可能であったが、初代皇帝アウグストゥスは貴族層に20~50歳の女性と25~60歳の男性は全て結婚状態にあるよう義務づけ、様々な出産奨励策を打ち出し、以後ローマ帝国の国策として受け継がれていく。

ローマの女性は生涯に五人以上出産しないと人口は減少することになるが、基本的にローマ帝国の人口は微増傾向であったから全体としては最低でも出生率は5以上であったと推定されている。ただし、エジプトに残る調査では結婚したことのある女性は全体の55%で、この55%の女性が出生子の85%を生んでいたことになるから、出産する女性としない女性との間には偏りが見られていたと考えられており、出産リスクも高く、母体の出産時死亡率は10%以上とされている。イエの存続を前提として女性たちには出産の義務が強く課せられていた一方で、出産は大きなリスクでもあり、上層階級になるほど妊娠出産を忌避して少子化傾向が強く、元老院家系の四分の三は二世代たらずで断絶している。

結婚時には女性に対して出産の義務が果たせるかどうかとともに、純潔であること、地位に応じて花嫁側が持参金「嫁資(ドス)」を用意することなど様々な義務が課されていた。出産の義務は上流階級や花嫁だけではなく女奴隷に対しても課されており、女性は母になるのが当然とされた社会であった。ただし「無手権婚」と呼ばれる結婚制度に基づき、妻となる女性が実父の娘としての地位のまま嫁ぎ、夫の権力に服す必要が無かったため、嫁ぎ先では比較的自由に振る舞うことが可能であり、また妻の側からの離婚の申し出も可能ではあったが、女性が権利を大きく制限されていたことにはかわりがない。

新生児を認知するかどうかは家父長に委ねられていたため、家父長が生まれた子を家族の一員と認めない場合、家父長権に基づいて嬰児殺しや嬰児遺棄が行われた。私生児や障害児の多くが殺されるか捨てられ、また遺棄されたのは男児より女児の方が二倍以上であったともいう。貴族は体面や恥の観念から、庶民は経済的理由から子殺しや捨子を行った。捨てられた子の中で生き残った者は長じて奴隷となり、労働力・戦闘力として戦争捕虜奴隷とともにローマの繁栄を支えることになる。一説には遺棄奴隷(「家内出生奴隷(ウェルナエ)」)は元首政期の奴隷人口780万人~1080万人の半数にも上ったともいう。

このようなローマの社会は日本でいうと、強い家父長権に基づくイエの存続を重視する支配階級、横行する嬰児殺しや嬰児遺棄の習慣、隷属した地位に置かれる女性たち、喧噪の大都市、繰り返し蔓延する伝染病などから江戸時代とオーバーラップして見える。前近代の一時的な繁栄を謳歌した様々な社会とローマとの比較を通じては、その繁栄の様子にではなく、社会の矛盾のあり方に何らかの共通点が見いだせるのかもしれない。

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