江戸時代農村の遊び日・休日

最近、江戸時代農村の祭礼や休日について興味があって、色々調べているときに図書館で「増補 村の遊び日―自治の源流を探る (人間選書)」という本をみかけ読んでみると面白かったので紹介。元々は1986年に発表された論考で、91年の補論とあわせて2003年に発行されたもので著者は長野県史の編纂主任という方のよう。

江戸時代の農村の休日についてのまとまった論考って、民衆史・社会史・民俗学関連の書籍で概論が説明されているぐらいで、(江戸時代農村の生活史は民俗学はもちろん、歴史学でも有名どころだと渡辺尚志先生や藤木久志先生が色々類書出しておられますが)専門書はともかく手頃な価格帯の書籍ではなかなか見つからなくて、郷土史関連の書籍を追いかけていく以外なかなか難しいので、長野県の事例が中心とはいえかなり貴重だし、三十年前の論考なのでここから大分研究は進んでいるのだろうという前提だが、色々発見があって面白かった。

単婚小家族からなる小規模自立農(小百姓)の登場による近世に特徴的な村落共同体の成立は十七世紀中葉から十八世紀初頭にかけてのことである。江戸幕府成立後の人口急増と大規模な新田開発を背景とした、中世以来の多くの家人を使用する家父長制的大規模家族の解体と従属農民の自立が背景にある。

近世的村落共同体の機能は農業生産に関る相互扶助・相互規制としてあらわれ、農作業を休む遊休日の設定も村の自治によっていた。遊休日の呼称は地域によって差があるが概ね、「遊び日(あそびひ・あそぶひ)」「休日(やすみび・やすむひ)」と呼ばれ、十八世紀から記録に登場しはじめる。言葉の使い分けに特徴がある地域とそうでない地域とがあるが、「遊び日」は村祭りや正月・盆・五節句などの祭礼日、「休日」は純粋に農作業を休む労働休日として使われることが多いようだ。

十八世紀初めごろには概ね「遊び日」は20~30日前後であったのが、十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて増加傾向を示し、50~60日、多い地域では80日以上になった。大和国山辺郡乙木村(現天理市)の文政六年(1823)の例では奉公人の年間実労働日数は男約240日、女300日であったようだが、この日数に対して奉公人から休日増加要求が強く出されていたらしい。「遊び日」の多くは祭礼型で、何かと理由をつけては様々なお祭りが次々と作られて「遊び日」とされていく。口実とされたのが疫病や火災・災害などへの対策で、秋葉社・金比羅社・伊勢・稲荷・天神・富士など様々な火除け・厄除けの流行神が次々と登場して村の祭礼に組み込まれていく。そして、この時期に「遊び日」の口実として作られた祭礼が現在まで民俗文化として各地に残されることになった。

特徴的なのが仙台伊達家領内の惣村であるという。奥羽地方は全体的に休日が多い地域だったようだが、仙台藩ではついに、文化二年(1805)、祭礼という口実の有無にかかわらず年間80日が休日となり、これはあくまで全休で半休も含むとさらに増えることとなっていた。他の地域がせいぜい40~60日に留まっていたから、休みが群を抜いて多く、さらに祭礼を口実としていないという点でも特殊例であるとされる。この理由ははっきりしていないが、有力な説として、度重なる飢饉や凶作・疫病によって『労働力不足の伊達領の農村では、高賃金・多休日・緩労働の好条件をもって他領の奉公人を誘致』(P122)しようとしていたのではないかとされている。ただ苛酷な環境を考えると農作業どころではなく休みを増やさざるを得なかったということかもしれない。

年間の「遊び日」は『毎年正月の惣百姓初寄合で決定、確認する方式』(P270)が一般的で、前もって日取りまで決められない進捗状況や天候に左右される田植・稲刈休みなどは後日『村役人が見計らって日取りを決めて触れをだすという方式』(P270)であった。また、これらとは別に、「願い遊び日」「不時遊び日」と呼ばれる、年初に決定される定例遊び日とは関係なくその都度村人がなんらかの理由をつけて願い出て村の遊び日に追加される遊休日があり、これらが十八世紀後半以降増大、これへの対応としての定例遊び日の増大があった。この遊び日の決定には領主も幕府も介入せず一切が村の自治に任されていたという。

遊休日増加をもたらした前提として『農業はじめ生産諸力の発達を基底とした労働日あたり実収益の向上』(P135)があり、その結果として『労働に明け暮れることにあきたりない農民のゆとりある生活への根強い希求』(P135)が圧力として強まったことがある。その圧力主体となったのが、年季奉公人層、下層農民層、若者組(若者仲間)の三者であったという。

まず年季奉公人たちは、十八世紀後半以降村に対して高賃金・多休日要求を強く出すようになり、その要求が特に畿内の村落を中心に受け入れられるようになっていった。次に天明期(1781~89)から化政期(1804~29)にかけて惣村では階層分化が進み富裕農民と下層農民との格差が顕著なものとなってくる。彼ら下層農民によって待遇の改善や地位の向上を求める「村方騒動」が各地で頻発し、また貧農や飢饉などで農地を失った人々が流民化して都市に流れ込むなど階層分化と流動化が大きく進んだことで、下層農民の要求は村の秩序維持の問題とも絡み、遊び日増加傾向となって表れた。

さらに「若者組(若者仲間)」と呼ばれる未婚あるいは青年~壮年期の男性からなる集団は近世以降の村落に広く見られるが、古川によると安永三年(1774)の岩村田藩(現在の長野県佐久市)の岩村田藩申渡という史料が若者組に関する史料上の初出で、『若者組はまさしく近世後期の所産』(P252)という。近世村落の階層分化と旧来の秩序の動揺によって若年層の地位が向上し、その結果、圧力集団としての若者組が形成されてくる。彼らは村の祭礼を取り仕切る役割を担っていたから、遊び日の増加を村落の指導者層に強く働きかけ、その遊び日増大要求の手法は『親から五人組頭や百姓代を通じて名主へという正常ルートをとらず、必ず「若者多数」が名主宅へ押しかけるという、いってみれば団体交渉的集団示威的な方法』(P147)を取っていたのだとされている。

『村共同体の年齢階梯的長幼序列、身分階層的上下秩序といった面から、五人組・村方三役といった村政機構まで、広範な、ほとんど全面的といってよい村共同体秩序の諸局面にわたって、ひさしく維持されつづけてきた慣行様式が、若者組・若者仲間によってかきみだされ、揺り動かされ、破綻させられる。』(P253)

休日を巡る攻防が、流動化する社会を背景として秩序そのものを揺るがすようになって、幕府・領主も不介入の原則を覆して規制に乗り出し始める。といってもやはり直接介入は避けて村々に「村法」を定めさせて自粛に委ね、あわせて奢侈や遊興の制限や新たな遊び日制定の禁止などを定めた。さらに、文政十年(1827)に関東の農村に対して行われた文政の改革では若者組の祭礼興行権の否定と若者組の解散などが定められて取締りが行われた。

しかし、これで若者組が消滅することはなく、むしろ、若者組が村の組織として確立されていくことになるのだという。幕府・領主の指示に反して、若者組の解散がみられたのはわずかで、多くの村では『若者組の存続を前提とし、彼らに若者組議定書をつくらせ、また若者惣代の権限を公認』(P260)して村の組織に取り込んでいった。領主と村人との間に立つ村役人層は若者組を規制しても益が無いと判断して若者組の『自制自律機能の強化に期待をかけ』(P273)、むしろ村の存続のために若者組の意向を組みつつ『陰に陽に領主権力に抵抗した』(P273)。

このような社会背景があっての近世後期の村の遊び日の増加というわけだ。

先日紹介した幕末に日本を訪れた女性宣教師マーガレット・バラが「外国人だけがこの動乱の原因ではなくて、外国と条約を結ぶ以前から、日本には革命の機運が熟していた」と喝破していたが(参照)、その後の「革命の機運」を胚胎していたのが、十八世紀末から始まる社会の流動化と十九世紀初頭から表面化する村落共同体秩序の動揺であり、その表出の一つの例として村の遊び日増加を巡る攻防も位置づけられるのだろう。古川は幕末の『各地のええじゃないかの少なからぬ部分が、まさしく願い遊び日・不時遊び日として実現している』(P276)ことに注目している。

福田アジオ論文「若者組と娘仲間」(綾部恒雄監修「結衆・結社の日本史(結社の世界史1)」2006年収録)によると、「若者組」「若者仲間」については、古い理解では柳田國男影響で若者組と娘組との集団交際から結婚相手を見つけるという結婚の関係での把握で捉えられるか、明治末以降組織される村の青年団の前史としての教育・労働組織の機能として捉えられていたが、近年では『若者組は教育機関であり婚姻統制機関であるという考えは、安易な理解に基づく単純化の結果であったことがわかってきた』(福田P78)という。村落の制度として秩序維持・労働組織の機能を担う「若者組」と『同年齢か数歳前後の気の合った者たちが形成したグループ』(福田P78)である「若者仲間」が併存し、「若者仲間」は一つの村落に複数存在して、「若者組」と「若者仲間」の両方に所属していたとされている。

また、「村八分」が実は近世後期~近代になって強まったということを井上忠司「世間体の構造」は指摘しているが、この遊び日を巡る構図からもそれが窺える。つまり、若者組や下層農民らによる村方騒動の統制のために、十九世紀初頭以降幕府・領主は村々に「村法」を定めさせて村内での制裁や自粛を促す政策を取るが、これへの違反に対する制裁のひとつが「村八分」であった。村八分は火事と葬祭以外の八分を絶交すると言われているが、実は『こじつけで、八分はハブクの変化したもの』(吉川弘文館「図説 日本民俗学」P128)である。社会の流動化は村落共同体の秩序維持を困難にさせていく一方だったから、近世後期以降、「村八分」が表面化したという流れであろう。

村の自治に任されていた休日は、明治維新以降大きく変わっていく。明治五年(1872)、太陽暦が導入され古くからの五節句等が排除、祝祭日と日曜日を休日とする政策を取る。国民国家の建設と休日の国家管理とは同時進行で進められていく。明治政府の西南戦争後の財政危機と大規模なインフレ解消のためのデフレ経済政策(松方デフレ)が格差拡大を招き貧困層・賃金労働者層の増大をもたらしたが、彼らが故郷から都会へ出て働くことになる工場は農村の休日とは関係なく、国定の休日もなく、さらには一日の労働時間すらも定まらない劣悪な環境が少なくなかった。また、明治末以降の地方改良運動で農村固有の祝日は次第に失われていき、第二次大戦を経て高度経済成長期に旧来の村は完全に解体、同時に村の自治の元に定められた固有の休日も消滅した。祭礼は戦前に国家神道下で再編されて神社・仏閣の管理下へと移りその多くは消滅するか日祝日に移動されて形を変えて残っていくという経緯を辿る。

江戸時代とは比べ物にならないほど休日の過ごし方は多様で豊かになったし、その数も大きく増えている。江戸時代の農民の多くは村の中で生涯を終えたのに対して現代人は休日には海外旅行を楽しんだりするし、進歩は疑う余地がないだろう。一方で、”自律的な休日の取得”については、「ブラック企業」がバズワードとして社会問題化しているように、近世から現代に到るまで、時に人々の命すらも奪い社会秩序を揺るがす問題であり続けている。

参考書籍

増補 村の遊び日―自治の源流を探る (人間選書)
古川 貞雄
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結衆・結社の日本史 (結社の世界史)
山川出版社
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「世間体」の構造  社会心理史への試み (講談社学術文庫)
井上 忠司
講談社
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図説 日本民俗学
図説 日本民俗学
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人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫 (1430))
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