「ロボット(R.U.R.)(岩波文庫)」カレル・チャペック 著

チェコの劇作家カレル・チャペック(1890-1938)によって1920年に発表されたSFの代表的古典作品の一つ。現在、広く使われる「ロボット」という語はこの戯曲のためにチャペックによって考案された言葉であった。チャペックの死後50年を経て著作権保護期間も終了し、現在では岩波文庫版の他、青空文庫(参照)やamazonキンドル(参照)などで新訳が公開されている。

チャペックによると本作に登場する人造人間を表す言葉について画家である兄のヨゼフ・チャペックに相談したところ、「ロボット」という語を提案されたという。“robot”はチェコ語で「賦役」を意味する”robota”からaを除いたもので、同系統であるスラブ語派のロシア語では” Работа”(rabota)は「労働」を意味し、ゲルマン語派のドイツ語で同じく労働を意味する”Arbeit”とも関係がある語だとされる。

何故、賦役や労働を意味する語を使ったのか、それはこの本で描かれる「ロボット」が人間に代わって労働・賦役を行う従属した立場として描かれているからだ。チャペックはキリスト者の立場から、当時怒涛の勢いで進歩する機械文明への批判的意味を込めてこの戯曲を創作した。

舞台は執筆時(1920年)からすると近未来の世界、少なくとも1932年以降という設定のようだ。1932年にある科学者ロッスムが人造人間を開発しうる新物質を発見、様々な実験を繰り返すが悉く失敗し、それを受けついだロッスムの子が、余分な要素であるところの感情や魂を取り除くことで機械的に人造人間「ロボット」を造ることに成功する。登場人物はその量産化を行う企業R・U・R社の人々だ。

本作で描かれる「ロボット」は人間と見分けがつかないほどの外見を持ち、知性を備えているが、意志、感情、魂を持たず、従順で安価で休みしらずの人間よりもはるかに効率的な労働者である。『労働者を人工的に作るということはディーゼルエンジンを作るのと同じです。製造は出来るだけ単純でなければならず、製品は実用的にベストでなければならないのです』(P24)。そして実用的にベストな労働者とは何か?『経費がかからない奴』(P24)だ。低コストで大量生産でき、かつ圧倒的な作業効率の労働者である。

チャペックは労働者だけでなく、当時の社会が孕んでいた様々な矛盾や差別を受けていた人々――少数民族や女性――をロボットに投影させている。ヒロインにあたる人道活動家のヘレナはロボットのおかれた境遇を『インディアンより悪い』(P39)と嘆く。主人公ドミンは進歩主義的で一見紳士的だが、ロボットに対してだけでなく、女性に対して見下した意識を紳士的な振る舞いで覆い隠した人物として描かれており、その女性の立場を軽視した振る舞いが、後半の致命的な失敗への伏線となっている。「ロボット」とそれを取り巻く人々の描き方からはチャペックの当時の社会に対する問題意識が垣間見える。

労働力としてなら性別は不要なはずだが、何故女性型のロボットを作ったのか?ドミンはこともなげにこう答えている。

『一定の需要があるからです、お分かりですか?女中とか、売り子とか、タイピストとかで――人がそれに慣れているものですから。』(P54)

人間に代わる労働力として働かされていたロボットはやがて「バルカンの戦争」で戦闘員として人間の大量殺戮をさせられる。労働力として、軍事力としてロボット需要は高まる一方で、人類に欠かせないものとなっていった。しかし、ロボットに依存し労働する必要が無くなった人類に異変がおきる。子供が全く生まれなくなったのだ。人類が存続の危機に陥る中、ついに従順であったはずのロボットたちが全人類に対する絶滅戦争を唱えて総攻撃を開始、滅亡の足音が目の前に迫ってくる・・・以後、キリスト者らしい結末へと劇的な展開を見せていき、今読んでも本当にドラマティックで面白い。

「ロボット」に取り囲まれたR・U・R社の人々が醜い仲違いを始める、そのやり取りが非常に象徴的である。

進歩主義者である社長ハリー・ドミンは「ロボット」の製造をこう正当化する。

『君は私がたったの一時間でも配当のために働いたと思うかね?(テーブルをたたく)自分のためにしたのさ、きいているのかね?自分の満足のためにしたのさ。私は人間が主人になることを望んだのだ!もう、ひときれのパンのために生きなくていいように!もうそのいまいましい社会のつまらぬものが何も、何一つ残らないようにと、一人の人でもわけのわからぬ機械のところでばかにならないことを私は望んだのだ。ああ、辱めとか痛みを見るのは耐えがたいし、貧困は大きらいだ!新しい世代を私は望んだのだ!』(P125-126)

ドミンは人類を労働という苦役から解放し、『制限されることのない、自由な、至高の人たちを造ろうとした』(P126)という。

敬虔なキリスト教徒である建築士のアルクビストはこう弾劾する。

『私は科学を弾劾する!技術を弾劾する!ドミンを!自分を!自分たち全員を!われわれ、われわれに罪がある。自分たちの誇大妄想のために、誰かの利益のために、進歩のために、いったいどんな偉大なことのためにわれわれは人類を滅ぼしたのであろうか。さあ、その偉大さのために破滅するがよい!』(P130)

財政家であったブスマンは、市場主義者的立場から彼らの欺瞞を指摘する。

『あんたって人は結構なお方さ!生産の主人公が社長だなんて考えているのかね?そんなことなんて、生産をつかさどっているのは需要です。世界中が自分のロボットを欲しがったのです。われわれはただその需要の雪崩に乗せられていたのです。それなのにまだ――技術がどうとか、社会的問題だとか、進歩だとか、もろもろのとても面白いことについて、ベチャベチャながながとつまらぬ話をやっていたのです。まるで、そのおしゃべりが雪崩の落ちる方向を決めるかのように。ところがそうこうしているうちに自分の重さで何もかも動きだし、しだいに速くなり、どんどん速く走ったのです――それに、よからぬ、商人どもの、不浄な注文の一つ一つがその雪崩に一石を加えたのです。そういうわけです諸君。』(P138)

「ロボット」という名の社会的矛盾が人類を滅ぼすとき、チャペックが浮き彫りにしたのは当時の様々な思想的潮流の欺瞞であった。象徴的に単純化されているが、進歩主義者は解放と自由という夢想に駆られて社会の矛盾を無視し、キリスト教保守派は進歩主義と近代科学を呪うだけで、伝統的な市場主義は需要と供給からしか世界を見ない。

米国の思想史に例を採ろう。1920年代、進歩主義とキリスト教保守主義の価値を巡る対立は進歩主義の勝利に終わり、キリスト教保守主義は社会から排除されて次第に先鋭化、キリスト教原理主義の誕生へと繋がっていく。キリスト教保守主義に代わって伝統重視の穏健な人々の受け皿として保守主義が登場、しかし、保守主義もレッセフェール的な伝統的市場主義も1930年代の経済危機に有効な手をなんら打てず支持を失い、一方で単純な進歩主義に対する懐疑も強まり、進歩主義から胚胎されたリベラリズムが力をつけて恐慌を乗り越え、第二次世界大戦を経て1960年代まで世界的にリベラルの時代が到来する。マイノリティの地位が向上し、自由と平等が次々と実現されるが、一方で大きな政府路線による財政赤字と行き過ぎた自由に対する批判が強まり、リベラリズムの限界が露呈した。

この間、思想や実践的理論を整えた保守主義、レッセフェール的理論から脱却して登場するリバタリアニズム、そして深く広く社会に根を張るキリスト教保守派がリベラルに対する反撃を開始し、保守主義の再生が始まる。小さな政府化による財政健全化は一定の成果を出したが、一方で世界的な市場主義の促進とともに進行した経済原理のドグマ化と保守主義・キリスト教原理主義の非妥協的頑迷さや排他性は、社会の対立を先鋭化させて、冷戦構造の崩壊以後2000年代までに行き詰まりを見せていく。

現代から、登場人物の口を借りて語られるそれぞれの立場の意見を眺めるとき、その将来に対する予言的な意味を持ってさえいるだろう。本作で「ロボット」が巻き起こした人類の醜い仲違いは、現代においても象徴的だ。「ロボット」が象徴する「賦役」「労働」の問題は、チャペックが書いた1920年代と比べると確かに大きく前進したが、一方で冷戦構造下では自由民主主義体制と共産主義体制という対立構造へと絡め取られて、その矛盾を内包したまま、現代でも重要な問題として残されている。マイノリティや性差の問題も同様だ。チャペックが「ロボット」として描いた社会の被抑圧者たちのおかれた環境や、それを生む社会構造は形を変えつつも、差別や抑圧を再生産し続けている。

「ロボット」という言葉はチャペックが本作で込めた社会的矛盾の象徴としての意味を越えて、およそ百年かけて普遍的、価値中立的な言葉として広く浸透した。「ロボット」という言葉に差別性を見るのは少なくとも一般的ではないといえる。一方で、「ロボット」をどのようなものとして想定するか、その描き方次第では、容易にチャペックの時代にまで遡り社会構造の矛盾や差別性を象徴することになる。「ロボット」に何を夢見るのか、その根本的な問いに戻るために、最初の「ロボット」を描いた本書は現代でも読む価値のある古典として輝いている。

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