シェーネラーとルエーガー~ヒトラーが範とした二人の反ユダヤ主義者

アドルフ・ヒトラーは「わが闘争」で強く影響を受けた人物として二人の政治家の名を挙げている。ゲオルク・フォン・シェーネラー(1842 – 1921)とカール・ルエーガー(1844 – 1910)はともに十九世紀末のオーストリアの政治家で、反ユダヤ主義の代表的な人物であった。

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オーストリア=ハンガリー二重帝国

1848年にパリで起こった革命はすぐに欧州中に波及してナポレオン戦争後の「ウィーン体制」を崩壊させる。オーストリアでも宰相メッテルニヒが追放され、自由主義派が政権を握るが先鋭化して混乱、やがて新皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の下で絶対主義体制が再建されるが自由主義派も強い影響力を持ち、両者の駆け引きの中で漸進的な自由主義的施策が打ち出されていく。

立憲主義体制への移行と自由主義化の契機となったのは「普墺戦争」(1866)の敗北である。ドイツの大半を失い、それまで主流派であったドイツ人が少数派に転落すると、オーストリア政府は1867年、国内で強い影響力を持つマジャール人と「和協(アウグスライヒ)」を結び、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」が成立する。フランツ=ヨーゼフ1世がオーストリア(ライタ以西)皇帝とハンガリー(ライタ以東)国王を兼ね、中央政府が両国の軍事・外交・財政を兼ねる以外は各領邦・都市の自治に大きく委ねる体制となり、自由主義派が伸張、1848年以降徐々に進行していたことではあるが、少数派の様々な権利が認められ、規制が次々と撤廃され、産業革命を背景に経済が飛躍的に伸び、様々な民族・宗教・文化が共存する多様性のある社会が築かれ、敗戦の痛手から復活して帝国の威信を取り戻しつつあった。

しかし、この繁栄は文字通り頂点に達した瞬間に弾け飛ぶことになる。1873年、帝国の復活を内外に知らしめるための万国博覧会がウィーンで開催されるが、ほぼ時を同じくして、ウィーン証券取引所で株式の大暴落が起きる。企業・銀行が次々と倒産し、物価が高騰、生き残った企業も多数の労働者を解雇して社会に失業者が溢れ、経済成長を牽引していた工場の生産が停滞、万国博覧会も大赤字を出して失敗に終わり、さらに追い打ちをかけるようにしてコレラが蔓延、オーストリア国内で1873年中に四三万六〇〇〇人が亡くなり、社会不安が増大、不況のスパイラルが帝国全土を覆う。この1873年のウィーン証券取引所の大暴落は全世界に波及して実に20年以上に及ぶ長期の世界的経済不況「大不況」(1873 – 1896)時代が到来する。

「大不況」への対応を巡って自由主義政権は有効な手を打てず、社会は行き詰まりを見せ始める。企業は生き残りを図って合併・カルテルの形成が進み、一方で雇用機会は縮小の一途を辿って経済格差が拡大、農村では小農経営が解体して農民層が分解、職を失った農民は職を求めて都市へ流入するか、移民として新天地アメリカへと去っていく。社会の流動化によって既存の社会秩序が大きく揺らいでいった。

十九世紀中盤までのオーストリアの経済成長を支えたのは勤勉なユダヤ系の人々であった。彼らの多くはドイツ人と同化して企業経営にその才能を発揮、政権の自由主義政策を背景として中産階級・富裕層へと成長した。ゆえに「大不況」時代の自由主義政権に対する批判が、一部のユダヤ系富裕層に対する批判として現れるのは自然な流れで、それはやがて人種としてのユダヤ人攻撃へと転化していく。

ゲオルク・フォン・シェーネラー

ゲオルク・フォン・シェーネラーは1842年、鉄道事業で一代で財を成して貴族にまでなった実業家マティアス・フォン・シェーネラーの子として生まれた。21歳までドイツの上級実科学校で学んだあと、父の斡旋で大貴族シュヴァルツェンベルク侯爵の領地で農業経営のノウハウを学び、1867年、父の領地ローゼナウの農場管理を任される。ここで彼は抜群の農業経営を行い、自ら農業団体を組織して多くの会員を抱え(近所に住んでいたヒトラーの祖父母もおそらくこの団体の会員で、父アロイスもシェーネラーと間接的にか直接的にかは不明だが関係があったといわれる)、農業指導なども行って人望を得て地域の名士としての地位を築くと、1873年、帝国議会議員に選出された。

農民たちの権利を代弁する自由主義左派として政治家のキャリアを始めたシェーネラーだったが、ほどなくして「ドイツ民族派」へと転向する。

二重帝国体制はマジャール人の民族的要求を認めることで成立したが、これに対してチェコ人も民族自治要求を強め、チェコ人に続いて様々な民族が次々と自己の権利を主張するようになる。1878年、「露土戦争」後のベルリン会議でロシアの伸長を抑えるためにオーストリア政府がボスニア・ヘルツェゴヴィナの施政権――後に帝国を滅ぼすことになる――を獲得すると、国内ドイツ人の影響力低下を懸念するドイツ人勢力が下野、議会は保守貴族やポーランド地主、チェコ人らからなる「鉄の環」が支配することとなり、その間も政権は不況に有効な手を打てない。

「大不況」と民族問題に対する政府の無策への批判の先陣を切ったのが「ドイツ民族派」で、その中でも特に先鋭化した一派の指導者となったのがシェーネラーであった。

1882年、シェーネラーは、後にオーストリア社会主義運動の指導者となるヴィクトール・アードラーやシオニズム運動の指導者テオドール・ヘルツルの盟友ハインリヒ・フリートユングらユダヤ系知識人とともに、「リンツ綱領」を結ぶ。報道や結社と集会の自由、農民と労働者の地位の確保、農業協同組合と労働組合の権利の拡大、そして唯一の公用語としてのドイツ語の使用とドイツ文化の優先などが唱えられた。自由主義的主張とドイツ民族的主張の混交で、彼は少数派として地位を脅かされている(と彼が感じている)ドイツ人の権利の保護のため、ドイツ帝国とオーストリア帝国の統一によるドイツ民族国家の建設を夢見ていた。

まずシェーネラーが敵と考えたのがカトリックである。普遍主義的なカトリックは民族主義の敵であった。カトリックの普遍主義の否定からキリスト教徒のゲルマン人すなわちアーリア人学校の要求へ、さらにキリストそのものの否定へと主張がどんどんエスカレートしていき、『キリスト教の創設者はユダヤ女の息子であり、ダビデの後継であって、けっしてアーリア人ではない』(村山P57)とキリスト教の否定がユダヤ人の否定へと飛躍するのも時間の問題であった。

ユダヤ系知識人とともに結んだ「リンツ綱領」にユダヤ人排除の項目が設けられ、ユダヤ系知識人たちは離反、彼の反ユダヤ主義的言動は歯止めが利かなくなる。小規模事業者たちの間で開催されたユダヤ系大規模企業に対する反対集会に出向いて煽動したり、帝国議会でユダヤ人を「ゲルマン民族の崇高な肉体に消し去りがたい傷跡を残した国際的掠奪者」(村山P63)と演説したり、積極的かつ暴力的なユダヤ人排除の言動を繰り返す。

1888年にはリベラル派の新聞社を襲撃して「ここが奴等の、このろくでなしのユダヤ新聞の仕事場だ」(村山P30)などと演説をぶって大暴れして逮捕され、議席剥奪の上で五年間の公民権停止処分を受けてしまう。これが彼の政治生命を大きく損なうこととなった。1897年に彼は政界復帰するが、すでに彼の支持層は雲散霧消して、彼の政党も党としての体を為さず、結局失脚、ローゼナウ農場に引きこもって酒浸りの晩年を送り、1921年に静かにこの世を去った。

シェーネラー個人について言えば、戦略も戦術もへったくれもなく、ただ後先考えず感情の赴くままに行動して自滅しただけの三流政治家としての評価が妥当だが、彼の汎ドイツ主義は確かに当時の世相を強く反映しており、多くの人々に届くものであった。ドイツとオーストリアの民族的統一、反キリスト教、反大規模資本、反ユダヤ、アーリア人の優越、これらを非常に下品にわかりやすく伝えたことで、後世の人々に強い影響を与えることになった。

アドルフ・ヒトラーは「わが闘争」でシェーネラーをこう称賛する。

『当時すでにシェーネラーは原理的な問題では、いっそうすぐれた、いっそう根本的な思想家であるように思えた。』(「わが闘争(上)」P137)

『また汎ドイツ党の考えたすべてのことは、理論的に見れば正しかった。だが同時にその理論的認識を大衆に伝えたり、もともとつねに限られたものである大衆の理解力に適応した形でそれをもちこんだりする力と理解力とを欠いていたために、すべての認識はまさしく、ただ予言者的知識であり、いつも実際に現実化しうることがなかった。』(「わが闘争(上)」P138)

「根本的な思想家」シェーネラーの原理を現実化させるために、アドルフ・ヒトラーはもう一人の人物にその実践的手法の範を求めることになる。

カール・ルエーガー

失敗者シェーネラーと反対にカール・ルエーガーはウィーン市長を十三年にわたって務めた成功者である。しかもその市政は歴代屈指の成果を残したことで、現在でもその名を残している。抜群の調整力を発揮した政治家の顔、卓越した行政官の顔、そして、人々の憎悪を駆り立てるデマゴーグの顔の共存が彼の特徴であった。

カール・ルエーガーは1844年、大学の守衛として生計を立てる貧しい労働者レオポルト・ルエーガーの長男として生まれた。貧困の中苦学して名門ウィーン大学に進学し法学を学んで優秀な成績で卒業、1868年弁護士事務所に司法見習いとして勤め、1871年、弁護士資格を得て独立する。当時、自由主義改革の一環で結社の自由が認められて様々なクラブがウィーンに登場しており、ルエーガーはその中の一つ自由主義派の「市民クラブ」の指導者に才能を認められて、1875年、31歳で市議会議員補欠選挙に出馬、最年少議員として議席を獲得する。

市議会議員になってからのルエーガーは精力的に活動を始める。自党出身の市長による市政の腐敗を追及して党を追放されるがそれでもあきらめず、ついに市長自身の汚職を追及して市長を辞職に追い込むと、野党勢力を結集して「統一左派」を結成、36歳でその指導者になる。順風満帆に見えたが、保守派の首相との密会や他の市議との対立などで信用が失墜し、ついに孤立して支持基盤も失い困難な立場に追い込まれることになった。

そこでルエーガーが新たな支持者層として接近したのが小規模自営業者たちだった。ユダヤ系の大規模金融業者や大工場主に脅かされていた彼らは経済的利益を守るべく当時広がりつつあった反ユダヤ的傾向を強く持っており、ルエーガーは彼らの支持取り込みを狙って、次第に反ユダヤ主義的な主張を演説に織り交ぜるようになる。「反ユダヤ」を旗印に彼ら小自営業者の支持に支えられて苦境を脱し、勢力を拡大したルエーガーがさらなる勢力拡大のために接近したのが、カトリックであった。

当時、オーストリアのカトリックは勢力再生のために社会運動としての理論を整えつつあった。『自由主義的資本主義を批判し、これに対して中世社会をモデルに、職能身分団体を単位とする社会編成を構想するキリスト教社会主義』(田口P96)で、ルエーガーはこの運動家たちに接近、たちまち「キリスト教社会連盟」の指導者に収まって見せた。民主派から反ユダヤ・キリスト教社会主義派へ華麗な転身を遂げて、支持基盤を整えると、彼の率いるキリスト教社会主義勢力はウィーン市議会に確固たる地位を確保していく。

ルエーガーは選挙戦術として市民派のアピールのために、煽動的な反ユダヤ主義演説を巧みに織り込んで、整ったルックスと巧みな弁説とで支持を拡大、1895年の総選挙ではついにルエーガー率いる「キリスト教社会党」が一三八議席中九二議席の圧倒的多数を確保してルエーガー自身もウィーン市長に名乗りを上げた。しかし、彼の反ユダヤ主義的言動に中央政府の自由主義派や皇帝フランツ・ヨーゼフ1世も嫌悪感を示し、結局副市長とされる。だが、すぐにチャンスが巡ってくる。翌97年、帝国議会選挙でも自由主義派が大敗、キリスト教社会党、ドイツ民族派、社会民主党が多数を握り、ルエーガーのウィーン市長就任を皇帝も自由主義派も認めざるを得なくなった。

市長に就任してからのルエーガーは強力なリーダーシップと巧みな調整力で次々と成果を残す。ガス事業市営化によるガス供給安定化、路面交通の市営化による交通網の整備、上下水道の整備による飲料水の安定供給、発電所の建設による一般家庭向け電力供給、公共教育機関の整備、貧困救済措置、公園整備など現代ウィーンの都市基盤はほぼルエーガーの代に整えられたと言って良い。市場経済に任せる自由主義派の市政の行き詰まりを福祉・都市基盤の公共化によって打破したもので、業績としては史上随一のウィーン市長であった。一方で公営化のツケは膨大な市財政の赤字として跳ね返ってきており、また住宅政策の貧困による都市のスラム化など暗部もまた少なくない。

だが、なんといってもその強いリーダーシップの源泉には反ユダヤ主義という、特定の層を敢えて憎むべき敵として、支持者の団結を誘うデマゴーグ的手法があった。

「ウィーンの最後の一人のユダヤ人をプラターで見世物にする日がくることを一日千秋の思いで待っている」(村山P84)
「どこに行っても、ユダヤ人しかいない。劇場へ行っても、ユダヤ人しかいない。リンク通りに行っても、ユダヤ人しかいない。コンサートに行ってもユダヤ人しかいない。舞踏会に行っても、ユダヤ人しかいない。大学へ行ってもユダヤ人しかいない。……われわれはキリスト教徒が抑圧されることにたいして戦う。」(村山P78)
「誰がユダヤ人であるかは、私が決める」(田口P135)

彼の反ユダヤ主義は、徹頭徹尾便宜上のもの、権力獲得の道具だった。おそらく自身は心の中で反ユダヤ主義的な狂信をあざ笑っていただろう。反ユダヤ演説を支持者に向けて語る一方で、ユダヤ人指導者を前にすると「わたしはウィーンのユダヤ人の敵ではない。」(村山P84)と熱く語りかけ、市政の資金協力をユダヤ系資本家に仰いですらいた。

1910年三月十日、在任のままルエーガーは病死し、市を挙げて盛大な葬儀が執り行われる。当時ウィーンに住んでいた青年ヒトラーも、彼の葬儀に集まった数十万の群衆の一人として、高揚しながら彼の死を悼んでいる。

『内心に感動を覚えながら、その時この男の仕事もまた、この国を滅亡に導くにちがいない必然的な宿命によって無に帰せざるをえなかったのだ、という感じをもった。カール・ルエーガー博士がドイツに生まれていたならば、かれはわが民族の偉大な人物の列に伍したであろう。かれがこの何もできぬ国で働いたということが、かれの業績および自身にとって不幸であった。』(「わが闘争(上)」P166)

青年ヒトラーは考えた。自身がシェーネラーの思想をルエーガーの手法を使いドイツで実現させることで、『わが民族の偉大な人物の列に伍し』たいと。ヒトラーは『かれがヴィーン市長としてなしとげたことは、最もよい意味で不滅である』(「わが闘争(上)」P140)と手放しで賞賛する。ヒトラーは「わが闘争」でシェーネラーの失敗とルエーガーの成功について彼なりに分析を行っている。

ルエーガーの死に際して、ルエーガーの政敵であった社会民主党の機関紙「労働者新聞」はルエーガーの生涯をこう総括した。

「ルエーガーこそ、大衆を計算にいれ、大衆を動かし、地の底にまで力の源泉をもとめた最初のブルジョア政治家である。同時に彼は、民主主義の崇高な理念をデマゴギーに変えてしまい、単なる競争相手を絶滅すべき敵と表現してしまった。」(田口P134)

四半世紀の後、この新聞記事は後継者の手によって最悪の予言として実現する。

参考書籍・リンク
・田口晃著「ウィーン―都市の近代 (岩波新書)
・村山雅人著「反ユダヤ主義―世紀末ウィーンの政治と文化 (講談社選書メチエ)
・アドルフ・ヒトラー著「わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)
・ヴォルフガング・シュトラール著「アドルフ・ヒトラーの一族―独裁者の隠された血筋
・南塚信吾編「ドナウ・ヨーロッパ史 (世界各国史)
大不況 (1873年-1896年) – Wikipedia

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